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Ayanosuke

中学の歴史の授業でキリスト教に興味を持ち始め、オーストラリアの日本語教会で洗礼を受けクリスチャンになりました。
そんな私がミイラ取りからミイラになり、ミイラになり切れなかったことを感じた記録です。

私はノンクリスチャンの友人と話しをしていると、時々視点がずれているなと思うことがあります。

各々の考え方や、生活、育った環境にもよると思いますが、もっと大きな違いに気付きました。

 

私たちクリスチャンは、「自分も相手も超えた、第三者の視線から見たら、お互い、どのように見えるだろうか」ということを意識しているからだと思いました。

 

私たちは、人間同士の関係の中で、傷ついたり、傷つけられたり、自分を分かってもらえなかったり、相手のことを分からなかったり、いじめたり、いじめられたりします。

また、「自分は人からどう思われているのだろうか」と気になって疲れきってしまったり、本当の自分を見失ったりします。

それからたくさんの人の波にもまれていても、本当の自分を受け入れてもらえる相手も場所もないために、かえって孤独を感じてしまうことがあります。

 

そんな時に、「もしも神がおられるなら、きっと見ていてくださる」ということをクリスチャンは意識しています。

いわば人との関係だけしか目に入らない「二次元思考」ではなく、「三次元思考」で立体的に物事を考えています。

そうすることによって、誰にも本当の自分を理解してもらえない状況であったとしても、本当のことをちゃんと知って認めてくれる存在は、私たちの心の支えになります。

 

また、他人の言うことに振り回されて、自分がどうするべきか分からなくなった時に

「神が見らたどういうことになるだろう」と考えると、客観的に物事を見ることが出来るようになります。

 

このことが、アメリカ人の牧師先生が言った、「聖書というメガネを通して世の中を見る」ということになるのではないかと思います。

 

参考文献 信じる気持ち はじめてのキリスト教 富田 正樹

私は現代社会のスピードについていけず、競争社会から脱落して、会社を辞めました。

私たちを取り囲んでいる世の中は、いつも一つの「ものさし」で人を測ります。

例えば、学校なら学業成績だけで人間の値打ちが測られていたり、会社だと営業成績だけで全てが決まったり、ということが多々あります。

 

しかし、「私が人間として生きている値打ち」というものは、能力によるランク付けだけで決められるものでは、ありません。

能力が劣っている、負けてしまったということで、人間として生きる価値まで失ったわけではないのです。

 

ここに一つの詩があります。

『わたしと小鳥と鈴と』 金子みすず(1903ー1930)

わたしが両手をひろげても、

お空はちっともとべないが、

とべる小鳥はわたしのように、

地面をはやくは走れない。

 

わたしがからだをゆすっても、

きれいな音はでないけど、

あの鳴るすずはわたしのように

たくさんのうたは知らないよ。

 

すずと、小鳥と、それからわたし、

みんなちがって、みんないい。

 

この詩はキリスト教とは関係なく作られましたが、不思議なことに、キリスト教の精神と一致するのです。

すずも、小鳥も、わたしも、みんなそれぞれ得意なこともあれば、苦手なこともある。

けれども、小さくてもそれぞれに大切な存在だという思いが伝わってきます。

 

私は、出来ない、分からない、知らないことを認めることは、挫折することだと思っていました。

しかし、この詩は教えてくれます。

「みんなちがって、みんないい」のです。

 

参考文献 信じる気持ち はじめてのキリスト教 富田 正樹

私は幼い頃、ずっと死にたいと思って思っていました。

大きなショックを受けるほど、不幸なことがあったわけでもなく、悲惨なことがあったわけでもありません。

この世に絶望していたわけでも、ありません。

なぜかは分かりませんが、死にたいと思っていました。

 

しかし、祖父の死が私の考えを変えました。

身近な人が死んだのは、この時が初めてでした。

その理由は単純で、人は死んだら身体が焼かれてしまうからです。

 

神はヒトを土地のちりから造りました。

『神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。創世記2:7』

まず、肉体を形作り、その後にいのちである魂を吹き込まれました。

これが神が創造された生き物の中で人が特別である理由です。

人以外の生き物は神の言葉によって造られました。

 

私が幼い頃に抱いていた死にたいという願望は、私の魂は、この土の器に合わないと思っていたのかもしれません。

 

私の人生にイエスをお迎えした時、私の人生は再び輝き、この土の器が用いられることを期待するようになりました。