工房長のぼやき

工房長のぼやき

チームスチームパンの工房長、安達俊信の日々是之。
思いついたことをカタカタ書いています。

私は歌が上手い人ではない。


しかし、


 歌は、相手に話しかけるように歌う


という基礎を聞くと、


 俳優なら上手くなくてはならないのでは?


と思ってしまいます。


 言葉や感情を届ける


という根本は同じなので。




響きで伝える


歌は息の量がコントロールできなくては、

音程を安定させられません。


多量の息で届けようとすると、

高い音など出せなくなりますし。


(実際、声楽の人でも

高い音の時は吐く息の量は減るとか)


なので、

息の量ではなく

響きで

相手まで届けることが

必要になってきます。


この響きがあれば

相手を見なくても

背中越しに

言葉を伝えられます。


自分ができているかどうか、

顕著にわかるので

俳優の方はぜひ


 背中越しに語る


お試しください。



響きの習得に苦労した


我流でやってきたところに、

ボイストレーニングを受けました。


ボイストレーニングを受けた際の

衝撃はまさにこの「響き」を知ったこと。


そして、この響きは、

映像の芝居でとても使いやすい。


息の量でやってますと、

マイクが簡単に振り切れてしまいます。


そして、録音さんが困ります。


 スタッフが困る = 次回から呼ばれない


ということになります。


それまで、


 吐く息の量で伝える


ということを私はやっていたので

自分の中で響きを昇華するのには

かなりの時間がかかりました。



舞台は響きだけでは物足りない


ただ、生の声を届ける舞台において

響きだけだと物足りない

と思ってます。


舞台は良くも悪くも一回限りの生で、

その瞬間、生きている必要があります。


この場合、

響きだけでなく、

息の量も十分活かせます。


響き、息の量など

多重に攻められれば、

観ている人は

圧倒されるしかない。


だから、舞台であるならば

息の量も使って欲しい。



複数の武器を持つ


普段、息の量を使わない人は

なかなか大変です。


ただ、一個武器を身につけると

他にも応用が効いたり

組み合わせが増えるので、

普段やらない人は

お試しいただきたい。


特に、コントロールしない感情を出す時には

息の量は、きっかけになるので

是非使ってもらいたい。



設計図、演劇で言えば脚本は大切。

 

その大切さを

どれくらいの深度でわかっているか。

 

 

設計図の有無

 

設計図がなければ、

 

 「なにを どうやって 作ればいいか」

 

わからない。

 

 

設計図があれば、

 

 「なにを どうやって 作ればいいか」

 

わかる。

 

 

どう作るか分かると、

別の手段を提案することもできる。

 

 

設計図は目標

 

設計図は、

できあがりの完成予想図です。


だけど、自分で理解しようと見ないと

意味がありません。

 

何となく見るだけで、

 

 大体こんな具合ね

 

とアバウトで、

中身を気にしない人が結構います。

 

 

できあがりの完成品が

設計図で見ることで確認できるのに

気にしない。



どういうことなのかというと、

 

 気にしない = 完成した作品に興味が無い

 

と同じ態度をしている状態です。

 

 

自分は


 目標となる設計図をよくよく理解し、

 リーダーがどのように、その設計図を読み解き

 作ろうとしているか理解した上で

 実際に作っていく


ということを心がけています。


 

 

探っていくこと

 

すぐに理解できていればいいですが、

理解が足りなかったり、

リーダーが及ばなかったりすることもあります。


読み取れていればいいですが、

読み取れていないのを大前提に

読み取れていないものがないか

常に探すように努力すべきです。

 

読み取りに時間がかかるなんてことは

本当に多々あることです。

 

設計図を読み解く

 

読み解く時に

様々なことを加味して書かれた設計図に

敬意を示してやっていくべきだ。


というのは私の考えです。


敬意を示すに

書かれていることに

興味を持たなければなりません。

 

 興味が持てない = やっていることに興味はありません、

 

といっているのと同じになるので。

 

敬意でもなんでも、

自分が読み解こうとするために

興味を持ち続けるために

どうしたらよいか。


考えておくべきです。

 

私は、常に敬意を持って接しようと

考えることで

興味を持ち続けられますが、

敬意なんて大層なことでなくても

興味は持ち続けるために

どうアプローチをするか。

 

 

