猫の島に、“つむぎ”をつれて渡る。
島には、男の子が飼っているスパークと云う名前の雄犬が一匹だけいる。
スパークも、“つむぎ”を見て、女の子が珍しいのか少し興奮気味であった。
“つむぎ”は、いつも猫の“カトリ”と一緒にいるから、猫を見ても吠えないけれど、島に観光で来ている人のうちの“怪しい”と思うひとに遭うと、うなり声を出して吠えていた。
そして島を散策していたら、耕作が放棄された畑の跡地と思しきところに自生している桑が何株かあるのを見つけたので、神社のところで出会った、おばあさんたちに聞いてみた。
このおばあさん達の親の時代に、この島でも養蚕があった。
左のおばあさんは若い頃に岡山の製絲工場に働きに出た。
成績が優秀だったから、福井の方にも教えに行ったこともある。
ふたりのおばあさんは、島で採れる野菜は甘くて美味しいという。
島の話や、養蚕の話を、御聞かせ願うという事は、おばあさん達が歩んだ人生について御聞かせ願うという事に等しい。
だから、わたしは自分の聞きたいことだけを聞くと云うようなことはしないで、色んな噺が紡ぎ出されてくる自然な流れに委ねてゆく。
お話しを伺っていて、言葉が岡山弁に似ているという印象が残った。
男木島と女木島を併せた雌雄島村は、幕政時代は天領に属し岡山倉敷代官の統括地であったと云う。
戦前の農産物を紐解けば、米・麥(麦)・雑穀・甘藷・南瓜・除虫菊・茸類・梅・柿・養蚕・養鶏・牧畜、そして林業産物として薪炭・木材を産出したとある。
男木島で産出する蔬菜類の甘藷と南瓜は、特に品質可良と特筆されているので、おばあさん達が仰られていた通りであった。
また、養鶏と牧畜は、男木島と女木島であわせて、牛180頭、豚30頭、鶏2000羽の飼育があったと云う。雌雄島村では、男子が漁業に従事し、主に女子によって農業が営まれた。
だから、島の養蚕は、女子によって営まれた副業的な養蚕であったと考えられる。
富岡製絲場の出現に象徴されるものは、日本が20世紀に歩んだ均一品質なものの大量生産、大量消費の魁であった。そして、その量産をささえた大量飼育の養蚕手法。
わたしは、地域文化を破壊していった、そういうものを見るよりも、養蚕や製絲を軸として浮かび上がる地域の生活文化に興味があるし、そこをこれからも変わらず見つめつづけてゆきたい。