自衛官募集の看板がマンションに掛けてあ

った。


桑原爺さん日々雑感 


看板を見て自衛隊に入った頃を思い出した。

今は自衛官も結構人気があるようだが、昔

は自衛官は日陰者のイメージがあり貧しい

家庭で学校に行けない人が多かったように

思う。爺さんの田舎でも高校に行けない人

が何人か自衛隊に行った。


爺さんの田舎では高校に行くのが大変だっ

た。有名な高校に行くには下宿しなければ

ならなかった。経済的な理由の為高校に進

学する者は1割も居なかった。


それでも学年でトップクラス4~5名は県下

でも有数の進学校に行っていた。爺さんは

小学校の時は全く勉強をしなかったが中学

校に入ると猛烈に勉強を始めた。そして養

父から聞いた言葉で大学に行って建設業

に入りお金を儲けたいと思っていた。

(2013年04月15日 無から有の創造)


成績は中学1年の2学期から学年のトップ

になっていた。中学3年の3学期になって

高校進学の話しが具体化してきた。養父

母は下宿までして進学させる事は出来な

い。しかし近くの通える高校だったら何

とかやれない事はないと苦しい表情で言

った。


その頃は商売の八百屋の売り上げが落ち

利益が上がらず苦しい遣り繰りだった。

実情をよく知っていたので無理は言えな

い。


担任の先生に伝えると「なんでそんな高

校に行くんや。先生から両親に頼んでや

ろうか。」と言って呉れた。しかし黙っ

て首を横に振った。


それまで張り詰めていた緊張の糸がプッ

ツリ切れてしまった。それからは家に帰

ってもぼんやりとして勉強に手が付かな

かった。

 

失意の中でその高校を受験し入学した。

入学して生徒みんながのんびりしている

のに驚いた。みんなに緊張感が全く感じ

られなかった。いつしかそんな学校風土

にすっかり馴染んでしまっていた。


ただ養父母からは入学時から大学は国立

大学に入ってアルバイトでやって呉れと

言われていたので、援助は期待出来なか

った。


高校3年になって浪人は止む無しと判断

したので、1年間だけ勉強させて欲しい

と頼んだ。1年間はがむしゃらに勉強を

やろうと決意した。教材は通信添削とラ

ジオ講座だった。


ところが養父母の風向きの変化が意外と

早く訪れた。一日中家の中で働かないで

勉強している爺さんに、台所事情が苦し

い養父母がボソボソと言い始めたのだ。


「何処其処の子はもう高校出て働いてい

るのに・・・」「高校出ればもう一人前

やのに・・・」


言われる事は尤もだが聞いているのは辛

い。高校まで行かして貰ったのは有り難

い事だ。高校で勉強してストレートで国

立大学に入れば文句はなかった。それを

しなかったのは自分が馬鹿だったんだ。

もうこれ以上養父母に迷惑は掛けられな

い。よし働きながら勉強しようと決意し

た。

高校の仲間に話しがあると電話して会い

に行った。「俺、一先ず就職しようと思

っとるんや。」「エッ!なんでや?」

「家で勉強してるのが辛いんや。」「そ

うか、俺もな1年間だけ勉強さして呉れ

って頼んだんや。それで落ちたら就職す

るからって言うてな。しかし俺もお前も

こんなあほな高校に来て不幸やったな。」

と自嘲気味に彼は言った。


「そうでもないで。勉強は出来んけどこ

の高校はみんな良い仲間や。もし此処に

来なかったらお前等みたいな良い仲間達

にも会えんかったしな。」と答えた。彼

は笑って頷いた。「そうやな。今日は名

古屋でも遊びに行くか。」

(2011年08月23日 

     えーこんちゃんと愉快な仲間達)