興味を持ち続けられれば

相互に影響し合えます。

 

 

スタッフは厳しいけど、最大の味方である

 
舞台で、照明さんや音響さんを
ただのスタッフだと思ってはいけない。
 
同じ設計図(脚本)から、

照明、音響プランを立てる際に、

 

 戯曲を理解する。

 演出が欲するものを捉える。

 舞台で何が起こっていることを認識する。

 

その上で

 

 より効果的にするためにはどうしたよいか

 実現場で実現するためにはどうするか

 限られた時間で調整する

 

それがスタッフさん。



様々な現場で鍛えられているだけでなく、

稽古、本番併せると

複数回、同じキャストで同じ作品を見る。


そんなスタッフさんたちには

 

 その日のできあがりがどうであるか。

 微細な違い。

 失敗。

 

即バレます。

 

 

そのスタッフさん達が楽しい舞台、

何度見ても楽しめる舞台とは何か?


それを考えると、

 

 台詞をうまくしゃべっているところ?

 かっこいいところ? 可愛いところ?

 生きた役が躍動しているところ?

 ……etc

 

これを意識しているだけで、

ナルシストになることはまずありません。

 

そして、厳しい彼らが楽しめるまでに昇華されれば、

お客さんにもしっかり伝わる作品にまで

仕上がってる指標になります。

 

 

設計図を意識できている人

 

お客さんが観る作品は完成品であり、

演劇であれば、設計図である脚本より

俳優に注目が集まります。

 

でも、それは、作品の氷山のほんの一角。

 

その裏側で

見えていない部分が

どれほどあるか。

 

作品を深めている要素が

ここにたくさんあります。

 

 

作品を作る側でいたいなら

設計図に対して、

どのようにアプローチを

していくべきか。


自分なりに

いろいろ試していくのがよいでしょう。

 

 

ということで、

相変わらず挑戦しております。

器用は才能か?

 

そして、不器用な人は才能が無いのか?

 

器用でも不器用でも

どちらにも才能はあります。

 

今、どういった才能を必要としているかにより、

その価値が変わってくるとは思います。

 

 

どんな才能があるか?

才能といわば、

 

 簡単に、気軽に

 ヒョイっとやっちゃう

 

というイメージが小さい頃からあります。

 

そこから考えると

器用な人は才能がある

と言えます。

 

器用な人は、結構いるので、

世の中は才能で溢れている

という見方もできます。

 

ただ、ある程度までヒョイッとできるようになると

別なことをやり出すので

このタイプの人は

同じ場所でやり続ける印象がありません。

 

簡単にできたものほど

執着しないので

手放すのも早い

ということでしょう。

 

 

不器用な人で

信じられないほど

延々とやり続けられる人がいます。

 

しかも、苦も無く。

 

夢中でやり続ける、これも才能。


あるところで

爆発的に面白いことになることもあるので。

 

 

また、はじめはうまくできなくて、

都度、改善を繰り返せしていけるのも才能。


再現性があり、

別パターンにも応用が効くので。

 

 

 

必要とされる才能とは?

 

今、社会で必要とされているのは

どの才能でしょう。

 

 職種による。

 

というのが身も蓋もない結論だとは思いますが。

 

 

今後、AIはどこまで幅をきかせてくるでしょう。

 

中国では、シナリオをAIに何本も書かせ

それをドラマ化していくとか。

 

安上がりにするため、

人を排していく。

 

そうすると、多くを占める人件費が

安く上がります。

 

 

ただ、AIが入ってくるのは、芸術において、

 

 非常にまずい

 

と思っています。

 

というのも、

 

 芸術とはなんぞや?

 

と考えたとき、

私は

 

 芸術とはコミュニケーションの最上級のもの

 

と考えるからです。

 

文化をAIに丸投げしてしまうと

それは、他人とのコミュニケーションを放棄する

のと同じ。

 

人間同士で意思疎通ができないことで、

連携ができず、

何か大きなことをしようにも、

人を介しては不可能になる。

 

だから、

多く人との共通認識が無くなり、

共有できている人たちだけで集まり、

小さなコミュニティでやっていく。

 

演劇だと


 プロデュース公演から

 劇団公演が増えていく。

 

という流れに今後はなっていくのでは?

