拝読ブログ・エントリのコメント
http://ameblo.jp/prudence01/entry-10271164064.html#cbox
> それに、ある種のパズルが得意だとい
> うことなんか、どうでもいいです~。
> それより個人的には人の表情を読める
> ようになりたい。話を小出しにしなが
> ら、相手の表情の変化によって次に何
> を言うかを変えるなんていう器用なこ
> とができるようになりたいものです。
> そうすれば、人間関係がよくなるでし
> ょう。
に対してレスをいただきました。
> “自閉臭さ”って人生のスパンにおいて、
> 双方向に変化するんではないかという
> 気がしてます。濃くなったり、薄くなっ
> たり。
> 私は人の表情が読めてるのか読めてな
> いのか、ということは実はあんまり気
> にしたことがないのですが、この、私
> 自身長い間求めてやまなかった「話を
> 小出しにしながら云々」の一連の技術
> が、どうもある時期から急にできるよ
> うになった気がしているのです。具体
> 的には去年の9月以降です。そういう
> 変化が起きうるか、ありえないか、と
> いう問いに対しては自らの体験から
> 「ありうる」と言い切りたいと思って
> います。
> しかも、自分の体感から言うと、これ
> は「経験知」ではなく、なんらかの身
> 体的変化だという気がしています。こ
> の辺りの話が、もう少し自分の中でま
> とまったら書いてみたいと考えている
> のですが、実現するかどうかは不明で
> す(^^;。
おお~それは耳寄りなお話。役に立ちそうな話です。少なくとも、バロン=コーエンの教材
Simon Baron-Cohen(著)“Mind Reading Emotions Library (CD-ROM)”(2004年、Jessica Kingsley Pub)
http://www.amazon.com/Reading-Emotions-Library-Simon-Baron-Cohen/dp/1843102161/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1242403569&sr=8-2
を買って「う~ん、できないなぁ」と煮詰まっているよりも、日々これ実践のなかで、ブレークスルーが可能かも知れないなんていうほうが希望が持てます。
さて、対人接触性を改善すべく、いろいろ研究してはいるものの、なかなか役に立つ話はありません。「ラポール」って何じゃらほいと思いつつ、かつて役に立たない話を漁ったのでした。
邦訳書:
サイモン バロン=コーエン (著) 長野 敬、今野 義孝、長畑 正道(訳)
『自閉症とマインド・ブラインドネス』(青土社、2002年)
原著:
Simon Baron-Cohen(著)“Mindblindness”(1997年、MIT Press)
http://www.amazon.com/Mindblindness-Essay-Autism-Theory-Mind/dp/026252225X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1242403569&sr=8-1
一部Googleでも見られます。
http://books.google.com/books?id=MDbcNu9zYZAC&dq=Simon+Baron-Cohen&printsec=frontcover&source=bl&ots=Zv-EwBSxdE&sig=bA4lh6hSZ38lhAWWjyLxXBSfGro&hl=ja&ei=X5ENStezFYbu7APP99iWCA&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=5
翻訳者は意味がわかって訳したのか不安になるところが所々にある邦訳です。
I have no serious doubt that this theory (what I call “common-sense belief/desire psychology”) is pretty close to being true. ……(以下略)……(Fodor 1983, p. x)
ここで “common-sense belief/desire psychology” は、明らかに “common-sense psychology” を 形容するように“belief/desire” を付けたものであり、要するに、人が思ったり望んだりするときの「常識心理学(素朴心理学)」を指しています。ところがくだんの邦訳では、「常識的な信念/欲求の心理学」と訳出されており、読者は出鼻をくじかれます。
そして序文(Foreword)
Just as common sense is the faculty that tells us that the world is flat, so too it tells us many other things that are equally unreliable.
邦訳
> 常識は世界が平面なのだと私たちに告
> げる。しかし他にも同様に、同じくら
> い信頼できない多くのことを常識は私
> たちに告げる。
この後は、現代物理学の研究が、「頑固に思い込まされていた直観の外へと、私たちを連れだした」という話なので、ここの“the world is flat”とは、重力による時空の歪みを我々の直観は感知できないという事実を述べているのです。したがって、「世界は平坦である」と訳すべきです。常識的な直観によっても人は「世界が平面なのだ」とは思いません。世界はユークリッド幾何学が成立する(平坦な)3次元空間だというのが常識的な直観ですね。つまり、この部分は、
世界が平坦だと知覚する我々の持って生まれた能力は、まったく常識通りである。それとまた同じように、我々の持って生まれた能力は、同じくらい当てにならないことをたくさん知覚する。
“it tells us”は“the faculty tells us”であり、「常識は私たちに告げる」は誤読です。また “the faculty” は生得的な能力(認知能力)を指しています。整理すると、
まったく常識どおりに、我々の持って生まれた能力では世界は平坦だと知覚される——重力による時空の歪みを知覚することはできない。このように、知覚されることは当てにならないことが多い。
と言っているのです。
こういうことをさらっと書いて、「この程度の現代的な常識(教養)のないヤツは、この本の読者としては想定していないよ」というのを示しているところが英国人っぽい嫌らしさですね。と思うのは、私の人の悪さ(器質性の猜疑心)かもしれないけど(笑)。
訂正:この「序文」はJohn Toobyという米国人が書いたものです。バロン=コーエンの英国人的な嫌らしさではありませんでした。慎んで訂正します。
さて、メカニズムを実現するモジュールとメカニズムそのものとは別の概念としてきちんと区別すべきですが、翻訳者は分かっているのだろうか?と時々不安になるのです。情報科学には疎いようで、
コンポーネント【component】
http://e-words.jp/w/E382B3E383B3E3839DE383BCE3838DE383B3E38388.html
を「成分」と訳していたり、全般に何だかなぁという和訳なのでした。
しかし!そんなことにめげている場合ではない——と思って通読したのでした。
さて、Shared-Attention Mechanism(SAM)モジュールの有無をどうやって検査するのかが明示されていません。私個人は、拙ブログ・エントリ「言語能力」に書いたように、きちっと書かれた文章では指示代名詞が何を指しているのか読み間違えることはありません。曖昧に書かれると誤読することがあります。また実生活のなかで「あれよ、あれだってば」みたいな言い方をされると、大概分かりませんので「察しが悪い」人間と言われております。しかし、
上掲書邦訳 p.208
> 陳述的なコメントが出来事やものへの
> 注意を共有するための手段であると考
> えると、陳述的なコメントの存在は、
> 個体が注意の共有機構をもっているこ
> との間接的な証拠になる。
原書 p.126
If one takes declaratives to be a way of sharing attention to an event or an object, then the presence of declaratives is an indirect indicator that an organism possesses a shared-attention mechanism.
