工房長のぼやき

工房長のぼやき

チームスチームパンの工房長、安達俊信の日々是之。
思いついたことをカタカタ書いています。

自分の感覚ばかりに注視していると

周りが見えなくなります。

 

相手ばかりを気にしていたら、

自分の感覚がおろそかになります。

 

 

演じるときに

鴻上尚史さんは本の中で

 

 第1セルクル

 第2セルクル

 第3セルクル

 

の話を出して、

どこに注視するかを言っています。

 

セルクルは、

スポットがどこに当たっているかのイメージで

 

 第1は、自分への注目、

  自分だけにスポットが当たっている状態。

 第2は、相手への注目、

  自分と相手にスポットが当たっている状態。

 第3は、自分と相手以外の「その他」への注目、

  全体にスポットが当たっている状態。

 

単体ではなく、

 

 第1→第2→第3と感覚を広げていく

 

ということが大切になようです。

 

何か困ったり、わからなくなったときは、

 

 第1に戻れ

 

という内容でした。

 

 

読んだ際には、

 

 全て一緒に考えていたなぁ、

 

と反省し、きちんと分けて考えるようにしました。

 

様々な事象に対して

 

 自分の頭を整理するのに、

 客観視するのに

 

これはとても有効な考え方だな

と思っています。

 

自分だけでなく、

一緒くたに考えている人や

どれか一つだけに注目している人、

が少なくない数いることをしばしば感じます。

 

 

自信を持つことはいいこと……だが

 

第1セルクルの自分への注目は、

自分が自信を持つことに必要です。

 

なぜなら、人に何を言われようと、

自分の好き嫌いの正解は、


 自分だけが知っていることで、

 他人が否定するものではなく、

 誰かに阻害されるものではない


からです。


否定されない自分だけが知っていることは

明確にすればするほど、

自信になります。

 

 

私の場合、

昔は、人から意見をもらうと、

 

 あ、その感覚にならなければならないのか

 

と早とちりしていましたが、

 

 自分の感覚だと、こうだけど、

 そのようにはならない。


 どういった要素が何が足りないのかな?

 

と考えられるようになり、


 何を意識できているか、

 何を意識できていないか


が明確になり、

漠然としたことではなくなったことで

自信を持って演じられるようになりました。

 


自信を持つとヤバい人

 

だけど、自信を持つと

ヤバくなる人もいます。

 

昔、後輩で自分に自信がなく、

第3セルクルの他者ばかり気にしていた子がいました。

 

自分へ注目できず、

自分の中での正解がないため、

他人に評価軸をいつも置く。

 

だから、やることに必ず許可を求めてくる。

 

 

 

 自信を持ってほしいな

 

と思い、

 

 「君のことを認めているから、

 自分の思うことをやってみるといいよ

 それは面白いから」

 

と言ったところ、

自分の思うことを徐々にやっていき、

大いに自信を持ってくれました。

 

 良かった良かった

 

そこまでは……

 

 

時間が経つにつれ、次に起こったのは、

 

 私は正しい

 

という主張。

 

 私が思った感覚は、他人も面白いものだ

 

という誤解。

 

第一セルクルの感覚のみを大切にして、

他者からの意見を聞かず、

他者を否定・排除ばかりするようになっていきました。

 

個人的に

 

 いや、これまで通り、

 第3セルクルを持ちながら

 第1をしないと意味がない……

 

と思って注意していましたが

受け入れず、

結局そのまま治ることもなかった。

 

 どうするのが良かったのかな?


と思い返すことは未だにあり、


 本人が気づくまで待つしかないのか?