 

 

この小さなコミュニティの中だと、

器用な人は、仕事で信用されそうですが、

いつ条件のいいところへ出て行くか分からず、

信頼がおけない存在になりそうです。

 

不器用で、

物事に執着する人の方が、

価値観がわかりやすく信頼できる。

 

ということになりそうだな

 

 

 

 

 

 

 

頭がフリーズ。

 

人の作品を聞いていて、

久々に頭がフリーズしました。

 

その作品の流れを、自分で理解できない。

 

 どんな思いでこれは書かれているんだ?

 

自分の中で処理できず、思考がフリーズ。

 

書面であれば見返せますが、

「聞く」だと、サッと通り過ぎていく。

 

 自分の中でどう辻褄を合わせれば……

 

「聞く」だと間に合わず、ぴー……

 

辻褄合わせは、

ロジックで繋がる必要は無く、

自分の中で感覚として処理できれば

それで良いだけなのに。

 

唐十郎作品でかなり鍛えられたはずですが。

 

同じ聞いていた人たちは、

しっかりと内容などもキャッチされていたので、

自分だけ理解できなかった状態。

 

 

おぉ、まるでミュージカル映画の現象。

 

ミュージカル映画は嫌いではない、

むしろ好きだけど、

どの作品でも寝てしまう。

 

三回くらい見て、起きているときに見たものをつないで

ようやく納得。

 

最近だと、ようやくグレイテストショーマンは繋がりましたが、

レ・ミゼラブルは、まだ繋がっていません。

 

そのレベル。

 

 

 

人の作品発表を聞いていく中で、

自分が聞くのに得意な作品と

不得意な作品がある

ということを思い知らされます。

 

連続性のある内容だと聞きやすく、

イメージが次々に飛んでいく作品は

処理できない。

 

 

そんな作品達を聞きながら、自分で心配しているのは、

 

 自分自身が書いた作品は……イメージが次々飛んでないか?

 

自分が自分で苦手なものを書いていないか?

 

予想外のイメージに飛んでいって

つながりが分からず、

人を置いていっていないか。

 

 理解できない

 

それでは勿体ない、

 

分かったら

自分の感覚の拡張になるので、

 

 理解できないから排除する

 

では勿体ないではないか。

 

作品を作ろうとする者として、

分からないことは恥ずかしいことではない。

 

分かろうとしないのが恥ずかしいな、

と思うところです。

 

そして、分かるように書かないのは

怠惰だ

とも思うので、

伝わる方法を探し続けております。

 

 

 

 うまくいくこと、いかないこと。

 

世代によっても、

その割合は感覚的に違うらしいです。

 

うまくいっている : うまくいってない

 1:9

 2:8

 5:5

 

上から

 昭和やバブル世代

 氷河期世代

 SNS世代

らいしいです。

 

上の世代であればあるほど、


 うまくいっている


という実感は遠いようで。

 

 

「うまくいく」とは

 

 やりたいことをやる。

 

これだけで、

「うまくいっている」

と私は感じます。

 

やりたくてもなかなかできなかった

学生時代を思い出すと、

やりたいと思ったことができること自体が

うまくいっている

というもの。


 ああ、こういう考え方は

 氷河期世代か


などと思ったり。


 一般的にはどうなんでしょう。


今だと、

 

 「やりたい」

 

と思ったら、

やるための環境づくりがやりやすい。

 

様々な情報が出てきますし、

近くの店で手に入らないものも手に入れられます。

 

また、スマホ一台あれば、

映画が撮れちゃう。

 

タブレットがあれば

漫画が描けちゃう。

 

なにより、

YouTubeを始め、発表する場があり、

それをみにくる人がいる。

 


一昔前は、

専用の道具が必要だったり、

発表の場が限られていたり、

ハードルがいくつもあった。

 

 やろう

 

と思っても、まずは環境作りからで

時間がかかるばかり。


 本当にすごい時代だな


と感心します。

 

 

残っていくものとは?

 

今後、残るのはどういうものか?

