クリスチャン的思考法 2 聖書というメガネ | Ayanosuke

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中学の歴史の授業でキリスト教に興味を持ち始め、オーストラリアの日本語教会で洗礼を受けクリスチャンになりました。
そんな私がミイラ取りからミイラになり、ミイラになり切れなかったことを感じた記録です。

私はノンクリスチャンの友人と話しをしていると、時々視点がずれているなと思うことがあります。

各々の考え方や、生活、育った環境にもよると思いますが、もっと大きな違いに気付きました。

 

私たちクリスチャンは、「自分も相手も超えた、第三者の視線から見たら、お互い、どのように見えるだろうか」ということを意識しているからだと思いました。

 

私たちは、人間同士の関係の中で、傷ついたり、傷つけられたり、自分を分かってもらえなかったり、相手のことを分からなかったり、いじめたり、いじめられたりします。

また、「自分は人からどう思われているのだろうか」と気になって疲れきってしまったり、本当の自分を見失ったりします。

それからたくさんの人の波にもまれていても、本当の自分を受け入れてもらえる相手も場所もないために、かえって孤独を感じてしまうことがあります。

 

そんな時に、「もしも神がおられるなら、きっと見ていてくださる」ということをクリスチャンは意識しています。

いわば人との関係だけしか目に入らない「二次元思考」ではなく、「三次元思考」で立体的に物事を考えています。

そうすることによって、誰にも本当の自分を理解してもらえない状況であったとしても、本当のことをちゃんと知って認めてくれる存在は、私たちの心の支えになります。

 

また、他人の言うことに振り回されて、自分がどうするべきか分からなくなった時に

「神が見らたどういうことになるだろう」と考えると、客観的に物事を見ることが出来るようになります。

 

このことが、アメリカ人の牧師先生が言った、「聖書というメガネを通して世の中を見る」ということになるのではないかと思います。

 

参考文献 信じる気持ち はじめてのキリスト教 富田 正樹