お皿の上に美味しそうなアイスクリームが2つのっている。

 

 

 

ここはアイスクリーム屋さん。

 

「美味しい!パパのも味見したいな。」

 

「いいよ。」

 

 

「これも美味しいね、次はこれにしよう。パパ食べないの?」

 

「ネックレスとかが良かったんじゃないか?プレゼント。」

 

 

「ママと仲良くなりたいんでしょう。それなら、今ママが喜ぶのはお兄ちゃんだよ。」

 

「でも、それだとパパ負けそうだよ葵。」

 

 

「わかってないなー。あのねパパは今、ガード100なの。で、お兄ちゃんはガード50なの。わかる?だから、パパはママのガードを下げないといけないの。今日で5は下がったから、95になったんだよ。」

 

「遠いなー。」

 

 

「普通の人はガード200がスタートなの。お兄ちゃんだって200だったんだよ。しかも5下げるのに2年かかったんだから。パパは1週間で95なんだよ。」

 

「そうなのか。」

 

 

「そうだよ。特別なんだから。」

 

「なんでそんなにかかったんだ?」

 

 

「そもそも、200を切る人が1人もいなかったから。ママはガードが固すぎるの。でも、お兄ちゃんは何年もママの事を探していたんだよ。やっと会えたと思ったら振られて、また再開したと思えば1ヶ月も連絡が取れなくて・・それでもママをずっと待っていたんだよ。」

 

「葵、詳しいな・・。どうして知ってるの?」

 

 

「ん?千佳ねぇから聞いてるから。」

 

「千佳さんか、それじゃ、もう1人は?」

 

 

「もう1人?あー、蓮兄さんは80かな。」

 

「おっ、パパに近いな。」

 

 

「うん、そうだね。」

 

「どうしたらママのガードを下げれる?」

 

 

「ママのしたいようにすることじゃない?」

 

「それならパパにもできるよ。」

 

 

「どうかな?」

 

「葵はパパを応援してくれないのか_?」

 

 

「応援してるよ。でも、お兄ちゃんに勝ちたいんでしょう。」

 

「そうだよ。」

 

 

「だから無理なんだよ。」

 

「無理ってどうして?」

 

 

「お兄ちゃんがどうして50なのか理由が明白だから。パパには、難しいと思うよ。」

 

「どうしてパパには難しいの?」

 

 

「お兄ちゃんは誰かに勝ちたいんじゃないもん。」

 

「でもママと一緒にいたいよね。」

 

 

「そうだよ。それはママが望んでるからお兄ちゃんは一緒にいるの。」

 

「じゃ、ママが望まなかったら一緒にいないってことだよね。」

 

 

「理屈ではそうだけどね。」

 

「よくわからないな、どうしてパパには無理なのかな?」

 

 

「パパの1番の理由は、ママと一緒にいたいからガードを下げたい訳でしょう。でも、お兄ちゃんはママと一緒にいたいからでも、ママのガードを下げたいからでもなくて、ママの気持ちを1番に行動してるから自然とガードが下がるの。わかるパパ?」

 

「なんとなくわかる気がするよ。」

 

 

「うーん、わかった!えーとね、簡単に言えばお兄ちゃんは自分の気持ちを隠してるの。そこは誰も探せない場所で、お兄ちゃんでさえ捜せない場所なの。だから欲もないし、希望もない。でもママのことはわかっているから、ママの気持ちに合わせてお兄ちゃんの気持ちも変化するの。ママが望んでいないことは絶対にしないし、ママが望んでいることは進んでする。お兄ちゃんはママの為に生きてるみたいな感じ。わかるかな?」

 

「わかった。でもまるでロボットみたいだよ。」

 

 

「ロボットでもいいの。だって、ママのことを1番に分かってくれて、ママのために困難なこともしてくれる、ママが一緒にいたいって言えなくても、目の前に現れるのがお兄ちゃんなんだもん。」

 

「パパ負けそうだよ。」

 

 

「だから勝ち負けじゃないって言ってるでしょ、パパー。」

 

「もし若いパパとお兄ちゃんが現れたら、葵ならどっちを彼氏にする?」

 

 

「パパ、お兄ちゃんはそういう葵が困ることを言わないよ。」

 

「そうだな、パパは葵にも負けるのか・・・。」

 

 

「大丈夫だよ、葵のパパは1人だけだから。」

 

「そうだよな!」

 

 

「そうだよパパ。」

 

 

 

大人はめんどくさい。

 

どうしてわかんないんだろう。

 

100人中120人がお兄ちゃんを好きになるよ。だって、無償の愛だもん。ママは選ばれたんだよ、お兄ちゃんに。いいなー、そんな人いないもん。パパとお兄ちゃんどっちと付き合うって聞いてたけど、そんなの決まってるじゃん!ねぇ?

