もういちど、再開しようと思います。



梅田 望夫, 茂木 健一郎
フューチャリスト宣言




梅田氏は、著書の中で「狂気」という言葉を何回か使っている。

本当に好きなものを突き詰める勇気。


僕にとっては、本当にやりたかったであろうことは、

常に頭の片隅にある。もうひとつの人生がパラレルで進行している。

ならば、僕はきっとそれを職業として選んでいただろう。

それは、今の僕が考えても、突き詰めれるものであり、

朝から晩まで従事できるものであり、

実力勝負のものであり、個人の結果がすべてのものである。


個人という枠組みの中で、生きていきたい。

という自分と、組織として最大限の能力をみながだしきって

何かをするということに、同時に惹かれる。

一人で生きていくことと複数人で生きていくことの渇望。


まとまった時間もあり、読みました。


大前 研一, 吉良 直人
大前研一 新・経済原論

気になったのは、


①フィンランドは携帯、アイルランドはアウトソーシングに


 特化して生き残りをかけた。結果、グローバル化して成功した。


 外への開放を追求、英語が共通語になっていることが企業の進出


 に壁をつくらなった。



②地域がグローバル化することで発展。


 中国では、国を脅かさなければ、都市が活性化、繁栄し、

 利益を享受するのを認める方針。よって、中国では国の繁栄


 より、都市毎の特色と反映が目立つ。

 ここでのポイントも、外への開放。大連は、ビジネスプロセス


 アウトソーシングで発展しているが、付随して観光産業まで発展。

 