 

 「うまくいったもの」

 

が残っていくでしょう。



その「うまくいったもの」とは、

どんなものになるのか。


おそらく


 人のこどわりあるもの

 人にも、

 AIにも、、

 誰にも真似できないもの


が残っていくと思います。


問題は

こだわりをどこまで深められるか。

 

いろいろなことに挑戦するのは良い。


でもすぐ辞めていては、

一つ一つを深められず、

身にならず、

応用が利かない。

 

色々挑戦する中で、

自分が気に入ったものに出会って、

深められれば。


 

演劇もやりやすい時代

 

うまく行かない方が圧倒的に多い自分ですが、

でも、演劇も挑戦しやすい環境にはなっている

と思います。

 

それっぽいことが容易にできてしまう。


また、やろうと思えば始められ、

続けようと思えば続けられ、

やめたければやめられます。
 

AIの登場で、

まだまだこれからの伸び代もあります。


今はまだまだかもしれませんが、

そのうち脚本も

「こんな感じのもので」

と注文すると、

それなりのものができあがってくるでしょう。


全てのものが

簡単に準備ができるようになったらば、

あとは、

その人がやる必要があるのか

観る人はその人を観たいのか。

 

 

自分がうまくいってても、

それを観る人にとっては

うまくないことだってある。



目指すは

自分だけでなく

観る人まで含めて

こだわりをある作品を届けられれば

うまくいく作品になる


と思ってます。

趣味

 

というのでもないのですが、

思い立ったちょっとした隙に絵を描いてます。

 

小中高と、以前は遊びでよく描いていましたが

描かなくなって久しくなっていました。

 

それが、10年ほど前に実家に帰った際に

なぜか母が高校の頃に書いていたイラストを

飾ってました。


4年前の実家のリフォームの際には

業者の方々の出入りが頻繁にあり、

その際に、現場の頭領達がえらく褒めてくれる

というので

 

 せっかくなので久々に描くか

 

と描いたのが再開のきっかけとなりました。

 

 

誰に頼まれたわけでもないので

のんびり描いて、

3年間に10作品ほど描いております。

 

今回は、母の日にでも送るかと思って

描いていましたが、

隙間時間を使って描いているのと

がっつり色々書き込んだので

時間がずいぶんかかりました。






 

時間の制約のない作品づくりは、

 

 やらなければ

 

というものでもなく

 

 誰かに楽しみに待たれている

 

といわけでもありません。

 

自分が決めた期限で

終わりを自分で決める。

 

  自己満足を追求する


 ということです。


作品というのも

色々あるものだな、

と思いながら。

脚本は大事である。

 

 何を今更……

 

私もそう思います。

脚本は大事だと言わない人がいたら

 

 大丈夫?

 

と思います。

 

 

 

いま、勉強している脚本は、設計図です。


 脚本……設計図、多岐にわたる人の手に渡るもの

 台本……実際のパフォーマンスを作る人たちが使用するもの

  ※細かく定義すると別らしいです

 

では、作品全体を通して、

脚本はどれくらいの割合で重要か?

 

 5〜8割重要だ

 

と言われてます。

 

しかし、これも人によって異なり、

ヒッチコックや黒澤明は100%と言ってます。


作品の良し悪しは

少なくとも半分以上、

脚本によって決まる、

といっていいようです。

 

個人的な体感としては、


 映像と演劇で割合は変わりそうだ


とは思っています。


演劇の名作が

駄作になる作品も見ておりますので、

演じ手の問題も結構あるな、と。

 


この重要度の割合を

何か体感として感じられるものがないかと

考えていたところ、

 

 人間の感覚の「視覚」に当たるのが脚本

   と考えればいいかも


と思いました。

 

五感のうち、

人間の視覚は8割を占めると言われており、

またコミュニケーションで視覚情報は

55%といわれています。

 

 目から入る情報=脚本

 

という割合ならば、人間の感覚として

どれほど重要か体感できそうな気が……


 ……無理矢理過ぎるか?

 

 

私のように割合を考えたことのない人は

大なり小なりいるんだろうな、

と思ってますので、

考えたことない人は、一度考えてみてください。

 

 

なので、

脚本ができていない作品に出演したり、

即興劇は、


 良き作品をお互いが作っていく信頼関係

 

で成り立つものだと考えております。


信頼関係がない作品に

飛び込むのは博打だなぁ、と。

 

 

脚本執筆中

さて、

自分が書く脚本ですが、

テーマなどがすぐ分かるように

書こうとしておりますが難航中。


脚本を読んで


 どういうことですか?