 

 

「パパそろそろ帰ろう。明日の準備しなきゃ。ママにメールするね。」

 

「そうだな。じゃ、持ち帰りのアイス注文しないと。」

 

「私が選ぶ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

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彼の胸の中は温かくて安心する。ずっとこうしていたいと思うのは、欲深いのだろうか。最近、わからなくなってきた。ユイ君はいつか私の元から去る人だと思っていた。でもどうしてかわからないけど、彼はこの先もずっと私の側にいてくれるような気がする。そんな時がある。

 

この曖昧な関係に彼は何も言わない。いつか不満が膨らみ離れたくなるその日が来てしまったら、私は黙って彼を行かせられるのだろうか。この温もりを失い、また1人で生きていくなんて・・・今は考えられない。

 

 

 

「雪さん。」

 

「えっ。」

 

 

「キスしませんか?」

 

「どうして聞くの?そんな恥ずかしいこと言わないで。」

 

 

「さっきから、声かけてますよ。聞こえていない様子だったので。」

 

「だからって、言ってするのって・・・」

 

 

 

言い終わらないうちに唇が塞がれる。キスをする時、彼の左手は私の背中にある。そう、肩より少し下の位置。右手は頬か首の後ろ。支えてくれないと、立っていられなくなるから。彼はそれを知っている。彼のキスは私の体を揺さぶる。なんて言えばいいのだろう。もはやキスがキスでなくて・・・。力が抜け反り返っていく。そして逃げるように後ろへと後さずる。そんな私を誘導するように壁へとゆっくりと移動する彼。両肩に触れ、二の腕から肘へと指を滑らせる。指先まで届いた瞬間、両手を一気に壁に押し当て私の動きを封じ込めた。優しくリズミカルなそのキスは高価なプリンを一口ずつ堪能しながら食べるように幸福感でいっぱいで、彼が私を求めるその吐息は私の思考を鈍らせる。その吐息が肌に触れる度に体が震える。そんな長い、長いキスだった。彼の自制がなければこの空間から抜け出せなかったかもしれない。

 

足の力が抜けそうになった私をしっかりと抱きしめる。呼吸は荒く少し汗をかいていた。彼の胸に顔を埋めて呼吸を整える。見上げると、彼の顔も心なしか赤かった。

 

 

「何か飲みたい。」

 

「僕も喉乾きました。」

 

なんだか恥ずかしくなりお互い思わず笑う。

 

 

 

 

 

麦茶を注ぎ彼にグラスを渡す。

 

 

 

「今日、大丈夫でしたか?」

 

「えぇ、行きも帰りも車だから何もなかったわ。」

 

「会社はどうでした?」

 

 

涼先輩が来たこと、弁護士と話したことなどを説明した。周りの目がきになることも。

 

 

 

 

「今日は仕事ができなかったの。それぐらい、バタバタしちゃって。」

 

「今日だけですよ、明日からはいつも通り仕事ができると思います。たぶん、今まで以上に忙しくなると思います。」

 

 

「どうして?」

 

「少なからず雪さんの事を知る人が出てくると思うので、新規やリピート戻りなどが増えるのではと思います。」

 

 

「そうかしら・・それなら会社にプラスになるからいいんだけど。迷惑ばかりかてるから、気になってて。」

 

「大丈夫ですよ。仕事面ではいい方向に動いていくと思います。」

 

 

 

心配なのは私生活だ。

 

どこまで追いかけてくるか、何が表沙汰になるかそこが問題だった。雪さんに今この話をするときっと不安がるに違いない。もう少し様子をみてから対応しよう。携帯が鳴る。

 

 

「葵が帰ってくるみたい。ユイ君に待ってて欲しいって言ってるけど、時間大丈夫?」

 

「えぇ、大丈夫ですよ。」

 

 

 

 

 

 

しばらくして葵が帰ってきた。両手にアイスクリームのBOXを持って嬉しそうに涼先輩のことを話し出す。一通り話し終えた後、部屋から紙袋を持ってユイ君に渡した。

 

 

「おにいちゃん、これ。」

 

「枠の色は何色がいい?」

 

 

「何色でもいいよ、カッコよければ。」

 

「わかった。しばらくかかるから出来上がったらメールするよ。」

 

 

「うん、よろしく!」

 

 

なんの話をしているのか、私には分からなかった。困惑してる私を見てユイ君が答える。

 

 

「パズルです。僕得意なんです。」

 

「パズル?・・・まさか、2000ピースのパズルのこと!?」

 

つい声が大きくなった。慌てて視線を逸らす葵。

 

 

 

「だから無理だっていったでしょう。それね、買う前に難しいから1000ピースにするように説得したんだけど、自分で買うって・・・言い張るから。」

 

