工房長のぼやき

工房長のぼやき

チームスチームパンの工房長、安達俊信の日々是之。
思いついたことをカタカタ書いています。

本日、ばなな企画の一般公演!

昨年からの準備

本格的準備からだと4ヶ月経ての発表。


学校で言うと3学期まるまる使って

準備している感じかな。


昨日、仕込み終わり

本日、公演。

明日は保育園生向けの公演。


問題ないか?


私が仕込みでしっかり脚立ごとこけた以外は

問題なし。

厄落としはできたでしょう!




今回は1段目を踏み外してこけたので

大したことなかったですが、決して

脚立の天板に乗ってはいけません!


懲りずに登っているのは私ですが。




今年は、

ガッツリ関わっていられない

のっぴきならない事情により

演出ではなく協力にて参加中!


本番はついております。


3回目の作品となるのですが、

演出視点で考えても

俳優視点で考えても、

とても難しい本です。


各キャラクターを魅力的に見せなくてはいけないので、

登場人物が少ないですが

短い時間の中で

濃密な関係を見せる必要があるため。


主人公を中心に、

出会うことで変化する周りの猫たち、

そして、主人公が抱える問題。


関係性なんて複雑なものを

シンプルに見せないと

子供達に伝わらない。


出演陣がどのように見せるか、

ご覧いただく方々はおたのしみに!


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ばなな企画 第10回公演
「100まんかいいきたねこ」
2026年2月23日(月祝)

みどりさくら保育園 横浜線十日市場駅下車徒歩7分(昨年同様)
料金:無料(カンパをお願いしております)


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さて、明日からばなな企画の

搬出

搬入

仕込み

場当たり、リハ


翌日には

ゲネプロ

一般公演マチネ、ソワレ。


翌々日には

保育園生へ公演

バラシ

搬出

片付け。


一気にやります。


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ばなな企画 第10回公演
「100まんかいいきたねこ」
2026年2月23日(月祝)

みどりさくら保育園 横浜線十日市場駅下車徒歩7分(昨年同様)
料金:無料(カンパをお願いしております)







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大変か?

いや、大変とか考えていないので

わかりません。


やらなければならないことは、

大変とか考えずにやる。


なぜか?


考えても楽にはならないことは

考えなくてよくないか?

と思うので。


やらなければならないことを

ただただ淡々とやるだけやる。



不平不満を言うのが悪い

というのではないです。


それをどう捉えるか

だと思ってます。


不平不満を言ってる人でも

面白がって言ってる人は結構います。


また不平不満を言って共有することで

連帯感を増す人もいます。


害になるのが

不平不満を言うだけで何もしない人、

立ち止まる人です。



そこいくと

ばなな企画の人は

やるぞ!

と言ってやるので

良き集団と思います。


いつもやりすぎるので

今年はなるべくサボる

を目標に。


脚本を書く。


私のまわりの脚本を書く方々は

描きたいシーンがあり

それを描くためにどのように

シーンとシーンを繋げていくかを考えています。


書けない人は

こんな設定や状態を見せたい。

という人です。


過程を描きたいか

結果を書きたいか

の違いです。



ドラマとは

ある時点からある時点までの変化を描くもの

と考えるとわかりやすいです。


書けない人の傾向として

変化を嫌う人が多い

という点です。



何かの製品や作品をプレゼンするなら

物語を描くべきと言われます。


この時に、結果のみに焦点を当てると

面白みにかけます。


その結果に至る過程を描かなければ。


そして、人はその物語に

勝ちを見つける。



私自身、もともと脚本が書けない人です。

なぜなら、物語の結末のみを見ているので。


主人公に降りかかる苦難に

ムカつく人です。


嫌いなものを描きたくないので

脚本が書けなかったなのだな

と思い至りました。



今でも、すぐできて、

簡単に良き結果が出れば良い、

という考えは変わりません。


しかしながら、

それは自分には無理だということは

嫌というほど経験してきたので、

良き結果を得たければ

血反吐を吐いてやらねば。


嫌なことをしなければ

という思いです。


さて、今年はどんな年になりますか。


作品を作る際に

「自分自身へ負荷はかけるべき」

と考えます。


「負荷のかかってない作品は面白いか?」

と問われたら、

「誰でもできる作品は面白いか?」

と答えるでしょう。


日常あふれる風景に

人は感動をしません。


非日常の風景に

人は感動をします。


だから、

「自分へ負荷をかけるべき」

と考えます。



自分の嫌なことはしない。



ちょっと、待て!

