前の記事で書いたTibet Cafeへ行く前に、
そのすぐ裏手にある「うつぼ公園」を歩いた。
待ち合わせは夕刻17:00、私はベンチに腰かけていた。
隣のベンチには、慎重にギターを鳴らす(なでる?)、おじいさんがいた。
友人はすぐに自転車で現れた、喜びの再会まもなく、
サリー姿のインド人女性が私たちの前をゆっくり歩いて通りすぎた。
この近所に住み頻繁に公園に出向くという彼女も、見かけたことがなかったらしい。
こういったサインは、注目に値する。
私の解釈は、こう。
「今日はまちがいのない日になる☆」
公園には、大きな大きな樹がある。樹は我々の師である。
ご挨拶をさせて頂いた。
(ちなみに冬になると必ず演奏する
シベリウス作曲の「樅(もみ)の木」は私の十八番だ。)
希望を語る。
本当に胸を踊らせ語ることができるのは、
小腹が空いて、好きなおやつを食べ
また時間が来るとお腹が空き、
一週間前になにを欲したか、よく覚えていない。
というような
営みの繰り返しに似た類の希望ではない。
無数にあるものを、
ひとことでいうならば、
自分という道具を使いきる。
使いきっていただく。
に、限る。
死ぬときに、
自分は自分を椅子だと信じて、
悔いなく寿命を迎えられるようお役にたつことができた
と思ったら
実は私は机でした…
というのはダメなのである。
自分という道具を
'そのように'発揮しきる。
無数のいかなる希望も
すべてはこの範疇の中に在る。
Shizuka Bando/