「だって、すっごいムズいんだよそれ。ありえないよ。絶対に葵には無理。それをお兄ちゃんに言ったら、作ってくれるって言うから。」

 

 

「信じられない。」

 

「大丈夫ですよ。ゆっくり作っていくのでたぶん2~3ヶ月、いやもう少しかかるけどいい?」

 

 

「うん、平気。じゃぁね、お兄ちゃん!ママ、先にお風呂入るよ。」

 

逃げるように部屋へ駆け込む。俺は可笑しくて仕方がなかった。雪さんは目を大きく見開いた後、何かをいいたそうに口を開いたがその言葉を飲み込んだ。

 

 

 

 

「ごめんなさい。あの子ったら・・・。」

 

「本当に好きなので気にしないでください。」

 

 

「1年かかったっていいから。」

 

「そんなにかからないですよ。」

 

俺は苦笑いする。そんな怒った雪さんが新鮮で可愛かった。

 

 

 

 

 

 

 

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ユイ君の言った通りだった。仕事は忙しくなり、私だけでは対応できなくなっていた。担当を広げ、私の下に二人の部下が配属された。二人とも仕事が早く的確なため滞っていた仕事も一週間ほどで落ち着きを取り戻す。優秀な部下が来たのは社長の配慮だと佐藤部長が言っていた。

 

仕事が落ち着き始めたその頃、マスコミがどこから嗅ぎつけたのか家が見つかってしまう。マスコミ関係者が連日のようにマンション前に押しかけていた。近所の人から苦情が出ていると管理人さんに言われる。どうしたらいいんだろう。葵は学校と家の往復を車で移動してることもあり、心配はなかった。私も同じで涼先輩のお陰で生活に支障をきたす程ではなかった。

 

そんなある日、セキュリティーが完備されたマンションに引っ越さないかと涼先輩から提案される。マスコミ対策を施されたマンションなら、近隣住民とトラブルになることもないし、何よりプライバシーが守られるから安心だと言う。これまで生活に不自由はなかったこともあり、支援してもらうつもりもなかった為すぐに断わる。でも葵のために考え直して欲しいと再度お願いされていた。

 

 

 

「どうかしましたか?」

 

「えっ、ごめんなさい。考え事してたの。」

 

リモコンに手を伸ばしビデオを止める。久しぶりの2人っきりの週末。ユイ君が映画を借りてきてくれていた。

 

 

「何があったんですか?」

 

「・・・」

 

 

「どうしたんですか?言ってくれないと勝手に想像しますよ。」

 

「どんな想像?」

 

 

「いいんですか、それを聞いて?」

 

「なんで、ダメ・・なの?」

 

 

「聞くと困りますよ、きっと。」

 

「じゃ、聞かない。」

 

彼は笑ったあと覗き込むように私を見つめる。

 

 

 

 

「何があったんですか?」

 

 

涼先輩の提案の話をする。一度断ったが、もう一度考え直すように言われていることを話した。

 

 

「雪さんは引っ越すの嫌なんですか?」

 

「引っ越すの嫌ではないけど・・。」

 

 

「支援してもらうのが嫌なんですね。」

 

「そうなの、彼が用意した家に住んで身動きが取れなくなりそうで踏み出せないの。」

 

 

「じゃ、こうしたらどうですか?家賃を払うんです。そうすれば、家を借りてることになります。それなら彼の要望も聞けますし、雪さんも自由です。」

 

確かにそうかもしれない。そうすれば賃貸契約したことになる。

 

 

 

「わかった。そうするわ。」

 

「早かったですね決断が。」

 

 

「実は近所から苦情が出てるの。だからいずれここを離れないといけないと思っていたから。」

 

「どこへ行こうと僕は雪さんの側にいますから。何も心配はいりません。」

 

 

 

心を見透かすように見つめるその瞳が私に安心を与えるようになったのはいつからだろう。肩に寄りかかる。腕をからめ更に寄り添うように体重を移していく。のぞき込むように私の顔色をうかがう彼。彼の指が私の指に触れる。温かくて大きな手。

 

 

引越しを踏み出せないもう一つの理由・・それは彼だった。会えなくなるかもしれないと不安だったからだ。私の気持ちを一番わかってくれる人、私の欲しい言葉を的確に当てる人。それがユイ君だった。

 

 

 

「映画の続き見ますか?」

 

「えぇ。このままでもいい?」

 

「じゃ、ベットから見るのはどうですか?眠くなったら、そのまま寝てもいいですよ。」

 

テレビを寝室のドアの近くへ移動する。ベットの反対側に枕をセットして横になった。

 