③イタリアのカルピという町は衣料品全般を生産していたが、


 ニットウェアに特化することによって、ベトナムや中国の

 低コスト製品に対向し、同時に特化することでグローバル化


 することができた。




地域や国という単位から見ると、他国の企業の受け入れ障壁を


なくすことや、何かの分野を選らんで研究を集中させることは

きれいな解だなあと思わなくはない。しかし、既存の一企業が


知らない土地へ進出していったり、何かを選択し、同時に捨て、


資源を集中する決断を行うのはやはり相当なパワーがいると思う。



徹底的な分析と、従業員に提示できる判断根拠、


その上で組織全体への浸透。が必要なんじゃないかなと思う。




どんな組織でもそうだと思うけど、


・「現在」、業界、市場でポジションを確保できているサービス


・「将来」において、優位性を確保できる可能性のあるサービス

・自社、または市場のポテンシャルにかけた、まったく新規のサービス



これを経営層や一従業員も自問しておくのは重要。




話はとんで、この本を読んで、株式会社はてななんか、


社長夫妻がシリコンバレーにいって、


数年後には一気にグローバル展開しそうだなと思った。

会議は日本とアメリカで、英語で行われ、インドの従業員たちが多くなったりと。




投資家向けのカカクコムの企業研究会に参加した。


家に戻ってきて、久しぶりにTOPページを見たらカテゴリ


がたくさんあった。


カカクコムといえば、PCや家電、デジタル製品という、


いわゆる耐久消費財の比較をしているサイトというイメージだけど、


保険、中古車、ペットというカテゴリもあって、なんだかにぎわっている


ように見える。



むかしは、こういったポータルサイトのようなものを運営している


会社がどうやって、売上と利益を出しているのだろうと


不思議に思っていた。



実際、カカクコムの場合は、


ユーザがPC等の製品を購入したときにカカクコムに支払われる


アフィリエイトフィーの5%や、カカクコムからのリンク先の他店舗


への送客単価15円、といった、顧客を他社へ流すことで

得られるフィーが中心となっていて、こういった細かい金額の積み重ねで、


主な売上が作られているようだ。



また、出店店舗数とか、PVとか会員数とかの情報を使えば、より


数値も出すことが算出することができる。たとえば一店舗あたり



524クリックベース/日の送客があるんだなあ、とか。


一店舗あたりカカクコムに支払う金額は、78600円/月 発生するなあとか。



もし、一送客に占めるCVRが0.5%として2.5件。月75件で単価2万円


の原価6割と仮定すると、600,000万の粗利。それで78600円をどう見るか、


という評価になっていく。


こんな感じでビジネスモデルを評価していくことになる。


携帯サイトのビジネスとまったく同じだ。WEBと携帯のプレイヤーは


切り離されているけど、きっと携帯がWEBを真似たのだろう。



以前、WBSかなにかの番組で、カカクコムの保険のカテゴリから、


保険の資料を一括請求した人に、カカクコムの人が、電話営業を


している場面をみたことがある。カカクコムはフラットという位置づけなので、


顧客思考にたてるのだ、とかいう話だった。



病院の医師、人間ドッグ、動物病院、家具、新車、車のパーツ。


比較一覧と、絞り込まれた製品のコミュニティ、こういった案が会場内で


話にのぼった。比較という切り口で、ユーザにとってあったら便利で、


事業として成り立ちそうなカテゴリを考える人たちが100人の社員の中で、


40人いるらしい。40人って大きい。


長期的に活躍しそうな会社だなあと思ったのと同時に、携帯分野に


本格参入してきたらとても脅威だ。と思った。















最近、学生時代によくそうしていたように、


小説を読むことが多くなった。



いままではどちらかというと、科学だとか、小説だと、芸術だとか、


なにかしら、普遍的なものに惹かれていたのだけれど、


もう少し、日常というのを大切にしていきたいと思いはじめた。




それは、何人かの人が言っているとおり、普遍的なものと日常は、表と裏の関係で、


僕らが平凡でなにも変わりないと思っている日常においてでも、ぞっとするような狂気や


確かな喜びや、どの時代にもあてはまる普遍性は存在し、それを形作ったものから、


僕はなにかを見出したいと思う。



そんなわけで、現代の日常を書いている日本の小説とは、いったいどんな


ものなんだろうと思って読んでみた。



『きょうのできごと 』


 柴崎友香



話はそれて、村上春樹もよくよむけれど、彼の小説の日常と、僕の


日常はリンクしない。彼の書いていることは


僕にとっての真実だけど、彼の小説の中の世界は


僕にとっての現実じゃない。



でも、この小説はもしかしたら、現代に生活している僕らの日常を、


穏やかな印象としてでも、鋭くきりとってでも、なんでもいいからなにかの形で、


日常を通して僕に共感をもたらしてくれはしないか、


と期待して、読んだ。



とくに、心に残る言葉とか、場面とかはなかった。


ただ、学生のとき、たしかにあったんじゃないかなあ、こんな感じの空気感。


という感覚を、懐かしく思い出した。



たとえば、現代における

ソーシャルネットワーキングに参加する人の、ちょっと高めのテンション


(それがきっと必要とされている)とは違う、風景のような会話がとんとんと