とあり、私も叙述的な表現を今現にここでしているわけで、これがSAMを持っているという間接的な証拠になるわけですねぇ、多分。
しかし、そもそもSAMの有無が“autism”とどういう関係にあるのかが不明なのです。
邦訳書 p.209
表8・1 10の母集団における心を読むシステムの各成分の有無(+, -)
いきなり「精神病理をもつ人間」となっていますが、これは「先天的な視覚障害者(子どもと大人)」(これを邦訳では「生得的に目の見えない子どもと大人」としているが日本語として変)を含むサブグループなので、「何らかの認知・知覚上の機能障害をもつヒト」とすべきでしょう(あとで高等霊長類が出てくるので生物としてのヒト)。 “psychopathologies” ですが、本文では、原書 p.127
It allows me to make the point that genetic differences between species and biological differences that involve some kinds of neuropathology within a species, as well as developmental differences within humans, may lead to some of the components of the mindreading system being unavailable to some organisms, in different combinations.
“neuropathology”とされており、著者がここで「精神病理」を指しているのではなく、知覚神経やその統合に問題がある何らかの認知上あるいは知覚上の機能障害を指していることは間違いありません。
原書 p.127
Table 8.1
Presence (+) or absence (–) of each of the components of the mindreading system in ten populations.
を見ると、“autism”の子どもには、Shared-Attention Mechanism(SAM)を実現するモジュールが欠損しているサブグループと欠損のないサブグループがあるという点が気になります。子どもらを長期間、観察していったとき、あとからSAMを獲得したと判定されるようになり得る子どもがいるのか、大きな関心事です。上掲書には、ToMMをあとから獲得する例が見られることは書かれていますが、SAMを後から獲得する例があるかどうかについては触れられていません。
あと、この本では、「感情移入(empathy——sympathyでないことに注意)」ができる人とは本当に心が「つながって」いる、理解してもらっていると感じることができる——という話が出てきますが、こういった情緒の役割をモデルに入れるのは今後の課題であるとしています。
原書 p.135
Individual Differences in “Empathy”
「感情移入」における個人差
Some individuals are so tuned in to their own viewpoints that they are largely insensitive to the viewpoints of others. Such individuals can understand another's viewpoint when it is pointed out, but may not have considered it spontaneously or intuitively themselves. Yet other people seem remarkably empathic, and with such people you feel you are really “connecting”, or being understood. Currently we have no good way of measuring such individual differences.
というのです。 “Some individuals” と “other people” とが対照的に書かれているので、「こういう人もいるし、そうでない人もいる」という言い回しに過ぎません(この点、邦訳はちょっと変)。それにしても、「普通の人」が「変な人」に「感情移入」しようとすると、ほぼ100%外しているので、「変な人」が「感情移入」をしてくださる「普通の人」に対して、「本当に心がつながっているとか、理解してもらっていると感じる」ことはありません。でも、「外しているなぁ」と思いつつも、心配してくださっているご厚意だけありがたく受けるのです。
しかし、そんなことを考えもしない著者は、やはり、常識心理学に載らない「変な人」は、すべて “biologically normal humans” から何かが欠落した個体だとしか捉えずに研究をスタートさせており、現存する人間のばらつきを単なる個体差としては見ていないのですねぇ。
とはいえ——そこ——情緒的接触なんですよね、おそらく対人接触性をよくする一番のポイントは!——というわけで、バロン=コーエン、やはり役に立たないのでした。
ご心配をおかけしましたが、「ラポールではなく、フォース」(参考:http://ameblo.jp/kyupin/entry-10108509866.htmlのコメント)ってことで、パキシルの減薬を中断して強迫症状レベルで止まっているところです。
長々と失礼しました。
皆さまもお大事に。
2012年5月18日追記:このエントリを書いたあと、パキシルが要らなくなって服用をやめようとしたら結構、やめにくかったが、日常生活に差し障りのないように少しずつ減らして止めることができた(http://ameblo.jp/aya-quae/entry-10382960657.html)。しかしながら、“withdrawal symptoms”(依存性のある薬物をやめたあとの禁断症状)でやめにくい薬物は少しずつ減らすのが良いのかどうかは自明ではない。
参考→ http://touyoui.blog98.fc2.com/blog-entry-127.html
いろいろ考察した結果、現時点では、自閉症スペクトラムでくくって診断する意味はないと私個人は考えるに至り、
http://ameblo.jp/cchr-nagano/entry-11240928021.html#c11851682248
とコメントしたように、そもそもの「発達障害脳」仮説そのものが、アングロサクソンの妄想性障害から出てきたのではないかと疑っている。
参考文献:
精神科は今日も、やりたい放題/内海 聡
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優生思想と健康幻想―薬あればとて、毒をこのむべからず/八木 晃介
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