二人で名古屋の街中をブラブラしていた

ら自衛官募集のパンフレットを配ってい

た人に声を掛けられた。差し障りのない

話しから始まって自衛隊に入ったら働き

ながら勉強も出来るような話しとなった。


彼は関心がなかったようだが、爺さんに

は願ってもない話しだった。詳しい話し

をしたいのでと住所を聞かれた。


後日ジープに乗って自衛官が訪ねて来た。

養父母は乗り気であった。爺さんは兎に

角勉強がしたかったのでその点だけを確

認して了解した。海上自衛隊、航空自衛

隊は訓練が大変なので勉強するのは難し

いとの話しであった。


最後に叔父さんの家で食事をご馳走にな

り、愈々故郷を出る事になった。これで

心置きなく思う存分やれると思った。し

かしこれが苦難の始まりになろうとは夢

にも思わなかった。


横須賀駅に着くと迎えのジープが来てい

た。入隊をしてみて勉強なんかとても出

来るような雰囲気ではない事が分かった。


何年か自衛隊に勤めて何処かの部署に配

属され、そこから学校に行く事は出来る

かも知れないがそれでは遅過ぎる。直ぐ

に上官に脱退の意志を伝えた。


入隊して直ぐに辞める事等今迄前例がな

いと直ぐ様却下された。しかし絶対に引

き下がらなかった。とうとう根負けした

のか幹部の部屋に通され話しをする事に

なった。


幹部も直ぐの脱退は認められないとの強

い態度だったが、勉強したいとの熱意は

分かって呉れたのか渋々許可して呉れた。


入隊してご版が美味かったのは今でもは

っきり覚えている。麦ご版もあって勿論

食べ放題だ。家庭の事情で満足にご飯を

食べられなかった人達には本当に有り難

い職場であるには違いないと思った。


よし、これから東京に行こう。其処には

爺さんの義理の従兄のもっちゃんが居る。

彼の処で暫く置いて貰って身の振り方を

決めようと考えた。


もっちゃんは養母の甥に当リ、小学生の

頃はよく遊んで貰っていた。養子先には

兄弟が居なかったので兄のように思って

いたが、「もっちゃんは礼儀良くてよく

勉強するのに、ぼんとは偉い違いやな。」

とよく比較されていたので良い感じはし

てなかった。しかし今はそんな事を言っ

ている余裕はない。


故郷を出てから1週間波瀾万丈の人生が

始まろうとしていた。


明日は天気も良さそうなので東京に行っ

て思い出の公園にでも行ってみるかな。

がんセンターに行ってきた。がっぽり開い

た噴火口の白い膿のような物は随分なくな

り、下に赤い肉のような物が見える。この

儘皮膚になって呉れると有り難いが・・・

(2013年05月27日 生命の雄叫び)


先月18日から痛み止めのロキソニンを1日

3回飲んでいる。その所為か肩の痛みは殆

どないが何となく重だるい感じではある。


最近噴火口辺りが擦り剥いたような表面の

痛みが出始めた。退院後消毒液で消毒を

していたが最近は痛みがきついので暫く消

毒は止める事にした。


抗癌剤は主治医と相談をして従来の2週間

服用で1週間休薬として自己管理する事に

なった。


2週間服用では5クール目辺りから食欲が

なくなってきた。従って2週間服用は長い事

になる。しかし1週間の服用では殆ど影響

がない。


なので理論的には服用期間が7日超14日

未満、休薬期間が14日未満7日超の何れ

かに均衡点が見付けられる筈だ。


抗癌剤の副作用は個人差があるので試行

錯誤でやってみる以外にない。今度は症

状が分かってきたので、抗癌剤を調整しな

がら自分の身体と折り合えるような生活を

していきたいと思っている。


ただ頸動脈が近くにあり、今は元気に普通

に過ごしていても容体が急変して大出血

後お別れとなる場合もあるので注意してお

くようにと念を押された。


同級生の女性からまた贈り物が届いた。

(2013年04月24日 

体力快復の療養入院7日目~

           初めての食事)

(2013年04月12日 38.8℃の発熱)