嫌でも、必要なことはあるだろう!



もちろん、不要で嫌なものはしなくてもいい。


必要な嫌なこと、

面倒なこと、

時間がかかること


は、やるべきです。



それが本当に必要か不要かは

やってみなければ分からないことも

少なくありません。


だから、やろう!



この辺り主張すると

ハラスメントという言葉のもと

駆逐されます。


だから、


やらない

やらせない


となってくる。



これも仕方ないか

と最近は諦めるようにしています。


損するのは気づかないその人で、

もしそれでうまくいくことがあるなら

それを真似すればしいい。


それくらいに考え、

溜飲を下すようにしています。




この負荷を

負荷と思わない人が一定数います。


セリフを覚えるのは大変です。

でも、覚えなくては作品はできません。


しかし人によって

セリフ覚えが苦にならない人がいます。


この人にとって、

セリフ覚えは負荷にはなりません。


この人はダメなのか?


いや、余裕があるだけなので、

他のところで負荷がかかるのであれば

これはOKです。


そして、これは

習慣化することで

はじめは負荷がかかりますが、

負荷にならずにできるようになります。



ということで、

これらを考えて

自分を省みるようにしています。


あ、俺、今、楽しているだけだ。

たぶん、それではいい作品はできない、と。


さ、今日もパソコンに向かいます。

ハイコンテクスト

ローコンテクスト

の意識をされたことはありますか?


ハイコンテクストは、

言葉の内容ではなく、

言葉から醸し出されるニュアンスを

キャッチすること。


ローコンテクストは、

言葉自体でキャッチすること。



「月が綺麗ですね」は

ハイコンテクスト。


「好きです」は、

ローコンテクスト。


若者言葉も、年寄りにとっては

ハイコンテクスト。



最近、

とことんまでローコンテクストで

言語化しなければならない時代か?


