こんばんは~♪

水曜日から歴史番組やドラマが多くて個人的に大忙しなんですが笑

今日の「BS歴史館」はナナナんと真田幸村さんでした!

なんだか最近、幸村さん特集が多くないですか?ホットな武将さんですね

前回ブログに書いたばかりだったので

いつも以上に番組内容がす~っと頭に入って楽しかったなd.heart*


同じ武将さんの記事を続けて書いても仕方ないので・・・

今日は「THEナンバー2」で取り上げられた河井継之助さんにしますえんぴつ

(河井さん・・・そんなピックアップの仕方でスイマセン!)

いやぁ~継之助さん!・・・実は全然知らなかったんですが(σω・`*)

番組を観た感想・・・その実行力にただただ感心してしまいました


というわけで、継之助さんという人物に今日はせまっていきま~すアップ


                   ハート


河井継之助は幕末期の越後長岡藩の家臣で

幼い頃は気性が激しく腕白坊主だったそうです

しかも、朱子学が一般的に学ばれる中、自ら中国の学者

王陽明の陽明学を学ぶ異端な子供でもありました

陽明学に知行合一(学んだことは(知)実行すること(行)と表裏一体であるという)

という言葉があり、この言葉に感銘を受け己の胸に刻んでいました


当時の長岡藩は、14万両という巨額の負債があり

継之助の中で藩民のため藩政改革をせねばという思いが日に日に強くなります


そんなある日、藩主牧野忠雅の目にとまり藩の役職に就きますが

経験の浅い継之助に反対する重役も多く上手くいかずに

わずか2年で役を辞し、藩政改革の知識を得るため西国に旅立ちます旅がらす

そこで2つの収穫を得ることになるのです


①備中松山藩の山田方谷との出会い

 山田方谷は特産物の開発、禄高の改正、農民に農具・武士に武器を支給

 などの政策を着実に実施し、藩政改革を成功させた人物でした

 藩民のことをまず考えた方谷の教えに、継之助も心酔していきます


②長崎などで異国船を実際に見る

 異国の脅威を知りそれに対抗するためには、富国強兵が必要と認識した


1862年藩主牧野忠恭が京都所司代に任命されると継之助も翌年上洛

継之助は「辞任して藩政改革すべきだ」と訴えるが忠恭は老中に就任

西国の旅を通し、長岡藩の生きる道は幕府に従うのではなく「中立」の立場をとり

まず藩の財政を立て直す事が第一であるという考えに辿り着いた継之助は

藩主を説得し老中を辞任するに至ります


そして1865年、藩主から全てを任され藩政改革に乗り出しますキラキラ

「民こそ国の主役、役人は民衆から選ばれた者に過ぎない」

民の信頼を得ることが一番大切だという継之助が信じた道からブレることなく

藩の禄高改革を中心に藩学改革や兵制改革を行った結果

ついに14万の借金を返済し、黒字まで生む結果を出したのですアップ


これで長岡藩も安泰か?!と思われた1867年大政奉還がなされると、

政局の動きは急速に増して行き・・・戊辰戦争が始まりました


長岡藩にも新政府軍が迫りつつある中、継之助がとった行動は

武力を確保し中立の立場を唱えるというものでした

江戸の藩邸を売り払い、ガトリング砲×2や武器、米や銭を買い

陸路の戦乱を避け海路で長岡に戻ってきたのです


これで武装は完ぺき!新政府軍も手を出しにくいはず・・・

ギリギリまで戦争を回避し民を守るために購入したガトリング砲だったんですね

当時ガトリング砲は日本に3台しかない希少なものでした

それを購入してまで藩を守りたいという継之助の強い思いを感じました


しかし、中立の立場を主張する継之助の思いは伝わらず

新政府軍との交渉は決裂ドワーッ北越戦争が幕を開けます


調練された長岡兵は健闘しガトリング砲は大いに活躍するも、

隙を突かれ長岡城は新政府軍の手に落ちます

しかし、民のため襲撃を諦めず、2カ月後に城を奪い返すも

兵力で劣る長岡軍は徐々に押され再び城は奪われてしまうのでした


継之助もこの戦いで流れ弾に当たり負傷・・・

会津に向かうも傷が悪化し、42歳で生涯を閉じました

自分の命があと少しで尽きると悟った時、

家臣に「殿の世継ぎをフランスに逃がすのだ」

と最後まで長岡藩の事を気にかけた継之助は忠臣そのものでした


                   ハート


こうして彼の人生を辿ってきましたが、彼の先見性には驚かされました

まさに陽明学の「知行合一」という言葉そのものびっくり

長岡藩家臣として藩の危機を救うために藩政改革を行い

必要あらば商人のように物を売りさばき藩力を高め

最期は民を守るために武人として闘い抜く!