   野草酵素↓    ↓梅酵素 
桑原爺さん日々雑感 


彼女からは、以前贈り物の他にお手紙や

健康に関する資料等も何通か頂いた。本

当に有り難う。感謝しています。


今回添えてあったお手紙には、今年のゴ

ールデンウィークに三重の実家の周りで

仕込んだ野草酵素と今年6月に梅で作っ

った梅酵素ですとあった。


近年彼女の目の上に黒子(ほくろ)のよ

うな物が出来て、それが少しずつ大きく

なってきたそうだ。しかしお風呂で洗顔

の後酵素の原液を付けていたら脹らみが

なくなったそうだ。


爺さんの右頚部の皮膚が硬化した処にも

酵素をガーゼに滲み込ませ当ててみては

如何でしょうかとあった。良いと思われ

る事はやってみたいと思う。


少しでも楽になる事、良くなる事を願っ

ていますと付け加えてあった。お見舞い

封筒の花柄がカミツレ(カモミール)で

花言葉は「苦難の中での力」だそうだ。


何と温かい心配りのある優しいお方なん

だろう。有り難う!よ~し力が湧いてき

たぞ~

(2013年06月07日 

        楽しい発声訓練その2)


♪ 好きな笑顔を 抱いたから

  心の杖に なってくれ

  ああ 力が湧いてくる

  おれの人生 始発駅 別れ駅 ♪

先だって上司殿母上の足指が異常に膨ら

み、体温もやゝ高目だったのでクリニックに

通院した。


桑原爺さん日々雑感 


現在歯を治療中で栄養状態も良くないの

で暫く入院を勧められた。


本日入院が出来る事になったので病院に

行った。住み慣れた自宅の方が気が楽な

ので「帰りたい。」と言っていたが自立はも

う難しい状況だ。


桑原爺さん日々雑感 


父上の病状は次第に快復してきて酸素マ

スクは外されていた。間もなく御歳89になる

がそれにしても元気だ。爺さんの方が早く

逝きそうだ。


父上母上共に入院する事になったが、年齢

から考えると退院後の二人の暮らし方につ

いても決めておく必要がありそうだ。

上司殿母上の認知症が進んできたのでホ

ームヘルパーを入れる事になった。しかし

母上はとても頑張り屋さんでどうしても一人

でやると言って聞かない。


ケアマネ(介護支援専門員)さんと相談をし

て最初はお話し相手として入って貰う事に

した。徐々に支援に入って貰うようにすれば

良いだろう。


人生には頑張らない事も必要だ。これから

は皆さんに甘えながら暮らして欲しいもん

だ。


父上の病状は良くなって一般病棟に移動し

ていた。早く良くなって下さいね。


玄関のサボテンに綺麗な花が咲いてた。


桑原爺さん日々雑感   桑原爺さん日々雑感 

墓地解体撤去工事と境界石敷設工事の打

ち合わせの為田舎に行ってきた。


墓地解体撤去工事は以前に打ち合わせし

てあったので最終確認だ。

(2013年03月17日 改葬供養)


境界石敷設工事は養父が購入した住宅の

裏庭の境界に沿って石を敷設する工事だ。

(2011年06月13日 白壁の家)


桑原爺さん日々雑感 


裏庭の境界についてははっきりせず、この

境界を巡って養父と隣地所有者の先代と

で結構揉めていたようだ。


代替わりをして間もなく境界を確定すべく

打ち合わせをした。公図と現況から論理的

に話しをしながら進めた。


公図は相対的な土地の位置関係しか表さ

ないが打ち合わせには重要だ。隣地所有

者も納得をして境界石を設置する事が出

来た。


そこで今回はその境界に沿って石を敷設

する為の打ち合わせをしてきた。既に境界

石が設置してあったので事はすんなりと進

んだ。


そう云や境界紛争に関しては会社員の頃

こんな思い出がある。


会社の重要得意先が小田原市内に土地を

所有していたが、長年に渡り隣地所有者と

トラブルが続いていた。


ところがこの土地を売却する方針が出され

以前勤めていた会社に境界確定の支援要

請があった。


重要得意先であるのでお断りする事も出来

ずその役回りを務める事になった。


ま~根気良く何度も説得するしかなく何度

も小田原に足を運んだ。とうとう相手方も根

負けしたのか1年超に及んだ交渉の末遂に

境界紛争にけりが付いた。


考えてみれば、現場、技術、設計、営業、

開発等と卒なく器用に熟(こな)してきたも

のだと思う。


これだけ頑張ってこられたのは矢張り家族

があったからだろう。そして漸く子供が巣立

った時期を見計らって、遂に長年の夢を叶

えるべく相場の道へと大きく舵を切ることに

なる。


これこそが敢えて会社を辞めてまでもやり

遂げたかった長年の夢だったのだ。

(2011年03月11日 大地震発生)

