今日は事故った。(自転車故障、自分はかすり傷ですんだ、びっくりした。)


生きていると色んな事が起こる。

最近すごくそう思う。


1、ある日突然、歩道にいた自分目掛けて車が突進してくる。


2、ある日なんとなくネットしてると気付いたらアメブロに登録している。


生きていると色んな事がある。

予期せぬことが起こったりする、

なんでそうなるんだろうと不思議になるような変なことが起きたりする。

そうゆうのっておもしろいと思う。


最近の自分は普通に大学に通ってるだけだ。

特に何をやってるわけでもないのに、

それでも色んなことが起こる。

なかには嫌なこともあれば、嬉いことも起こる。

こうゆうのが人生っていうのかな。
まぁでも手放しに面白いとか言ってられないですよね。


死ぬときってそうゆう感じだと思いません?


いつでも死ぬ覚悟で生きていたいと思ってます。

別に気合を入れて生きるって意味じゃなくて、

幸せに生きるってそんな感じだろうなって思うからです。


人が死んだ時に悲しくなれるのって幸せな場合もありますよね。

なかには人が死ぬのを喜ぶ人もいるわけですから、憎んでる場合。

死ぬってなんでしょう、周りにいる人と別れるってことなんでしょうか?

だとしたら悲しいのかも知れないけど。

きっとまた僕の無知ですよね、人が死んで泣いたりしたことのない人間なんです。


時々そんな事を考えてると不幸が欲しくなってしまいます。

人の痛みがわからないのは悲しいことです。自分が嫌になります。

またテレビを見てたら悲しくなりました。

姉歯さんを追い回している報道陣の姿を見たからです。

酷いことを、なんで報道の人がそんな酷いことをするんですか?

罰を与えるのは報道の役割ではないのに。

事件が起こった時も、その遺族の家を報道が取り囲みます。


なんて貧しい国なんでしょう、

そんな事をしないと生きていけないなんて。


僕の言っている事は理想論です。

僕に人を裁く権利はありません、

誰かを攻撃するつもりもありません、

でも人が理想を失ったらますます酷いことになります。

だからまた書きました。


ホントにテレビを見ないようにする事も考えた方がいいかもしれませんね。

こんな記事を書くのも自分がテレビっ子に育ったからです。

かなりテレビが生活の一部になっているんです。

なんで見るのをやめないかと言うと多分、

素晴らしい番組の方が多いからだと思います。

好きな局はNHKとテレ東ですww。(ホントに好きです)

なんだかよくわからない。 いつもそうだ、 最近とくにそうだ。

苦しいって事はきっと何か原因があるはずなんだ

なにもわからないと言って悩むのは、

きっと自分が何かがわかるようになるって事だ。


そういえば自分は幼いころからいつも考えてた。

最初は簡単なことばかりだったから、考えればいつも答えが出た。

考え事の答えが出た時ってのはすごく気持ちいいものだから、

僕は考えることが好きだった。


そのうち難しいことを考えるようになった、

考えるっていうのは、考える上で必要な材料になるものが必要だ。

何もわからない人が考えるなんて無理なんだ。


その難しい考え事の答えがでた時は、気持ちいいなんてもんじゃなかった。

ひとつ人格が上がった気さえした。


幼いころからいろんな所で、「なんで?」 と言う子供だった。

親も先生もあんまり答えらえなかった。 例えば、

「雷はどうやってできるの?」(雷に大喜びする子だったww。)