と、答えに達していません。


 

自分の感覚の拡張

演出に足らないと言われた際に、

自分の引き出しを全部開いても

対応できないことはあります。

 

そのときは、

自分の感覚を拡張し

得られたもので表現をするしかない。


第2セルクルからはじめて

第3セルクルへと進み

最終的に第1セルクルに戻してきて、

感覚を広げられるか。


 

「感覚の拡張」ですが、

 

 外部からの情報を

 自分が受け取ることで

 

得られます。


つまり第2セルクル。

 

例えば、

 

 食べたことないもの、

 行ったことない場所、

 知らない知識を得た時、

 普段しない動きをしたとき、

 

それらを知ったときに感覚が拡張されます。

 

決して内側から沸き起こることではないです。

 

 

役を演じる際、

自分に近しければいいですが、

 

 演じ手と性格が不一致

 体験したことのないことを体験をしている

 時代が違う

 

となると、

「感覚の拡張」は必要です。

 

感情のやりとりで様々な物語を紡ぐ小劇場であれば

特に必要な能力です。

 

 ※主張を中心とする芝居であれば、

  自分の感覚自体の重要度は下がり

  気にしなくて良いとは考えていますが。

 



バランスをとる

 

まずは自分の感覚を大切に。

次に相手役との関係作りを。

 

 自分の感覚ばかりに集中してしまいがちな人は、

 相手役に注目を。

 

 他人ばかりに集中している人は、

 自分に注目を。

 

バランスなので、

時と場合によって分量が違ってきます。

 

都度、チェックできるようになれば

 

 

Ghost Note Theater が公演中

 

鷲見武さん主宰のGhost Note Theater が

下北沢亭にて公演中。

 

 



 

今回は自分の都合で、B班のゲネプロを観劇。

 

B班出演の ひらとゆうきさんは、

チームスチームパンに出演してもらったこともあり

今年から「かどる」という団体を立ち上げて活動中でしたが

そのほかの出演者の方々ははじめての方々だったので

とても新鮮に観劇させていただきました。

 

鷲見さんの言葉をどう紡ぐのだろうか

と思いながら、

80分あっという間に過ぎていきました。

 

 

観劇終わった後に

 

 え?

 

となりました。

 

 

A班は、

ワダ・タワーさん、みゆきさん、神田さんは

別の芝居を何度か見させていただいたこともあり、

俳優の気質から逆算しても、

全く違う質感の芝居になるしかありません。

 

そこからイメージしたA班の作品は


 ……


観劇後の感想もずいぶん違うものに。

 

演劇の芝居で

演じる俳優によって作品が

ここまで変わるのはなかなか面白い。

 

是非、両班ご覧いただき

違いを楽しんでいただければ。






 

朗読劇を見て(聞いて)

10年くらい経ちます。

 

ふぉーすてーじの朗読劇の誘いを受けて

高田べんさんが出演されていた公演を

聴きに行ったのが始まりです。






 

 

演劇と朗読劇

 

会話の中で

人の感情を

どのような情報が

刺激するか。

 

 

メラビアンの法則では、

 

 視覚情報 55%

 聴覚情報 38%

 言語情報 7%

 

と言われています。

 

 

演劇では、

どのように台詞の喋るか

は考えますが、

身体表現の割合が高くなりがちで、

朗読劇のレベルと比較し、

喋り方がおろそかになりがちです。

 

朗読劇では、聴覚のみの表現なので、

アクセントの基礎はもちろん

綺麗に喋るだけでない

プラスアルファが必要となります。

 

 

朗読劇を何度か見ていく中で、

 

 具体的なイメージができていない場合は

 表現できない

 

ということに気づきました。

 

そして、それは


 演劇でも同じだ


ということ。

 

その発見を話したところ、

とある俳優さんに

 

 具体的なイメージを

 表現する技術も必要です

 

と言われ、


 それは確かに


と思ったり。

 


具体的なイメージ

 

声優といえば、

アニメのキャラクターや吹き替えと

勝手に思っていましたが、

ナレーションもあります。

 

朗読劇に参加した際、初心者の質問として


 ナレーションはどうやってますか?


と尋ねたとき、とある人は

 

 写真みたいな空間に身を置いて話す

 

と言われて、

 

  なんのこっちゃ?