(2010年12月24日 

      歴戦のキーボードカバー)

(2010年10月21日 

ジョガーズクラブ会長さんとのお別れ)


相場の道は志半ばではあったが長年の夢

を果たした充実感で心残りは余りない。

(2010年06月14日 クリックミス)

これについてはまた改めて書きこしよ

う。


その後白山神社にお参りに行ってきた。


桑原爺さん日々雑感   桑原爺さん日々雑感 


白山神社では小学生になると毎年1回

「山の神」と云って本堂で一泊する行

事があった。


村人から寄付を募り、お昼には民家で

五目ご飯と味噌汁をご馳走になった。

五目ご版を10杯食べた記憶がある。


小学校高学年になると、少将、中将と

なって6年生になると大将となった。境

内では竹筒に詰め物をして音を鳴らし

たり、遊んだりした。また時には隣り

の部落に遠征する事もあった。夜は遅

くまでわいわいがやがやと騒ぎ寝るの

は明け方だった。


大将になると好きなように出来るので

早く大将になりたかった。しかし残念

ながら6年生になると戻されてしまった

ので大将の経験は出来なかった。

(2011年10月28日 

        初めてのPET/CT検査)


実家の裏山が白山神社でもあったので

数々の思い出がある。

(2013年04月13日 競争心)

(2011年04月22日 横浜の白山神社)

(2011年01月01日 平成23年元旦)

(2010年10月07日 田舎の家)


         ↓白山神社
桑原爺さん日々雑感 
         ↑実家跡


子供達を集めて歌を唄った懐かしい灯

籠のステージだ。

(2013年05月14日 

      田舎の家楽しい発声訓練)

                  

桑原爺さん日々雑感 


老後は懐かしい故郷で暮らす積りだった

たが、癌になったので暮らし方を見直し

た。

(2011年01月07日 貸家契約)

