こんばんは~♪
今回は、「ザ・今夜はヒストリー」「THEナンバー2」で立て続けに
取り上げられていて無性にブログに書きたくなっちゃった武将さん!
真田幸村(信繁)についてご紹介![]()
私の中ではあついあつい熱血漢!!!って感じなんですが
(もしや漫画やゲームの影響なのでは・・・)
上杉・徳川・北条と強国に囲まれた信濃の小大名が
今もなお数々の大大名と名を連ねて人気なのは
豊臣家に対する忠義や大坂の陣での奮闘ぶりに
感動する人が多いからでしょうかね
真田といえば幸村!と私の場合答えてしまいますが、
幸村の祖父・幸隆は勇猛果敢な武将で真田家は幸隆の代に勃興しました
父・昌幸は武田信玄の近習として仕え、信玄の死後、
生き残りをかけて臣従する君主を巧みに変えていくことになります
1585年神川の戦いでは家康軍7,000に上田城を攻められるも
2,000余りの兵で押し戻し、籠城戦にその知略を発揮
1600年関ヶ原の戦いで再度上田城を攻められるも
城内からの一斉射撃と側面からの伏兵攻撃、最後の一手として
せき止めておいた神川の水を放水し、秀忠軍に大打撃を与えました
そして、その子幸村は、
大坂の陣までこれといった武功をあげていなかったのですが
関ヶ原での西軍敗戦により高野山山麗に蟄居させられた後
豊臣秀頼の要請により再び武将として世に返り咲き
大坂の一戦に加わることとなりました
幸村は大坂城唯一の弱点である南側に『真田丸』という砦を築き
父譲りの戦法で真田丸に敵を誘き寄せ一斉射撃で敵を翻弄します
大坂冬の陣での敵方戦死者の80%が
この真田丸の攻防戦だったそうですよ

攻守兼ね備えた鉄壁の守りの凄さが伺えますよね
祖父の勇猛さ、父の知略、そして兄が誉めたという
忍耐強く明るい性格といった生まれ持った才能と、
過去に上杉や豊臣軍に人質として預けられた時に培った経験により
幸村は他の大名をも恐れさせる人物にまで成長していたんですね
大坂城を攻めあぐねた徳川軍は、講和に向けて交渉を開始し、
その後、大坂城は掘りを埋め立てられ本丸のみの裸城とされてしまいます
そのような不利な状況下での大坂夏の陣・・・
幸村軍は死に物狂いで家康本陣を斬り崩し家康まであと一歩の所まで行くも
数で勝る徳川軍の前に敗れてしまいます
最期は、疲弊したところを無名の鉄砲頭に打ち取られましたが
家康や徳川方の武将の細川忠興は
「手負いのものを打ち取ってもなんの手柄にもならぬ」
と鉄砲頭の手柄と認めず、幸村のその戦いぶりを称賛したそうです
幸村の討ち死にで敗戦が決定的となった豊臣方・・・
こんなに忠臣として活躍した幸村も、豊臣内での軍議場では
兄が徳川方にいたこともあり、いつ寝返るかわからない不安があったからか
大野治長らの度重なる反対で自由に采配を振るえなかったんです
そんな厳しい状況下でも自分なりの戦法を敷き
戦で自らの武勇を世に知らしめた彼の生き様はすばらしいですね
多くの人を引き付けてやまない理由がわかりました(ノ∀`●)
関ヶ原勃発前、真田一族の行く末を父・兄3人と語り合っていた時
東軍につくことになった兄・信行へ言った幸村の言葉
「人の死すべき時至らば、潔く身を失いてこそ有志の本意なるべし」
西軍が敗北した際に2人が処刑されぬように尽力しようという
兄の言葉への返答だというのですが、幸村の中では常に
武人としての覚悟があったんですね
戦い抜いて命を散らすことを本望とする・・・
そんな気迫が感じられる彼らしい言葉だなぁと感じました
最後に真田家のプチ知識
幸村親子が蟄居中に「真田紐」という長~い紐を考案し
それを家臣に売り歩かせて生活費を稼いでいたという伝説があります
寄生虫の「サナダムシ」・・・この紐と形状が似ていることから
この名前がつけられたとも言われてるそうです
意外な所から名前がつけられてたんですね
・・・って、最後の話題がサナダムシかよ(笑)