 

とその時思ってました。


今にして思えば、

 

 具体的なイメージの中

 

ということか、と納得してます。

 


具体的なイメージもいろいろな階層があり、

深度をどこまで深められるのか

朗読劇に出演するたびに、


 深めるための技術の奥が深すぎないか?!


と溺れそうになることも。

 

 

ちなみに、朗読劇は、様々なスタイルがあり、

もし苦手だという人は、

演劇的な朗読劇があるので、

そちらの角度から入るのはありです。

 

 

朗読劇の魅力

 

朗読劇の魅力の一つは

小説もですが、

自分の想像力を使うので、

頭の中は、人によって違います。

 

10人いたら10人とも違う世界。

自分だけの世界。

 

そんな世界を楽しませるために、

ただ伝えるように話すだけでなく、

具体的なイメージを持って表現することが

必要です。

 

うまい人って、

具体的なイメージを持って表現するを当たり前として、

多彩な表現をされます。

 

どうやってるの?

と思うこともしばしば。

 

ただ、演劇での表現を広げたければ、

朗読劇には挑戦すべきだ

と思います。

 

まずは、具体的なイメージを持って表現するための

方法として、

演劇で

疎かになっていることが

分かります。

 

アクセントからはじまり、

具体的なイメージ、

そのイメージを共有するための力。

 

 

すでに声優の世界では

 

 舞台をやれ

 

というのは定番のように言われてるそうです。

 

私が思うのは、

 

 演劇人は

 身体表現だけでなく

 聴覚表現のために

 朗読劇もやれ

 

と思ってます。

 

 

不完全なものは、許容されないのかな?


 お客さんとして受ける取るなら、

 完璧を求めるのは当然の権利


と思うのが当たり前な日本


 プロの世界であれば当たり前だ、


と言われそうだが、

プロであればあるほど完璧は遠のいていく

という矛盾。


普通の人が気づけないレベルのことを気づくから。



プロの人が


 完璧が当たり前、


というのに囚われてしまうと不幸だな

と思います。

健康を蔑ろにしないこと。

 

身体を使う人にとっては

とても大切なこと。

 


俳優は、身体が資本です。

 

 売り物である身体の手入れは大切

 


求められるものとなるため、

金がかけても磨き続けなければ。

 

 体型維持、

 髪型、

 メイク

 日焼け、

 

といった美容は、当然のことです。

 

 

それ以外にも、

 

 怪我をしてはダメ

 風邪を引いてはダメ

 花粉症対策

 などなど

 

不意な事故や

季節の猛威をもかいくぐり、

いつでも芝居をやれるよう

整えることも必要です。

 

 

 

さて、先日、人間ドッグに行ったところ、

視力で引っかかりました。

 

矯正視力が思った以上落ちて再検査へ。

 

 

 目は、かなりまずい。



と焦りまくりました。

 

メガネを作り直す料金もですが、

 

人間が、

人視覚情報から得られるのは、

聴覚情報、言語情報より大きく、

半分以上の55%。

 

相手役とのやりとりのときに

相手の変化に気づくのに

視覚情報は大切です。

 

そして、演出しているときに

目がないと……。

 

また、脚本書くとき、 には、

見えにぬいストレスで

書くことに集中できなくなる可能性も。

 

 

ただ、眼科で改めて測った視力は

問題なしとのこと。

 

 ホッとするところ。

 

なんなら、

目の疲労度や

日常的にPCを使うことを考えると

今のメガネの度がベストとのこと。

 

 あれ、自分がメガネを買う時の判断は

 間違ってなかったのか。

 


受診された状況や、時間などを聞かれて、

 

 昼からだったので、午前中はPC作業していました

 

といったら

 

 影響はあったかもしれませんね、

 ただ、検査の機器の問題もあります。

 

とのこと。

 


 

おおぅ。

今年は免許更新もあるというのに。


それをきちんとクリアできるか心配だ。

 