考えたことをしっかりと実行し、なんとか長岡藩を守ろうとした

河井継之助という人物がいたことをは心強く

周りの人々にも多大なる勇気を与えたことでしょう


北越の蒼龍「河井継之助」


こんな英傑が居たことを新たに知ることができてよかったです

こんばんは~♪


今回は、「ザ・今夜はヒストリー」「THEナンバー2」で立て続けに

取り上げられていて無性にブログに書きたくなっちゃった武将さん!

真田幸村(信繁)についてご紹介音譜


私の中ではあついあつい熱血漢!!!って感じなんですが

(もしや漫画やゲームの影響なのでは・・・)

上杉・徳川・北条と強国に囲まれた信濃の小大名が

今もなお数々の大大名と名を連ねて人気なのは

豊臣家に対する忠義や大坂の陣での奮闘ぶりに

感動する人が多いからでしょうかねアップ


真田といえば幸村!と私の場合答えてしまいますが、

幸村の祖父・幸隆は勇猛果敢な武将で真田家は幸隆の代に勃興しました↑☆


父・昌幸は武田信玄の近習として仕え、信玄の死後、

生き残りをかけて臣従する君主を巧みに変えていくことになります


1585年神川の戦いでは家康軍7,000に上田城を攻められるも

2,000余りの兵で押し戻し、籠城戦にその知略を発揮キラキラ


1600年関ヶ原の戦いで再度上田城を攻められるも

城内からの一斉射撃と側面からの伏兵攻撃、最後の一手として

せき止めておいた神川の水を放水し、秀忠軍に大打撃を与えました


そして、その子幸村は、

大坂の陣までこれといった武功をあげていなかったのですが

関ヶ原での西軍敗戦により高野山山麗に蟄居させられた後

豊臣秀頼の要請により再び武将として世に返り咲き

大坂の一戦に加わることとなりました真田幸村


幸村は大坂城唯一の弱点である南側に『真田丸』という砦を築き

父譲りの戦法で真田丸に敵を誘き寄せ一斉射撃で敵を翻弄します

大坂冬の陣での敵方戦死者の80%が

この真田丸の攻防戦だったそうですよポカーン!

攻守兼ね備えた鉄壁の守りの凄さが伺えますよねキャッ*m


祖父の勇猛さ、父の知略、そして兄が誉めたという

忍耐強く明るい性格といった生まれ持った才能と、

過去に上杉や豊臣軍に人質として預けられた時に培った経験により

幸村は他の大名をも恐れさせる人物にまで成長していたんですねうんうん


大坂城を攻めあぐねた徳川軍は、講和に向けて交渉を開始し、

その後、大坂城は掘りを埋め立てられ本丸のみの裸城とされてしまいます

そのような不利な状況下での大坂夏の陣・・・

幸村軍は死に物狂いで家康本陣を斬り崩し家康まであと一歩の所まで行くも

数で勝る徳川軍の前に敗れてしまいますガーン


最期は、疲弊したところを無名の鉄砲頭に打ち取られましたが

家康や徳川方の武将の細川忠興は

「手負いのものを打ち取ってもなんの手柄にもならぬ」

と鉄砲頭の手柄と認めず、幸村のその戦いぶりを称賛したそうですパチパチ


幸村の討ち死にで敗戦が決定的となった豊臣方・・・

こんなに忠臣として活躍した幸村も、豊臣内での軍議場では

兄が徳川方にいたこともあり、いつ寝返るかわからない不安があったからか

大野治長らの度重なる反対で自由に采配を振るえなかったんです涙


そんな厳しい状況下でも自分なりの戦法を敷き

戦で自らの武勇を世に知らしめた彼の生き様はすばらしいですね

多くの人を引き付けてやまない理由がわかりました(ノ∀`●)