と聞かれることがここにきて多発中。


 

脚本と呼ばれるものは、

基本的にページ数が限定されます。

 

その限られた中で、何を書くか

 

 誰が何をしたくて、

 結果どうなるのか。

 

書いてて楽しくなってきたから、

登場人物が好きだからといって、

本筋に関係ないことを長々と書いていると

ページがなくなり、

大切な部分が薄まっていきます。

 

必要最低限の情報でぎゅっと押し込め、

それが、読み手に絵として伝わる必要がある。

 

書いている当初からですが、

自分の作品は、

説明を補強すると納得されることが多い。


 どういうことですか?


となって、説明で補強して


 ああ、なるほど。そういうことか。


となるパターン。


 

元々、説明台詞が嫌いで、

会話の中で伝えようとするのですが

伝わっていなかったり、

書いているけど見落とされていたり。

 

 展開の仕方や余韻の残し方が下手なんだろうな

 

と思いながら、

うまいことできないものかと悩んでおります。

 

脚本の執筆は、

感想をどストレートでもらえる環境なので、

大変ありがたく、

ちゃんと伝わっていないことが分かります。

 

自分が思って書いたものと

他人が聞いたときに理解されたものと

ギャップがどれほどあることか。


説明や、

実際に作ってから納得される

という状態から、

もう一歩先に行かねば。

 


物語の中でどのように伝えていくのか

人の想像力をかき立てる探求はまだまだ続きます。

このところ、分割キーボードへの憧れが増しております。

 

 道具が仕事する

 

とは、道具作りのお師匠様のお言葉です。

 

ふと、

タイピングしている姿を思った時に

 

 これは健康に良くないのではないか?

 

という思いが募っています。

 

 

 肩をすぼめて、

 前屈みで、

 首が前に出ている。

 

 

この姿勢、

落ち込んだ時や

落胆したときの姿勢です。

 

姿勢は礼節にもつながり、

心を表します。

 

だからきちんとした姿勢、

立ち居振る舞いを

意識しなければなりません。

 

 

姿勢で演技をする

 

演技をするとき、

その役の気分が分からなければ、

その姿勢をとることで

気づくこともあります。

 

でも、

っぽい演技にしてしまうと、

姿勢も、っぽい姿勢なので

どうしようもありませんが。

 

所作一つで、

役の心が分かることがあるので、

丁寧に、

っぽい芝居ではなく、

真実を語るために、

可能性のある動きを

稽古中に試すことをおすすめします。

 

 

分割キーボードを試すには

 

分割キーボードが欲しくなっているのですが、

分割キーボードは、価格が

通常のキーボードの良きものが買えてしまう価格。

 

なかなか手が出ません。

 

 

欲しいと思うのは

トラックボールがキーボードに付いているタイプです。

 

操作に癖はありますが、

トラックボールが付いていると、

本当に、キーボードの元の位置から手を離さなくても

よくなります。

 

懸念点は、自作キーボードの世界へ一歩踏み出すことになるので、

 

 このままドンドン沼にはまっていかないだろうか?

 

という危ぐです。

 

 何とか体験だけでもしたいなぁ。

 それで使いにくいなら使わない方が良い、

 

 そうだ。

 うちにはキーボードがいくつか転がっているじゃないか。

 

ということで、取り出してみました。

 

MagicKeyboardと

MOBOのキーボード。




 

MagicKeyboardは、自宅で脚本を打つのに

MacBookと同じ打鍵感がほしくて

以前に購入しました。


MOBOは持ち運び用に

数年前に購入していたものです。



とりあえず、

2台のキーボードを並べて打ってみると、

分割キーボードの気分が味わえます。

 

早速やってみました。

 

 あれ?

 これすんごい良いぞ。

 

となってしまいました。

 

特にやりたかった、

中央にノートを置いて

調べるときには両脇のキーボードを叩く

というのを、

家になる板を使って

再現してみました。

 




やってみたらみたで、

 

 ますます欲しくなってきた

 


でも、そこはぐっとこらえて

 

 今の状態で満足することにしよう、

 

と考えております。

 

トラックボール付きのキーボードは

人気なので、なかなか手に入りませんが、

もし手に入るようなタイミングであれば

購入の検討をしたいとは思います。


それまでは創意工夫

 

 思い通りの作品が作れるか。

 

満足した作品ではなく、

全力を尽くした作品でもなく、


 自分が思った通りに作品が作れたか。

 

本当に難しいと思うのはここです。

 

 思い通りの作品が作れるか。

 