そんな難しいこと聞いちゃダメだよねww。


今でもずっとそう、ずっと何でなのか考えてる。

自分が何を知らないのかさえわかってない。

でも絶対いつかそれは僕にもわかることだと思う、

そう思ってしまうからずっと考えてる。

それに、やっぱり苦しいからだと思う。

人間は不利な状況におかれて、何とかならないかと考え出すものでしょう。


僕は考えるのが好きな人です

なのに計画を立てるのが苦手です。

それは、未来のことを考えるのが苦痛だからだと思います。

そんな風に育てられました。


また、「考えるよりも先ず行動しろ。」と言う台詞も気になります。

行動できないから考えてるんですww

それに、行動を起こす元気とかエネルギーとか、

そうゆうのが無いからこんな状況なんです、

それにちょっと指先を動かすだけでも痛いんです。


そもそも、自分の考え癖がエスカレートしたのは

無意識でいる時の自分への嫌悪からです。

考えないで生活するってことはまるで、

檻から動物を放って暴れさせるようなものです。

そうです、僕はいつも何も知らない自分が罪を犯していくのが嫌で、

檻に入れていつも見張ってるんです。(これがホントの自己管理。

そりゃあたまには放牧もします、

でもその度に失敗して、また檻に帰って反省します。


檻が無くても安全と思えるようになるまで、檻を捨てるつもりはありません。

今僕が分からなくて困っているのは、自分の育てかたです。

この子をどうやって育てていけばいいんですか?

自分を育てるのはどうしても自分です、そう思うと自分が可哀想になるんです、

こんな無知な奴に育てられるなんて。


自分自身、笑えるほどにコンプレックスだらけ、

ふと周りを見渡せば、色んな所に出てくるコンプレックスに完全包囲されている。

動けないよwww


いつだって道は1つしかない、

自分で死ねないなら生きていくしかない、

生きている限り自分は成長してゆけるから大丈夫。


自分の今までの時間のどこに選択の余地があっただろう。

運命って言葉の意味がわからない、

過去になれば運命だって宿命と何も変わらない自然の摂理。


なぜだかこんなに無知な僕でも、後悔の無意味さだけはわかっていたみたいなんです。

それすら分かっていなかったらもっと酷かったのかな、と


後悔することを美化して、依存することを美化して、

ストーカーは邪恋を美化して、ロック少年はグロテスクなものが真実だと思い込んで、

結局みんな苦しんでる。




ブログをはじめて、一ヶ月くらいになる・・・。

いざやってみると思っていた以上に色んな意味で難しいし、更新頻度も思っていたよりも低い。

でも難しくて、色んな意味で危険が多いということは、もしかしたらそれだけ得るものもあるのかもしれない。


ブログ自体にはかなり昔から興味があった。

僕は小学校五年生くらいから、日記を書くのが習慣だった。

日記と称しているけど、実際はお笑い芸人が持つネタ帳のような形式のもので、思った事や、未来の自分に伝えたい言葉などを気が付いた時に書くものでした。

なので、日記と称して文章を書く事にはかなり慣れのようなものがありました。


僕がブログを知ったのは随分前の事で、流行にのってブログをはじめたわけではないんですね。

ネットをやり始めた時から日記サイトなどを閲覧していて興味を持っていました。昔はブログの数も少なかったし、なんかある時期からだんだん目に付くようになってきましたよね。


ブログをはじめたのはある朝突然の事です。

前々からやろうかとは思っていたんですが、難しいものだと予想していたので実行に移す気がしてなかったのです。

でも本当に突然、自分でもよくわからないまま何故か思い切りよく登録していました。

もともと無計画で気分次第な人間なんですが、今ではそういうご縁だったのかな、と思っています。


僕がブログを始めたのは、やはり掲示板とはまた違った形の発言がしたかったからだと思います。

掲示板はコミュニティー性に優れていますが、ブログのように1つの形になるものが作りたかったのです。

掲示板は語らいの場として適した構造をしています。ブログは適した構造だとは思いませんが何らかの形で語り合いが起こることがあります。

僕みたいな理屈好きの人間なら一度は思ったことがあるかと思うのですが。悩みを相談する掲示板に書き込んだ人が結局馴れ合いで終わったりすると「微妙だなぁ。」と感じたり。

ネット上の交流の中で、自分と違う意見を持つ人と話し合いになって、結局望んではいない結果になってお互いが悲しい思いをする事が起こったりします。


僕たち理屈好きの人間が掲示板などでお互いの意見を語り合う場合、何も頭ごなしに相手の見解を否定して自分の主張を相手に植え付けようと思って論議するような人は少ないと思います。

