29年前。
まだ我が家にしっぽ家族がいなかったその頃。
15日。実家の街に雪が降り、幼かった娘を連れて雪を見に帰って一晩泊り、16日の夜主人が迎えに来て帰途についた時のこと。
大きな赤い月が見えて。
その月になんか嫌な予感がしました。
帰って来ると主人の身内にトラブルが発生。
そのことで主人が出かけて、なかなか帰って来ず。
その頃は健在だった義両親と共になんとなく心細い不安な夜。
娘もそんな空気を察知してか自分の部屋でなく、私たちと寝たいと甘えて。
娘を寝かしつけた後で主人が帰ってきて、胸騒ぎは一旦鎮まったのですけれど。
翌早朝17日あの大きな揺れに襲われました。
寝室では立てかけてあった机が倒れ、その上にテレビが倒れ、寝室の外では何かが壊れる音。ガシャンガシャンと何かが割れる音。窓の外では稲妻のように何かが光って。
長く感じました。
おさまってから家内の様子見。義両親は無事。しかし部屋(現在は私の書斎と寝室兼しっぽたちの寝室)はめちゃくちゃ。
娘の部屋はガラス扉の本棚がベッドの上に倒れかかって割れたガラスが飛び散っていました。そこに娘が寝ていたらと思うと、ぞっとしました。リビングやキッチンの食器棚からは大量の食器類が飛び出て割れまくり、今でも床は傷ついたままです。
主人の店の物も棚から落ちたりして。
それが阪神淡路大震災29年前の1月17日でした。
電気は生きていたのでテレビで阪神間の大変な状況を知りました。
ライフラインは水道とガスが使えなかったです。
給水機と給湯器がありましたが、そのタンクが倒れて壊れてしまい使い物になりませんでした。
水が出るようになっても給水機が治るまで不自由だったことを思い出します。
実家の両親が毎日のように何かを届けてくれ、それで助かったこともあります。
実家も揺れましたがここほどのことはなく、しかし電気やガスは途中の地域が止まっていてたために回復するのはかなり遅れていました。ニュースでもライフライン回復遅れの地域で何度も実家のあたりが出るので、親戚に心配かけたと両親が言っていました。
私の身内の1人は実家が西宮でした。
彼女はその年の2月に赤ちゃんを出産予定で近い内に実家へ帰る予定でいたのですが、その実家が全壊。結局嫁ぎ先近くの病院での出産となりました。その時産まれた子が来月28歳になります。実家は建て直すことができないまま、今は駐車場になっているそうです。
阪神間でそんな大きな地震が来るとその当時は思わなくて、何の備えもなかった私たちです。
家具も観音開きでしたし、固定されていませんでした。
地震のニュースがあってもよそ事だった気がします。
日本は地震だけでなく台風、豪雨、大雪など災害の多い国です。
どれも他人ごとではないのだと反省と共に思い知らされました。
今年は元日から能登半島で大きな地震がありました。
毎年のように豪雨災害も増えてきました。
他人事ではなく自分の事として改めて気を付けたい。今年は特にそう思える17日でした。29年たっても多くのものを失った人たちの心はまだ癒えない。忘れることはできない。
追悼の祈りの中継で共に祈りながらそんなことを考えていました。
今年の祈りの場には「ともに」とありました。
能登の被災地にも思いを馳せ、心を共に。