こんにちは。3月11日。震災から12年。

みなさんそれぞれの思いがあると思います。

わたしも3月が来るたび忘れられない出来事がある。

 

当時わたしは、NHKEテレで「ハートネットTV介護百人一首」という番組の司会をしていた。

震災から12日後、埼玉・秩父の小鹿野町で、一人暮らしをする百歳の義七さんを訪ねた。

街に離れて暮らし、時々様子を見に行っていた長男の久也さん(当時60代半ばか)が、

震災時、例の通りガソリンが入れらず、しばらくぶりに父の元へ行くと言うので、同行したのであった。

 

当時のブログを書き直して、再掲します。

 

義七じいちゃん100歳。

介護百人一首のロケで昨日に続き、きょうは秩父の小鹿野町へ、

長男の久也さんに同行して、義七じいちゃんを訪ねました。

 

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義七じいちゃん100歳。
地震の様子を伺うと、
関東大震災がいかに凄まじかったかを物語る文章をそらんじ始めたのだ。
大正12年9月1日、正午には少し早い時刻、地は揺らぎ、天地はうねり…、

百年生きてる義七さんにとっては、関東大震災がよほど記憶に残っているのだろう。

 


義七さんにはいろんな話を伺った。
第一歩兵部隊として赤坂にいたこと。

南方トラック諸島で椰子の実にたまった水を飲んだこと。
同じ椰子の木なら高いところになった実の水の方がきれいだということも教えてくれた。

 

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実は、前日は、息子さんの家をロケしていたのだが、その時「計画停電」があった。

1時間ほど真っ暗闇になり、何もできない時間を過ごしたのだった。

 

しかし、義七さんの家は、囲炉裏暮らし。薪さえあればお湯も食事の煮炊きもできる。

暖もとれる。

夕方4時には寝てしまうので明かりも要らない。

計画停電があろうとなかろうと、生活に支障はないのだ。


お宅の電気は15アンペア。

しかも、つい先日までは5アンペアだったという。

 

1人で家の中のことは自立できているが、さすがに何かと家事も大変だろうと

介護ヘルパーさんが来るようになり、掃除機を使うために長男の久也さんが

15Aに切り替えると話した時、じいちゃんはものすごく反対した。

「電気は電球の明かり一つ灯ればいいんだ」と。

 

その後、仕方なく息子やヘルパーさんのために折れたらしいが、

囲炉裏に薪をくべ、かまどでご飯も炊いていた。ヘルパーさんの時は炊飯ジャーらしい。

今も大好きな魚の煮つけは囲炉裏に鍋をかけて炊いている。

(なんて優雅な暮らしだろうか・・・)

 

 

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息子@久也さんが義七さんのことを詠んだ短歌がNHK「介護百人一首」に入選した。

あつい夏大根の種発芽して 百歳の父杖で草取り

 

歌は神棚に飾られていた。

杖をついて畑を歩き、畑脇の雑草を杖の先でほじくるようにする姿が、目に浮かぶよう。

 

義七さんに、裏の畑を案内してもらった。

 

 

話しを聞いているうちに、なんとおもむろに立ち上がり、クワを持って畑を耕して見せてくれた。

鉄のクワを振り上げるのはなかなかの重さだが、堂々した農家の姿であった。

 

この人は、介護される人ではない。

百歳でも自立しているのだと思った。農家は生涯、現役なのだ。

介護や世話をして「もらう」側ではない、生み出し、与える生産者なのだ。
 

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こうしてみると、すごい急傾斜の畑である。

山間地、秩父らしい急斜面。
久也さん自身、病気の後遺症で右半身に麻痺が残るが、時折通ってきては、

先祖代々受け継いだ畑を耕し、イモや野菜を植えている。

 

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キクイモを掘り出してくれました。

 

 

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翌日も撮影が続くディレクター達と別れて、

西武秩父から一人で帰った。

各駅停車で2時間弱。


リュックには久也さんにいただいたキクイモと両神山系の涌き水2リットルのおみやげを頂いた。

小鹿野町は、両神山という登山道の入り口で、家の裏にも湧き水がわいていた。

この時期、東京の水も汚染されて危ないと、幼児は水道水を飲んではいけないというニュースがあり、ペットボトルの買い〆めが起こっていた。
 

義七さんのお宅の裏山からは、天然の清水がこんこんと湧き、
スタッフの人数分、久也さんがペットボトルに水を入れてくれたのだった。

 

計画停電があっても夕方になると寝てしまうじいちゃんにはなんの不都合もなく、

料理の煮炊きやお湯を沸かすのは囲炉裏に薪をくべればできる。


3月11日。

東京や都市でのパニックを、じいちゃんは気づくことさえなしに、平穏無事に

裏の畑を耕して、健やかに生きて、自立して、わたし達に生命の糧となるものを与えてくれたのだった。

東京でのパニックがなにやら滑稽にさえ思えた。

都市と農村。

都会と田舎。

過密と過疎。

果たして、ほんとうに豊かなのは、どっちだろう。

 

 

2011年、日本国じゅう、特に、震災が起きた東日本では、人々の心に大きな価値観の変革が起きた。

わたしもこの時の個人的体験と、目の当たりにした経験が忘れられず、

フリーアナウンサーから少しずつ農ジャーナリストへと仕事の内容をシフトさせていったのだった。

 

農的暮らしの豊かさと価値を考えることが、ライフテーマになった。

 

ついでに言うと、家の電気の契約を30Aから20Aに変えた。

計画停電で、強制的に節電を強いられるよりも、自らの暮らしを主体的にコンパクトにしたかったのだ。(我ながら、影響されすぎだろー^^)

その1

満開の桜の下で電気のことを考える

 

その2

20アンペア暮らしスタート


あれから12年。

さらにコロナ渦を経て、都市と農村、都会と地方の分断はより大きな病となった。

 

 

わたしたちは、どこから来て、どこへ行くのか。

 

つまり、自分は何者か。

ただひとつ言えることは、

自分の人生を、少なくとも人任せにするわけにはいかない。

 

 

 

2023年3月11日

ベジアナ@あゆみ