お互いの意見を交換することでお互いの磨きあいになるからです。

お互いの器量が足りない場合は喧嘩になったり、自分を否定されて悲しくなったりする事があります。


自殺を考えている人に批判的な態度をとってはいけない、同じく自傷行為をする人にリスカをやめろとは言ってはいけないなどという常識があります。


否定ってなんでしょう、誰でも自分を否定されると悲しくなったりします。

否定って、干渉に似ている気がします。


人は誰でも一人一人自分の世界というものを持っていると思います。それを否定したり干渉を加えたりしてると思えばもう人を否定することもないと思います。

一人一人の世界という事は、それは現実世界のように相対的なものではなく、幻想世界のように絶対的なものだからです。だから否定することは無意味になるんです。


おそらく大多数の人が人を裁く権利を持たない人だと思います。

たまに愛とか善意と称して、間違った道に進もうとしている人を強引にでも止めさせたりする事があります。

でもそれが本当に愛の場合は文句は無いんですが、たまに人を裁く権利など到底もっていないであろう人が、愛とか正義とかいって人に干渉を加えることがあります。


そんな事を言っている僕も人を軽蔑したり馬鹿にしたりすることがあります、でもその度に思うんです。

「そういえば俺に人を裁く権利なんかなかったな。」


前に愛の定義について記事を書きました。

愛は「無条件でそのままを認めて受け入れること」です。

否定することとは間逆のように思われます。


否定ってなんでしょう?

一人が好き、それは不健全だと言われるかも知れません。

トイレの個室とか一人になれる場所が大好きです、落ち着きます。

雑踏が苦手です、休み時間も人がたくさんいるような場所には近づきません。静かな所を見つけて一人の時間を過ごします。

図書館の雰囲気が好きです、静かで、大量の古書が並んでて、ある意味教会みたいな厳かなイメージさえ持ちます。


ある友達が言いました、寂しくないの?

よくよく振り返ってみれば不思議にすら感じるんですが、寂しいと思った事はないんですよね、一応友人と呼べる存在もいるわけだし。たまにしか会いませんが、


中学校の後半くらいから、みんなが群れ始めました、5から8人ぐらいのグループで行動します。休み時間はみんなで列になってお弁当を食べます。

はじめは派閥とかを意識する事はなかったんですが、そのうちなんか一人でいるのは不健全みたいな雰囲気になって意識しはじめました。

日本人は特に群れる習慣があるそうです(西欧などはそこまで群れないらしい。)


中学時代のある日、いつものように窓辺で一人寝ていたら、あるクラスメイトが言いました。「お前はどこの派閥にも入っていないな。」 僕は派閥なんて意識した事がなかったのでその言葉には驚きました。

そういえばその頃から一番仲の良かった友達が、僕を離れて意識的に派閥に入ろうとしていました。


僕はその姿がとても不思議でした、

確かに集団に属する事によって得るメリットはたくさんありますね、でも集団にあきらかに媚びている友達に不自然さがあったのは確かです。

僕はいつも一人でいる変な奴かもしれませんが、正直な気持ち自然体でいるだけなんです、少々の不自然さをもつ事は大事なんですか?


確かに皆が自分を薄めて不自然さを持って生活している中で、僕だけが軽やかなまでに自然体でいることが不自然な事になってしまっているのかもしれませんね。

言ってみれば服を着るという人間の習慣も、防寒や保護の目的を持つものの不自然な事かもしれないわけで。まぁ習慣における自然とか不自然とか単に多数決で決まるようなものの話をするのは無意味ですが。


という事で、僕は自分がどんな人間なのかを知りました、協調性がゼロです、めちゃめちゃ勝手な奴です。

正直な気持ち、集団に合わせようとするとイライラするし、疲れるんですよ。

一人でいれば自由だし、(いちいち移動の度にぞろぞろ行くのめんどくさいんだよww。) 一人でいる事にもお得なメリットがあります。

それがわかってから僕は好きにさせてもらう事にしました。

まぁ、あらためて、自分を見てみると、やっぱり変わってますよね。


僕の事を馬鹿な奴だという人もいるかもしれません。

変な奴を卒業するべきなのかもしれませんが。

でも1つだけ確信して言えることがあるんです。

僕は日々の生活の中に喜びのようなものさえ感じています。

まず一番に大事なのはそこだと思うのです。(いいわけか?