 

ただ、きちんと知っていれば対策も取れるので、

まず知らずに悪くなっていかないようにだけしたいところ。

 

 

知人の方で、

異変に気づいていたけど放置したため

後手に回って、

取り返しがつかないことになった


ということもあり、

それだけにはならないように。

ある番組で、仲代達也さんが演技について、


 セリフは話している時に聞いて、

 セリフを聞いている時に話す


ということを話をされていた。



何を話されたかを頭で巡らせた後、


 そ、それは……自分を自在に操れるようになって、

 ようやく達せられる境地では?


 そんなこと言っちゃって大丈夫?


と思いました。


というのも、


 あ、そうなんだ。


と思ってやろうすると


 聞いているつもり

 話しているつもり


に陥る可能性が非常に高い話だから。



仲代さんの話を


 あ、そうですよね。


と自然に同意する人は、

すでに吸収していることなので、

これは熟達者へのメッセージが込められているのか?



俳優の奥義は、


 そこに存在すること


そこへ達するために、


 セリフは話している時に聞いて、

 セリフを聞いている時に話す


は必ず通る道。


先日のWSで

 他人に話そうとすること

 他人の話を聞こうとすること


に一生懸命になることに気づく
ワークをしていましたが、
なかなか一朝一夕では気付けません。

もし、気づくことができれば
次のステップへいけますが、
側からわかる事も、
当人にはわからないことは多いです。


どんなものか想像して
ボクサーのパンチを言葉の塊に見立てると
自分にとってわかりやすく、

 ボクサーのパンチをテレビで見ていると、
 どのように動いているかわかるけど、
 対戦相手の視点に立った瞬間、
 拳がどのようにくるかわからない。

 拳を繰り出した瞬間に
 カウンターに合うかもしれないし、
 相手の拳が来た瞬間に
 消えたように見えるなんてことも。

どちらもしっかり受け止めたり
避けたりしなければ。



自分の公演でも
舞台に熟達していない人の場合は、
演技指導で、聞く、話すを
立体的に作るために、

 どう相手に伝えるか
 どうリアクションするか

本人の意識と連動するように作ります。

この意識部分で、

 セリフは話している時に

 相手がどう聴いているか観察してもらい、

 相手のセリフを聞いている時に

 どう感じるか意識してもらいます



なぜ指摘されたかが分かった人は
別の公演でも応用できます。

指摘されて直しただけだと、
その公演だけ有効な手段となります。



 人に話すこと
 人の話を聴くこと、


人それぞれのやり方がありますが、
私には課題の一つ。
特に映像の芝居をやる時は。

まだまだ研究していきます

映像と演劇の芝居とどう違うのか?

 

ステラ・アドラーは著書の中で

 

映画は、

カメラが俳優の「素」を捉えようとするため、

自分の個人な経験、感情、日常の自分を持ち込む。

 

演劇は、

役が生きる時代、階級、状況を踏まえた上で、

役の世界に自分を適応させる。

 

といったことを言われている。

 

 

そして、どちらの演技にも共通するのは、


 役を自分のレベルに引き下げるのではなく、

 自分を役のサイズに引き上げること


が必要だと言ってます。

 

 

 

これと似たこと何かないのかな?

と思っていたのですが、

バナナマンの設楽さんが言っていた、

 

「コント師は、二度売れなくてはならない」

 

というのがしっくりきました。

 

 

「漫才師」と「コント師」の違いで、

 

漫才は、「素の自分たち」に近い状態で話す芸風。

 

コントは、設定があり、自分を役のサイズに高めなければならない。

そして、コントで売れれば、テレビなどでは素の部分が求められる。

 

 

映像は、漫才のようで、

演劇は、コントようだとすれば

すごく腑に落ちる。

 

演劇から映像の世界へ行くと

素の自分が必要となってきます。

 

 

「コント師は、二度売れなくてはならない」は

コントでの虚構の役を演じていても、

売れていくと、素の自分が必要になる。

 

ということです。

 

 

 

さて、では最近の芝居は?

