クリスチャン的思考法 3 信じる何かを意識する | Ayanosuke

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中学の歴史の授業でキリスト教に興味を持ち始め、オーストラリアの日本語教会で洗礼を受けクリスチャンになりました。
そんな私がミイラ取りからミイラになり、ミイラになり切れなかったことを感じた記録です。

クリスチャンになる前の私は、海外へ行った時、「あなたの信仰は何ですか?」と尋ねられても明確に答えることが出来ませんでした。

 

多くの日本人は「無宗教です。」と答えると思います。

それはすなわち「私は何も信じていない。」と尋ねた人は捉えます。

そしてあなたを不審そうな目で見るかもしれません。

 

なぜなら「何も信じていない」ということは、「私は私を超える存在を知らない」ということになります。

これは、「私は人がいないところでは何をするか分からない人間ですよ。」と自分で宣言していることになります。

尋ねた人にとって、何も信じない人というのは、そういう怖い人だということになります。

 

私たちクリスチャンは、たとえ周りに人が一人もいなくても誰か人間を超えた方の視線がちゃんと自分の行いを見て知っているのだと考えます。

それは、人が見ていなくても、自分の行いを正す助けとなります。

 

もし、そのように考えることが難しい場合は、あなた自身の心の中にある「良心の目が見てる」と考えるといいかと思います。

良心とは、ギリシャ語では[シュネイデシス]といいます。

語源的には「同時に知る、同時に自覚する」という意味を持っています。

良心の働きは、本人が望む望まないに関わらず、自ずと心の奥から湧き上がってくるものだからです。

良心とは、人間の心の奥に刻まれた本能であると説明する人もいます。

 

信じる何かを持っているということは、いつも自分を見ていてくれる目を意識しながら振舞っているということであり、それがその人の信頼度アップにも繋がります。

そして、人に評価されるかどうかとは関係なく、自分の良心に従った行動が出来る能力でもあります。

 

参考文献 信じる気持ち はじめてのキリスト教 富田 正樹