上司殿父上母上のお見舞いの為、上司殿

と一緒に岐阜に行ってきた。


桑原爺さん日々雑感 


上司殿の弟よっちゃんが駅まで迎えに来て

呉れた。先日父上が肺炎で緊急入院したの

で、一先ず父上の入院先に行った。


桑原爺さん日々雑感 


父上は病院のHCU(高度治療室)で寝てい

た。上司殿を見るや否(いな)や、「おゝ会い

たかった。娘に会いたかった!」ととても喜ん

で呉れた。今回の入院は父上も辛かったよ

うだ。


酸素マスクをしているので聞き辛かったが

意識は確りしていた。暫く親娘で話しをして

いたが矢張り上司殿は気が置けない存在

のようだ


上司殿を愛情深く育てて頂いた父上母上

に改めて感謝をした。

昨日の都筑ふれあいの丘の老人施設にび

っくりしたので知り合いの人に話しをした。


すると、「あら!知らなかったの?市内に

は結構あるのよ。旭区の福寿荘も同じよう

な施設なのよ。」と教えて呉れた。


で散歩がてら福寿荘の施設を見に行って

きた。


                         福  寿  荘

    ↓旭工場の煙突 

桑原爺さん日々雑感   桑原爺さん日々雑感 


成~る程都筑ふれあいの丘と大体同じよう

な施設内容だった。大広間ではカラオケや

踊り等の演芸が楽しめるし、浴室もあって

入浴も出来る。


此処も近くに横浜市旭工場のごみ焼却場

があって矢張りこの余熱を利用しているの

だ。


よくよく考えてみれば爺さんも歴(れっき)と

した老人なんだが、今迄老人としての自覚

がなかったのでこう云った老人施設等とん

と関心がなかったのだ。


ま~尤も癌にならなけりゃ、元気の良い爺

さんであった事は間違いがないので無理も

なかろう。


これからどれだけ利用出来るかどうか分か

らないが、こう云った老人施設も機会があ

れば利用させて貰う事にしよう。

港北ニュータウンを散歩してきた。途中都

筑ふれあいの丘があったんで寄ってきた。


中には都筑プール、都筑地区センター、つ

づき緑寿荘、横浜あゆみ荘等があった。

                                                          
桑原爺さん日々雑感  桑原爺さん日々雑感 


この都筑ふれあいの丘の隣りには横浜市

都筑工場のごみ焼却場があって、これ等

の施設はこの余熱を利用しているようだ。


つづき緑寿荘は60歳以上の人に生き生き

とした豊かな老後を過ごせるように設置さ

れた福祉施設で、60歳以上の人は無料で

利用出来るそうだ。


大広間ではカラオケや輪踊り等が楽しめる

し、また浴室もあって入浴も出来る。ラウン

ジには大型テレビも備え付けてあり、その

他機能回復訓練室、娯楽室等もある。ヘェ

~これは驚きだ。 


横浜あゆみ荘は随分前に、たけちゃんの

合宿かなんかで一度家族全員で利用した

事があった。


とてもサービスが行き届いていて親切にし

て頂いたので、帰りにテーブルに置いてあ

った感想を書くノートにそんな事を記入した

記憶がある。


よく言われているが、確かに横浜市は福祉

が進んでいるなと実感した。


丁度昼時となったので、此処で昼食を摂っ

て新聞を読んで一休みしてからホームに

戻ってきた。

6月19日から台風の影響で愚図(ぐず)つい

た天気だったので散歩が出来なかった。


今日は晴れて良い天気となった。少し早く

起きて電車で出掛けた。どうしてもお参りが

したかった近藤勇のお墓だ。


近藤勇は言わずと知れた新選組局長だ。

彼は農民出身でありながら最も武士らし

い武士として生きた人物なのだ。

(2013年01月14日 

       当り前でなかった者達)


幕末の徳川幕府に与(くみ)する積り

はないが、彼の生き様にはとても魅せ

られるものがある。

(2013年05月16日 

    北海道はドイツ領だった!?)


      生家宮川家跡           昭和18年に家は取り壊された
桑原爺さん日々雑感   桑原爺さん日々雑感 


彼は1834年武蔵国多摩郡郡上石原村辻の

宮川久次郎の三男としてこの地に生まれ育

った。


15歳の時天然流理心流近藤周助に入門を

して翌年近藤家の養子となる。


          産湯の井戸                       近藤神社
桑原爺さん日々雑感   桑原爺さん日々雑感 


現在の跡地は屋敷の東南部に位置し、昭

和18年に家が取り壊されるまで宮川家で使

用していたこの井戸を残すだけである。


近藤神社は昭和初期に有志達に依って建

立された。

      

         近藤勇像                         辞世の句
桑原爺さん日々雑感   桑原爺さん日々雑感 


彼等は天皇と将軍を守る為に奮戦するが、

最後は賊軍となってしまう。そして愈々(い

よいよ)最後、徳川幕府は新政府の官軍に

恭順の姿勢を決め彼を大名に相応する資

格を与えて、体よく江戸を追い払ってしまう

のだ。


そして彼は1868年3月流山で新政府軍に

包囲され捕らわれる。同年4月25日罪人と

して板橋刑場で斬首され、首は京都の三

条河原に晒された。


裏切られながらもそれでもなお義を貫こう

とする彼の生き様に心を打たれる。宮川家

の檀家である龍源寺境内には辞世の句が

ある。


義を取り生を捨(す)つるは吾尊ぶところ

快く受けん電光三尺の剣(つるぎ)

只将(まさ)に一死をもって君恩に報いん


この君恩とは一体誰を指すのだろうか。彼

の胸に最後に去来したものは故郷多摩で

最後まで自分を支えて呉れた人々だった

に違いないと思う。

(2013年01月03日 

        ロケットペンダント)

   

          近藤家墓所

  ⑤    ④     ③     ②    ①
桑原爺さん日々雑感 


①先祖代々

②近藤勇

③近藤勇五郎(勇の娘婿)

④近藤新吉(勇の孫)

⑤近藤久太郎(勇の孫)他


           近藤勇墓
桑原爺さん日々雑感 


           撥雲館
桑原爺さん日々雑感 


天然理心流道場「撥雲(はつうん)館」でこ

の道場は1876年近藤家の養子となり、彼

の一人娘と結婚した近藤勇五郎の道場で

昭和50年代まで稽古は続けられていた。