関ヶ原勃発前、真田一族の行く末を父・兄3人と語り合っていた時

東軍につくことになった兄・信行へ言った幸村の言葉

「人の死すべき時至らば、潔く身を失いてこそ有志の本意なるべし」

西軍が敗北した際に2人が処刑されぬように尽力しようという

兄の言葉への返答だというのですが、幸村の中では常に

武人としての覚悟があったんですね

戦い抜いて命を散らすことを本望とする・・・

そんな気迫が感じられる彼らしい言葉だなぁと感じました



最後に真田家のプチ知識本

幸村親子が蟄居中に「真田紐」という長~い紐を考案し

それを家臣に売り歩かせて生活費を稼いでいたという伝説があります

寄生虫の「サナダムシ」・・・この紐と形状が似ていることから

この名前がつけられたとも言われてるそうです電球

意外な所から名前がつけられてたんですね


・・・って、最後の話題がサナダムシかよ(笑)

久しぶりに先日お出かけしてきました(*´∀`人)

・・・といっても県内でけっこう近場なんですが・・・


『蓬莱橋』という橋を渡ってきたんです橋


この橋・・・ただの橋ではありません!

実は静岡県島田市の大井川にかかる人道橋で

全国でも数少ない木造の賃取橋なんですよ~キラキラ

人が橋を渡るのにお金を払うなんてなんだか昔の

関所みたいな感じで一人で楽しくなっていましたアップ


この橋、平成9年に「世界一長い木造歩道橋」(897.4m)として

ギネスにも認定されていてちゃんと記念碑もありました!

うわぁ~立派です(*´・ω-)b ネッ!



あゆい旅籠


でもこのなが~~~い橋を見てください!


あゆい旅籠-D1000084.jpg


普通に川に飛び込めちゃいますよ(>ω<ノ)ノ

・・・なんてね

でも、この日は風がけっこう強かったので

誤って川に落ちる人がいるんじゃないかって思っちゃいましたよ

(・・・縁起でもない・・・ブルブル


歩いてみると

ん~~~~長いっ!

歩いても歩いても景色があまり変わらない気分・・・

しかも下を向いて歩いているとなんだか同じ景色だからかな~

酔ってるような気分・・・これまた不思議な体験ですkurukuru+.


それでも下を向いて歩いていたら

こんな風に橋の板目に書いてありましたよ~ニコリ



あゆい旅籠


うん、じつによい目安・・・ですが

「まだ真ん中かよっ」って突っ込んでしまう自分がいましたあはは


でも、すれ違う人が「こんにちは!」って挨拶を交わすのは

なんだか山に登った時のシチュエーション・・・

それだけで自然あふれる立地と木造橋の暖かさを感じてしまいました

(なんとも単純な頭・・・)


橋を渡った先は何があるのかなぁとずっと思ってたんですが

島田市街地から牧之原台地(茶畑)を結ぶ農道というだけあって

渡った先はほぼ茶畑!

牧之原台地は一面茶畑でとてもすがすがしい気分になれますアップ

何もないといえば何もないのですが・・・

一面緑の風景を眺めるのはとっても癒されますよ~ほわん♪


一度渡って見たいと思っていた蓬莱橋を実際に渡れてよかったです!

もちろん帰りも長~い橋を渡って戻りましたよ!


最後に渡ってきた橋を横から撮りましたkonatu


あゆい旅籠


木造橋!天災に負けずにこれからも島田市を盛り上げてくれ~!!



~最後に案内文にあった蓬莱橋の歴史をのせておきます~


1869(明治2)年7月、最後の将軍徳川義喜を護衛してきた幕臣達が大井川右岸にある牧之原を開拓し、お茶をつくり始めた。
当初は大変厳しい環境の中で、筆舌にはつくせない苦労の連続だったが、そのかいがあって順調に茶栽培が営まれ、生活が安定するに従って、島田の方へ生活用品や食料品を買いに出かけるようになってきた。
また、島田の方からも初倉に山林、原野の開墾のためにでかけるようになったが、大井川を小舟で渡らねばならず、大変危険なことだった。
そこで、島田宿の開墾人総代達は、時の静岡県令(現在の知事)に橋をかける願いを出し許可され、1879(明治12)年1月13日に完成した。しかし、木橋のため大井川の増水のたびに被害を受けてきたので、1965(昭和40)年4月にコンクリートの橋脚に変え、今日の姿となった。

現在の蓬莱橋は、全長897m(平成9年12月 ギネス認定「世界一長い木造歩道橋」)、通行幅2.4mであり、大井川の自然と一体となった木橋として全国的にも有名な観光名所となっている。