満足や全力は、

自分の気持ちや行動で決まります。

 

しかし、思った通りにするには、

一つ一つをきちんと積み重ねる必要があります。

 

 技術的な問題、

 道具の問題、

 立場の問題、

 

様々な問題が降りかかってくるのを

解消してたどり着ける境地。

 

 

頭の中で思ったことを

表現することができるか。

 

表現をしようとしたときに、

 

 曖昧になっていないか。

 気づかぬふりをしてないか。

 違和感を無視していないか。

 

ひとつずつ

丁寧に

粘り強く

向き合って解消していく。

 

その先に、思い通りの作品を作れる境地が……。

 

 

 

ある程度で良ければ

思い通りに作れるようになります。

 

それで満足できるのであればそれでいい。

 

 完璧に思い通り

 

となると、

自分のレベルが上がれば上がるほど

その難しさを感じます。

 

 

木材をノコギリで切るときにまっすぐ切る。

 

家具職人の人であれば、ゼロコンマ何ミリの世界で勝負をしています。

 

舞台セットで、昨年、回転扉を作りましたが、

左右の隙間は2ミリ。

併せて4ミリの隙間で

 

それ以下だと回らず、

それ以上だと、隙間が空きすぎに。

 

例え2ミリでできても、

軸が曲がった瞬間に終わります。

 

 

 まずは思い通りの作品を作る。

 

 

その先に、自分が満足し、

観てくれる人が満足してくれる作品を目指しながら。

 

今日も「できた」と思った短編の脚本に

修正を加えています。

 

短編で学んだことを

長編でするために

只今、長編も進めています。

 

さて、どうなりますか。

 同じ作品を観て、聞いて、

 自分がどう考えるか思考し、

 他の人がどんな意見をもっているか聞く。

 

 多角的な視点が持てるからいいな

 

と思っています。

これについては、

俳優が同じ作品や演技を観て

 

 いいね or 悪いね

 この辺が気になる

 もっとこうすべきだ

 

と飲みの席で話しているのと同じです。

 

その飲みニケーションも少なくなっている時代、

どのようにコミュニケーションをしていくのが有効か

なかなか難しい。
 

できるだけ、

話せる仲間と機会を見つけていかなけへば

という危機感があります。

 

 

個人的に困っているのは、自主公演。

 

主催者を目の前に

 

 あの辺がだめだ

 この辺足りない

 

などと言える人は少なく

仲間がいると、意見をもらえますが、

一人親方だと、

トライ&エラーを繰り返して発見するしかない。

 

そのため、気づくまで時間がかかることが

多々あります。

 

 

最近気づいたこと

 

最近、意見されている他の人の脚本の話から

自分の脚本を振り返り、

 

 あ

 

と思ったこととして、

それは、俳優にも言えることなのですが、

 

 状態の説明はいらない。

 

というもの。

 

 

必要なものは、


俳優であれば


 即興性、ライブ感


といえば伝わるかと思うのですが、

これを脚本や小説で言うと何かと想像すると、

 

 「臨場感」

 

ということが当てはまりそうです。

 

 

分かっていても、

説明を一生懸命するだけだと、

その状態だけを一定量指摘するだけで、

そこから前後の動きが想像できない。

 

俳優が、わざわざ

 

 僕はこんな人です

 

と状態(ポーズ)を取ってを演じるより、

その人が、

 

 その出来事があったとき

 その場でどんな反応をするか

 

で、どんな人か説明できます。

 

状態を説明だけでなんとかなると思うのは

人間の想像力を過小評価しており、

話者のか驕りだな、と。

 

 想像のためのピースを

 どのように渡してあげるか

 

の方が重要と考えます。

 

 

絵画や写真は、静止画ですが、

観ていて前後の動きが想像できる作品が面白い。

 

先日観たモネでも、

光の動きを想像することができます。

 

そして、想像を一つすると、

連鎖して匂いや触感といった

別の感覚をも刺激し、

想像に影響を及ぼしていきます。


モネも草や花、

日差しの暖かさが想像できました。

 


自分事として考える

 

こんなことに気づかせてもらえるのも、

自分が言われたことではなく、

他の人が言われたことを

自分事として考える機会があったからです。

 

こういった機会を、都度得ていくことができれば、

もっといろんな想像の幅が広がるな、

と思いながら。