と思うことがしばしば。


手軽で・早く・簡単に、

多様化したあらゆる世代に

伝わるようにするためには、

ローコンテクストで伝えること。


色んな人に伝えるべき批評家や政治家なども

しばしばハイコンテクスト使いますが、

あなたたちこそローコンテクストでお願いしたい

とわたしは思ってます。


作り手も、

「わたしだけ分かるばいい」

と誰にも伝わらないハイコンテクストで

やる人がいる。


それはやめてくれい。


見てくれてる人に届いているならば

文句は言えないけど、

理解したいと思うわたしには分からないから。



おそらく、いつの時代でも

ハイコンテクスト

ローコンテクスト

どちらがいいか正解はない。


だから、

「わたしはこう思う」

と主張自体は何も悪くない。


伝わるか分からないけど

わたしはこう思うのだという

強い主張は大切です。



ただ、主張をして

伝わって欲しい人に伝わらなければ

伝え方を変えていく努力は必要と考えます。



映像と舞台

どちらが過酷か。


環境の過酷さだけなら

映像かな

と思ってます。


終電帰り、始発で現場へ


頭フラフラしようが

眠かろうが、

あらゆる環境で、

限られた時間で、

最善の演技をする。


それが映像の世界。


画面で見ているだけだと

全く感じることのない撮影環境。


名作を生み出す先人たちの

すごさをヒシヒシと感じながら。


何も言わずに踏ん張りを見せる

スタッフの人たちの凄さも感じつつ。


なにしろ映像は

その絵がなければ終わりの世界。


撮れるか、撮れないかは死活問題。


俳優はその中で演技をする。


周りの目を気にしていると

自分を見失う可能性あり。


周りを気にしない鈍感力が必要とされる場面。


スタッフの人は

ピリピリした雰囲気を

見せないように振る舞ってるのに

感じてしまう。



名優呼ばれる人たちが

どこか浮世離れしているのは

精神状態をニュートラルにしておくことで

現場の環境に左右されず

物語の中へ入るための

生存戦略なのだろう。


そんなことを想像しながら。

人は結局

教えられたものより

自分で発見したことしか身にならない。


どんなに熱く指導しても、

その場はなんとかなっても

自分で発見したことしか

身についていない。


次の時には忘れてしまっているので。



先日、脚本家の新井一さんが

脚本の講師をする際にこう言ってたよ

という話を聞いた時、

「なるほど」

と思いました。


「シナリオセンターでは

あなたは教えるでもなく

批評するでもなく

場を作るのだよ」


という話だったと記憶している。



もちろん、熱血指導が悪いわけではない。


熱血指導されることで

自分の発見に繋がることもあるので。


ただ、それは

受け手のスタンスによります。


「教えられれば良い」

「わかった」

「あ、なるほどね」


などとなっていると

いつまで経っても身にならない

という話。


「それなら、ここが足りないか」

「それなら、こうしたらどうかな」


と自分で考えることに繋げること。




それは本で読んでいても同じで、

読んでわかった気になっても

実戦では役立たない。


実戦でやろうとする際は

それをどうに実行するかを

考えられなければならない。


だから、ちょっとずついいから

身につけられるように

意識をしておく必要がある。



研修などで

わかった気になるために

「ティップス」を入れる必要があります。


それは短期の研修で

満足感を得るため。


ただ、それはその場しのぎになることが

ほとんどです。


楽に手に入れたものは

すぐに手放して、忘れる。


得たティップスによって

次の行動を促せるかどうかは

非常に重要です。


身につけるというのは

習慣の末に得られるものなので

必ず時間がかかります。


石の上にも三年。


きっかけはなんでも良いけど、

自分の意思で身につけなければ

得られることはない。

やはり良いものに無駄はない。

全てに意味がある。


そんな作品を見たり聞いたりするたび、

「踏んばらねば!」

と思うところです。



どうやって精錬させているのかは企業秘密。


もしかしたら、ご本人でも

意識できないところがあるのかもしれない。


いや、プロならばそんなことはない

と思いたい。


全てに意図があり、

それで組んでも

はみ出すものがある。


そんな作品に出会いたい

と皆、思っているはずだ。


どうすればできるか?


細部まで諦めずに

こだわり尽くすこと。


決して、効率的ではないし

そんなところまでいいじゃないか

と言われるかもしれない。


でも、そこまでらこだわるの?

ということで

ようやく辿り着く境地は

効率的ではない。



さ!

一日24時間は変わりません。


どうしますか?


良い作品を見るたびに

突きつけられている気分になります。

実験の場はあった方が良い。


「失敗してはいけない。」


そう思うとどこか萎縮してしまう人

いませんか?



お金の発生する仕事、

好きな彼女にカッコつけたい瞬間、

生きるか死ぬかのその時。


萎縮すると失敗する。



萎縮して失敗することほど無駄なことはない。

と考えてます。


もっとこうやればよかった

ああやればよかった。


後悔しか残らないので。



だったら、萎縮しなくて済む

失敗しても良い場所が必要だ

と考えます。


決して失敗しろ、とは言ってません。


失敗を恐れず挑戦しろ、と言っています。


なぜなら失敗は、成功のための挑戦した証拠なので。



でも、効率を求める世界では

そんなところはない。


また本人たちもそんなことを求めてない。


なら、必要ないか。



他人よりも自分のこと。


失敗しても挑戦させてもらえる場所を探しながら

せっせとやっております。


シナリオセンターは

まさにそんな場所。


ようやく見え始めた世界は

自学自習だけでは

辿り着けなかった世界。


さぁて、楽しい話を書こうではないですか。



芝居で悩んでみる。


出たとこ勝負。

即興的に。


うわ〜、これ苦手。


役を掴めていない時、

そんなことやってたら大変よ。


無理無理。



映像の演技は、自分が軸である方が良い。

舞台の演技は、役に軸がある方が良い。


とはアドラーの言葉だったか。



20代で唐さんの芝居をやっていたからか、

自分とはかけ離れた人に憑依する感覚が強いです。


自分とはなんぞや?

とは30代になってから向き合ってたので、

まだまだ感覚の深掘りは難しい。


そして、気を使う性格のせいで

すぐに自分から、

周りの視点へと移動してしまう。



舞台だと、稽古で修正して

役に没頭できますが、

映像の瞬発力は、なんと難しいことか。


適当にやりたくない

というブレーキもかかるので

ほとほと困ります。


適度に適当。


これがいいな

と思う日です。