なされていく展開が、かつて僕の学生時代にもあった。



一緒にいる理由がとくにない友達と、高揚も絶望もなく、いきつくこともない会話をしていた


日常があった頃が懐かく思い出されて、そしていまもそういったたあいもない記憶が残っている


ことをあらためて感じ、あのころは、あれはあれで楽しかったなと思う、と思えたことがよかった。



このブログが残っているかぎり、


この小説が手元にあるかぎりは、またこの小説を思い出す可能性はあるだろうけれど、


たぶん、なにもなければ僕のこの日常からは忘れてしまうと思う。




転職してからというもの、仕事の結果と、その厳しさを知るようになった。


仕事の結果は、数値となり、だれのせいにもならず、常に自分の責任になっていく。


そして、時間の使い方や、仕事の効率において、ひとつひとつ厳しくならざるを


おえないくなる。ある程度は、確立したと思っていた仕事の仕方、仕事への


考え方を改めて見直さなければならない。



そして、最近、知り合いたちから直接的、間接的に学んだ、


自分の力で生きていくことの大変さ。とくに自由業、自営業の人たち。



自分が転職するようになって、彼らの気持ちがいたいほどわかるように


なってきた。自分で結果をださないかぎり、自分の未来の保障はない。


いままで、なんとなく別世界のような気がしていたが、いまでは骨身に


しみてというか、簡単に想像できてしまう。自分の身に降りかかってくることへの重さが。



はっきりいってしまうと、きつい。でも、こういうのを成長していくというのだろうか。



明日から仕事なんだなあと思いつつ、情熱大陸と世界遺産を見る。


週末は、ぜんぜん違うことをやって過ごしたいと思いながら、

1/2は仕事をやって暮らしている。


そして、12時を回ったころからじょじょに仕事モードになっていく。


今週はあれもやらないと、これもやらないと、と思い、一週間のイメージが


たっていく。


でも、できることなら、切り替えなしにやりたい。


もうしばらく先には。



ひさびさにパスタを2夜連続で作った。


トマトとなすとベーコンのパスタとカルボナーラ。


トマトのパスタは、カフェの店主に教えてもらったやつを忠実に再現し、すでに2回作って


いるのだけど、味が決まらなくて、一口食べた瞬間2回とも思った。「なにかが足りない」


油とゆで汁の量と混ざり具合は絶妙(自画自賛)。塩の量も目分量だけど、正しい(と思っている)。


なのに、味がのらない。


そこで、


裏技を使うことにした。



アンチョビ。



大正解。



隠し味として効いていて、最後までおいしく食べれた。



この結果から推察すると、塩が足りなかったのかもしれない。


でも、もうこれからはアンチョビに頼ろう。

そして、カルボナーラ。



しつこかった。。



そして卵がだまになった。



しつこいカルボナーラはいけない。飽きてくる。


最初の一口が、ちょっと薄味だなって思って、よくかんでいくと味わいがでてくる、


というのが理想なのだろう。



あるカフェの店主と親しくなった。日中はずっとひとつの音楽が静かになっているが、


夜遅く行くと、僕の好きな音楽を流してくれたりする。


パスタもとてもおいしく、飽きない。


そのカフェの料理教室に通うようになった。


以前から料理教室には通いたいなと思っていたのだが、


親しくなったカフェの料理教室に通うことになるとは、人生とはわからない。



僕が学生だったころ、大学の近くには居心地のよい喫茶店がいくつかあった。


コーヒー一杯500円と、割と値段が高めだったので、学生が毎日気軽に


行くようなところではなかった。でも好きだったのでよく行って、長居した。



社会人になっても、自然食を食べさせるカフェ、クラシック喫茶、


並んで待つような有名店、歴史のある喫茶店、いくつか通った。



最近好きなのは、スタイルや価値観のようなものを、場の雰囲気としてかもし出し、


お客さんと語らずのコミュニケーションしていくようなカフェだ。



書くと難しいけれど、カフェという場をワンクッションに、あまり多くを語らずに


その場を通して、カフェのオーナーと客がつながっている、というイメージ。


能登カフェなんて、とてもよい。そしていま通っているカフェも、もちろん


そのひとつ。



ずいぶん更新を怠って、もう6月に入ってしまった。


5月は、まったく知らない物販事業についてずいぶん足を踏み入れた月だった。


商品を仕入れて、ユーザに届けるまでの、各工程について、


商品の受発注、倉庫での作業、物流の仕組み、そして、お金のながれ、


それぞれをひとつひとつ紐解くと、どこにコストがかかっているか、というのと、


物販事業をするためのコスト構造と損益分岐がみえてきた。


加えて、


売上データを分解していくと、どんなユーザ属性が、どの時間帯に


なにを購入しているのかというのが見えてくる。そして、


どういうキャッチだと効果があるだとか、テレビで取り上げられたタイミングだとか、


世の中一般での売れ筋だとか、ネットでの売れ筋だとかを考えて、商品を掲載して、


実際売上が伸びていく様をみると、これはとてもおもしろいというか興味深いと思った。



ただし、これはこの業界がまだまだ物販の黎明期であって、大手が着々とノウハウを


ためこんで、一気に資本を投下したら、それこそユーザは全部流れてしまう。


そのまえに、どれだけロイヤリティの高いサイトを作って、独自色を打ち立てられるかである。


そんなことを、マーチャンダイズ担当の人とよく話をした5月だった。