間も無くサンパウロに着く。
あれから2年以上過ぎたが 又 ブラジルに来てしまった。
農業移民で移住して山奥での農作業の毎日、そんな生活に疑問を感じて帰国。
「こんな事でいんだろうか」帰国しても苦悩の毎日を送った。
そんな俺を見て親父が「頭で考えるより、体を使って答え出した方がいい」
「自衛隊でも行って体を鍛えてこい、そうすれば何か答えが出るじゃないか」
それも一理あると思い海上自衛隊に入隊。
体の方は学生時代はラグビーで全国大会や、国体に行った事もあり自信はある。
でも、農業移民していた期間もあり体が少し鈍っていた。
横須賀の教育隊で鍛えられ、体は元気になってきた「ラグビー時代から見れば楽」
教育訓練期間中は最優秀で終了し、自衛艦での勤務に「船酔いがきつく慣れるのが大変」
慣れてくると自衛艦もいいもんで「特に航海訓練での瀬戸内海、夕暮れ時が最高に綺麗だった」
そう言えば、休みで実家に戻った時、着いて間も無く電話、直ぐに自衛艦に戻れ命令だ。
内容は親達にも言えないでの帰艦「国家での仕事とはこう言う事かと知った」
勤務命令で厚木基地に変わった時の事、忘れられない出来事があった。
「艦を降りる時、全艦の隊員が帽子をふって見送ってくれた。海軍時代からの名残だそうだ、
戦争を知らない自分にも涙のお別れ」
「陸上勤務は艦よりも楽」厚木基地は米軍と一緒の基地なので異国感があり国内とは違う。
数ヶ月が過ぎた頃に、硫黄島での日米合同訓練に選抜され参加した事があった。
あの時代は一般の人は来れない所、島の彼方此方に戦争跡、基地には遺品も展示した所もある。
「悲しい場所を直に目にすると、決して戦争はしてはいけないと感じた」
自衛隊生活での時間がマンネリを感じた頃、江田島での下士官教育訓練の命令が出た。
親に話したら喜び、又、部署の先輩隊員から羨ましがれ、上官からおめでとうと言われた。
「俺はこのまま自衛官で人生が終わっていいか、本当に悩んだ」
「あのアマゾン川で別れてジャングル消えた研修所時代の仲間達、サンパウロの農地での人達、
あの時代を封印してもいいのか、あの時間を捨ててもいいのか、悩んだ」
結論は自分の心のままにブラジルに行く事にした「永住権もあるので働ける、何とかなるか」
「若い自分の答えは年配の人には理解出来ない」親には文句言われた。
初めてブラジルに行った時は45日間の船旅だったが、今度は飛行機なので早い。
「俺の変人な生き様。自慢の消せないアルバム」