 

十分な稽古時間を取ることが難しくなっている昨今、

短時間で仕上げるなければならない。

 

この場合、

わかっている素に近い自分でのやりとりが

有効だな

と考えます。

 

 

ただ、

 

 役者とは?

 俳優とは?

 

となったときに

 

 役者は、役を演じる者。

 俳優は、人非ざり優れた者。

  ※優……わざおぎ(神を慰めるために舞を踊る人)という意味もあるとか

 

 

素の自分は、この芸術に有効なのか?

 

という疑問が残ります。

 

 

もし、素の自分を求められていれば

再現性があり、失敗がなくていい。


ただ、

素の自分を求められ続けることはあるのか?

 

 

一生現役でいるには、

自分以外の人間を生きる技術を持つことが

必要ではないか。

 

 

俳優としてもがき続ける人は、

この辺りについて考え、試し、

人間味を増してるな


と勝手思っております。

自分軸を持つ

 

 自分軸から離れる

 

また自分軸に戻る。

 

 

これを繰り返す。

 

 

 この繰り返しは同じか?

 

いやいや違うだろう。

というのが私の見解です。

 

 

 

役所広司さんの「PERFECT DAYS」を見ながら、

ふとそんなことを思いました。

 

 

 

役所広司がやっぱり好き、

ということは置いておいて、

 

うちの北見師匠曰く、

 

 同じことを年輪のように繰り返すと

 幹は太くなる。

 

といいます。

 

 

これを聞いて、

台本の読み込みの際、

台本読んで最初に思ったことって

意外に正しいという事実。

 

ただ、それを

 

 本当か?

 

と思い、

 

そこから一度離れて

 

 考えたり

 行動を変えたり

 話し合ってみたり

 

そして、一周回って


 やっぱり最初に思ったことじゃん。

 

と同じことにたどり着くことは

しばしばあります。

 

 

でも、これは同じ場所に戻ってきただけか?

 

 思考は同じでも、

 全然違う物だ


と私は感じています。

 

 

なぜなら、成果としては見にくいですが、

演じる際に、一周まわるだけで

 

 自信

 説得力

 納得感

 

が全く違って、

地に足がつき、

同じ顔をしていても

別人のようになります。

 

 

何周も回ることで

どんどん体感が変わっていくことを知ると

 

 どれだけ回って太くなれるか

 

ということを考える用になります。

 

 

 

稽古で、

 

 頭から最後まで

 また、頭から最後まで

 

これを何回できるか。

 

作品の質も、これで変わります。

 

 

 

 

 同じことをただ繰り返しているだけ


と思い、何も感じない人がいます。

 

無痛のふりをして

変化する感覚を無視する。

 


俳優ならは

 

 それじゃダメじゃん

 

と思うので、

 

 繰り返しの中で変化を自覚できると

 その登場人物の人生が豊かになる

 

と思って頑張ってほしい。

 

同じなような日常でも、

同じでないのだから。

 

 


ただ、こんな場合は無痛でいた方が良い


 多数の現場を抱えていて、

 極端なストレスを抱えている


そんな時、無痛のフリして、

心を壊さないようにしてほしい。

 

 

 

「PERFECT DAYS」を見たときに、

観た人によって感じ方が違うな、

と思いました。

 

作品を見ることで、

日々、自分がどのように生きているかを

客観視できるから。

 

 

作品を見て感じたことが

日々、あなたが感じていること。

 


リトマス紙のように判定できます。

 

 

もし、

 

 つまらない、

 

と感じたなら、

日々、激動の中で変化し続けており、

ストレス軽減のために、日々の変化を感じないように

無痛になっているのかもしれません、

 

 

また、

 

 面白い

 

と感じるなら、作品の細かな機微に気づき余裕があり、

実生活を同じルーティンで過ごせているかもしれません。

 

 

 

 人生は同じようなことの繰り返しだから

 ぐるぐる年輪を重ねて

 自分の軸を太くして、

 豊かになっていくぞ!