昔付き合っていた子によく言われました。

「あなたは猫に似てるね。」

彼女が深い意味を持ってそう言った訳じゃないんでしょうが、

後々深く自分が猫に似ている事を実感するようになったのです。


冬は一番暖かい場所で昼寝をし、夏は一番涼しい場所で昼寝するんです。

にぎやかな場所が苦手で、いつも静かな所を見つけて一人で過ごします。

あまりしゃべらないし、昔から夜が好きだし。

たまに自分がまるで野良猫のように感じる時があるのです。


「あなたの哲学で感動しなかった事はないよ」 「寂しがり屋なんだね」

彼女が言った言葉は後々全てが実に僕の事をよく捕らえていると気付いて驚きました。

僕はその後、本を読んで哲学の勉強を始めたし、大学に進んだ事も彼女の影響があったと思います。


彼女の洞察力が優れていたのか、僕がわかりやすい人間だったのかわかりませんが、

僕は「女ってすごいんだ。」 と女性崇拝を始めてしまうほどでした。





悪いけど注文には答えられない、好きにやらしてくれ。


誰だって自分の意図とは違う注文をされても答えられないと思います。

なんで干渉するんでしょう、親切?


高校受験の時、親は僕に言いました。

「お前には無理だ」 なぜそういえる? それは感だと彼女は言いました。

根拠のない言葉での干渉。学校や塾の先生も賛成、模試の結果をみても問題なし。

どう説明しても彼女は否定し続けました。彼女は自分の行為を親切だと言いました。


とても酷い親切でした、学校から帰る度に彼女はものすごい顔で僕を否定し続けました。

毎日、口論が続きました。酷い受験生活の毎日でした。

結果は合格。


後になって僕は彼女に聞いたんです。そしたら、

実は占い師にみてもらってそれで親切を続けた。と教えてくれました。

あんな辛い日々を過ごしたんだから、彼女も自分の行為を少しは反省していると思い込んでいたので、何も怒りなどは感じませんでした。


でもまた後の時にその事について話す機会があったのですが、

実は彼女は受験が終わった後も全く自分の行為を省みてはいなっかったのでした、

その時は、酷い気持ちになりました、あれだけ酷い事をしたのに、ほんの少しも自分の行為を振り返ってないなんて・・・。ほんの少しの反省だけあれば僕は何も思わないんです。でもあんなにケロッとされたんじゃ・・・。


何故、人には干渉があるんでしょうか?

多くの場合苦しみにしか変わらない邪な類のものだと、僕は思います。

親の言葉の影響力は本能的にみてもとても強いものです。

教育はとても難しいものだと思います。



多感期の子供たち、人それぞれいろんな苦しみを抱えているでしょう。自殺を考えたり、リスカに依存したり、引きこもりになったり・・・。

十代の子供達が、深刻な苦しみの中で生きているんです。

死にたい、死にたい、そんな風に時間を過ごしている子供がいるんです、胸が痛みませんか?


どうか子供達が平和であるように、心からそう願います。

お金は大事、家庭を平和にしたいから。


悪い方法でたくさんお金を稼いでる大人がいます。

それを聞いた国民は怒りました。

でもあなたは悪い方法でお金を稼ぐ人を批判しますが、

あなたの夫がそういう事をしてても咎めますか?


罪人を批判する理由がただの損得勘定になってる庶民が多くなっていませんか?

そうゆう感覚が日本人の常識みたいになっている気がします。


最近テレビを見てて思うんです、ニュース番組なのかワイドショーなのか知りませんが、感情的な報道が主流になっています、あれは何様のつもりなんでしょうか?

ただのニュース番組なのに庶民に怒りを与えようとしたり、殺人事件が起きれば涙を誘おうとするナレーションを入れたりしてますね。

とりあえず、感情的なニュースの読み方、情報の伝え方はもう止めた方が良いと思うわけです。


確かに刺激的な報道は国民に必要だったのかも知れませんが、もうその辺で新しい時代に入ったほうが良いと思います。


善悪の判断や罪への非難はメディアの役割なんですか?

日本のメディアはまだまだ未熟なんでしょうが、これからの発展の中で、

どうかアメリカンになって欲しくないです。

報道は社会にとってすごく重要な物なんだから、これからの時代ではもっと高貴に振舞ってもいいんじゃないかと思います。