 


そう思うと

放り出したい気持ちでも

一つ踏ん張れます。

 

 

 

演技のワークショップの見学をさせてもらいました。

 

ワークショップは

本番力、向上の手段の一つです。



演技のワークショップは、色々あり、

今回見学させていただいたのは、

演技のみに特化したWS。


このワークショップは、実験が一杯できるなぁ、

などと思いながら。

 

 

良いワークショップとは何だろう?

 

 人と人をつなげるワークショップもあり、

 本番のためのワークショップもあり、

 発声のワークショップもあり、

 何かに特化したワークショップあり

 

いろんなワークショップがあります。

 

 

 理想的なワークショップって何だろう?

 

 

と考えたとき、

参加することで、

 

 

 演技がうまくなって

 人とのつながりができて、

 大きな舞台で良い役に挑戦できるルートが確立される

 

 

そんなワークショップがあったらいいな。

 

……あったら教えてください。

 

 

WSを見学する私

 

今回は見学で、外から観察。

 

 え、観察?

 それでいいの?

 

と思われるかもしれませんが、

それはそれでためになります。

 

 人がどういったことに反応して、

 どんな影響を受けて、

 どんな風に出力するか。

 

逆に

 

 人が反応できず、

 影響も受けなかった場合、

 どんな風に出力されるか

 

など、

見て観察して、自分の置き換えてフィードバックして

 ふむふむ

納得することもあれば、

 あれ?

となることもあり、

とても参考になります。

 

 

 

ワークショップのワーク意図を参加者は理解すべきか?

 

ワークショップ参加者は、

 

 ワークの意図と理解すべきなのだろうか?

 

と思いました。

 

そもそも理解できない場合も多いけども。

 

 なぜなら、自分の自覚していない感覚を見つける

 ワークなのだから。

 

フェルデンクライスで

説明せずにやるワークで、

 

 おお、これは!

 

という発見をしたときは面白かった。

 

意味が分からずやって、

自分で意味を発見できた喜び。

 

ただ、見学だと、

ワークの意味を考えながら見ちゃう。

 

 お、このワーク、リアクションの訓練にめっちゃ良い

 

とか

 

 

演技上達には?

 

演技は、できる人はできちゃう。

感覚で捕まえてふっとやっちゃう。

 

それはそれで良い、

と考えます。

 

ただ、うまくできなくても良い。

 

だってうまくなるために

ワークショップに参加するんだから。

 

 

「うまくできない」

 

だから

 

「もっとうまくなるには?」

 

 

 

今より、更に上達するためには、

天才だろうと、凡人だろうと、一度、

 

 自分の意識化に落とし、

 自分のやっていることを分解し

 どうしてか考え、

 改善点を試すため、

 また無意識にもどし

 演じる

 

この繰り返しです。

 

 

PCの操作は、構造を知らなくてもできる。

 

もし、PC自体を高性能にしたいなら、

 

 構造を理解し、

 一つずつ分解して、

 どういった部品か理解し、

 その相性を考えて

 再度組み立てる

 

なんてことが必要なのと同じです。

 

 

ワークの意図を考える参加者

 

ワーク一つ一つの意図を

先に考える人は

大変です。

 

 ワークの意図通りにやれば正解

 

と勘違いするので。

 

ロジックで捉えれば演技ができると思っちゃう。

 

 

そんな人は感情など、感覚に無関心な人が多く、

 

 「頭で理解できればできる」

 

という誤解をし、

 

 「言えば分かる」

 

と思っている人に多いです。

 

 

人間なんて、一度行って理解してもらえるなんて思ってるなら、

こちらが痛い目に遭います。

 

何度も何度も、繰り返し繰り返し言い続けて

ようやくどうか?

です。

 

 

できる人で、

本当の意味でワークの意図を考える人は、

 

 とりあえずやる。

 やったワークが自分にどんな影響を与えたかを自己分析。

 その上でワークの意図を知り、

 更に自己分析し、

 それがどう感覚に繋がるか最終的に試す

 

ということで深掘りしていきます。

 

 

 

ワークショップは萎縮しないために楽しく

 

ここで楽しくは、

 

 自分が楽しむ、面白おかしく、わがままかってに

 

という意味ではなく、

 

 萎縮せずにやる

 

ということです。

 

 

本番に向けて、切羽詰まると

余裕がなくなり、ピリピリムード。

 

そんな場所で萎縮しやすく

萎縮すると出るものも出ない。

 

それに対応するために

どの状態がいいかを

ワークショップで体感をしておくこと。

 

 

もし実力以上を出したいのであれば、

 

 適度な緊張

 

 

 リラックス

 

を操れるようになること。

 

トライ&エラーが必ず必要になります。

 

 

もし、緊張の中で、楽しむことができれば、

適度な緊張となり、

心技体のバランスを整え

一番力が発揮できます。

 

萩本欽一さんも適度な緊張が

力を発揮することを言っていましたし。

 

ワークショップの中で、

そういった良き感覚を掴む

練習の一つとも考えてやれば

更に豊かに。

 

 

ワークショップは怖い

 

知らない感覚に出会うことは怖いことなのですが

ワークショップは大切なことを

ギュンと凝縮しているので、

全てを理解する必要があります。

 

大切なことばかりなので。

 

それを、

 

 なんとなく

 

で終わると

大切な部分が

 

 なんとなく

 

で終わってしまう。

 

 

ワークで

 

 どういった効果が自分自身にあったか

 感覚的なものを捉えて言語化する

 

そうることで逃さずに済む。

 

 

全てを一気理解できるなら

そのワークショップはもう必要ないので

別の場へ行くべきでしょう。

 

何度も同じような間違いを繰り返しながら、

吸収していく。

 

 

演技って、本当に一朝一夕ではない。

 

ワークショップを使って

演技力向上させる。

 

 

実践の緊張感は、

ワークショップでは、決して経験できないので

ワークショップで実験、

また本番

というのを繰り返してくのは悪くない

と考えます。

 

ぼやっとしたものを

形にする能力。


ぼやっとした状態から

具体的なイメージにできるか?



ぼやっとしたまま表現すれば

ぼやっとする。


明確なイメージがあれば

具体的な手段で表現ができる。



ぼやっとしたままか、

具体的か、

どちらがいいか

無意識のうちに判断を下している日々です。




明確なイメージが持つ。


ぼやっとした点と

具体的なイメージの境界線は

どこにあるんだろうか。


この境界自体がぼやっとしません?



例えば、一つ「アイディア」がある。


これは具体的か、否か?


アイディアだから具体的にも思えますが、

受け取る側の人によって大分変わってきます。



 ・1の「アイディア」から、10を想像する人。


 ・「アイディア」から 

  勝手に全く違う想像を膨らませる人。


 ・言われたままを受け取る人


 ・全く何も浮かばない人



具体的な者を受け取っても、

結局ぼやっとさせちゃうことも

多々あります。


日頃から何を無意識で感じているか、

経験によって

その反応が違ってきます。




瞬発的にふっと掴める人、掴めない人。



わたしは後者で「ふっと掴めない」ので、

立ち止まって、

思考する時間を取る必要がある。


掴みさえすれば、

再現性があるので、

人に伝えることもできる。


自分の中での

ぼやっとしたものから

具体化にするには

立ち止まって考えるしない

ということを自覚しております。



なので、焦って突き進むよりも、

あえて立ち止まって考える時間を作る

そのように心がける。


特に今年は、

そんな立ち止まりが多々あります。


そんな日々。