映画が始まった。始めはちゃんと観ていた。でもしばらくすると気持ちよくなりウトウトしてくる。いつの間にか眠りに落ちていた。ユイくんはこうなるのを知っていたと思う。本当に彼は不思議な人。どうして私以上に、私のことがわかるんだろう。私は自分がどうしたいのか、どうすべきなのかいつも分からずにいるのに。

 

 

 

仲のいい男女の足がベットから見える。

 

 

 

 

 

 

 

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「これで終わりですか?」

 

「はい、それで終わりです。宜しくお願いします。」

 

 

手際よく荷物をトラックへ入れるスタッフ。思ったよりも荷物が少なくて驚く。古い家具を処分したせいかもしれない。そこへ千佳が走ってくる。
 

 

 

 

「ねぇ、荷物まだ入る?」

 

「入るよ、どうしたの?」

 

 

「入らないのよ!3人なのにどうしてこんなに物が多いんだろう。古いおもちゃ捨てなさいって言ったのに全部箱に入ってたわ。」

 

思わず笑ってしまう。

 

 

 

「大丈夫よ、声かけておくね。」

 

「ありがとう!助かる!」

 

 

 

 

 

千佳も一緒に引っ越すことになった。これも涼先輩の配慮だった。ずっと側にいてサポートしてくれた千佳がこれからも隣にいた方がいいと言ってくれたからだ。千佳は大喜びでこの話をすぐに了承した。新しい土地へ引っ越すことに不安だった私にとってこれほど心強いことはなかった。涼先輩には本当に感謝していた。この恩をいつか返せる日がくるといいのだけれど。

 

 

 

今日は平日のためユイ君はいない。

 

でもその方が良かったかもしれない。彼がいると急に弱くなる自分がいるからだ。歳月を得て自分を守る為にたくさんの鎧を身にまとってきた。それが彼といると一つずつ剝がれていくのを感じる。その心地よいフィーリングが増える度に幸せも増えていく。でもそれと同時に恐怖も膨らんでいた。わたしはどこへ向かっているの。わたしの人生に彼を巻き込んではいけないと今でもそう思っている。でも今の私には彼が必要で彼がいれば全てを失ってもいいとさえ思う瞬間がある。これから彼をどうしたらいいのだろう。この幸せにはたくさんの罪悪感と辛い宿命がついていた。

 

 

 

 

 

 

「ママ!片付け終わったよ。何か手伝う?」

 

「じゃ、食器を出してもらえる?」

 

 

「わかった!」

 

 

 

段ボールから手際よく食器をだす葵。この引っ越しには反対しなかった。ただ今の学校はそのまま通いたいと言い、その希望を涼先輩はあっさりと承諾した。このまま車で送り迎えをしてもいいから葵の好きなようにしなさいと言ってくれたのだ。近隣には私立高があり大学進学にも有利なが学校が幾つかあった。進学を考えた時、葵が希望するなら私立に通ってもいいと言う。葵には葵だけの世界がある。その世界を壊したくないと思うのは涼先輩も同じだった。

 

 

 

 

「終わったよ!あとは何かある?」

 

「じゃ、千佳のとこを手伝ってくれない?ママも終わったらすぐに行くから。」

 

 

「わかった、じゃ行ってくるね。」

 

「お願いね。」

 

 

 

 

蛇口をひねり水を出す。ボールに水を溜めて布きんを洗う。キッチンから見える風景は新鮮でどこかワクワクしていた。ここから新しい生活が始まる。頑張らなきゃ!ふと、ユイ君の言葉を思い出す。「頑張ろうとせずに、いつも通りでいいんですよ。周りから見たら雪さんは十分頑張っていますから。」そうだわ。いつも通りの自分でいよう。頑張りすぎずに私らしく前をみていこう。布きんを干しエプロンを外す。鍵と携帯を手に玄関へと歩きだした。

 

 

 

 

 

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「雪さん、今日はありがとう。助かったわ。きっと大斗も喜んでいると思うわ。」

 

 

今日は大斗の十七回忌だった。蓮君から1ヶ月前に連絡があり2日間有休を貰っていた。朝から訪問客が絶えることなく裏ではひっきりなしにお膳の準備に大忙しだった。本来なら表へでて手伝いをするべきなんだけど、お義母さんが気を使って私を裏方にしてくれた。記憶のない私が息子の話で困らないように配慮してくれていた。

 


 

「疲れたでしょう。食事をしてちょうだい。良ければ大斗の部屋を使うといいわ。誰も入ってこないから心配しないで休憩してきてね。」

 

お義母さんが微笑む。

 

 

 

「雪さん、これどうぞ。僕の部屋でもいいですよ。」

 

蓮君がお膳を手渡す。

 

「ありがとう大丈夫よ、蓮君。」

 

 

 

お膳を持って大斗の部屋へ行く。

 

記憶は少しずつ戻りつつあった。病院に運ばれてからその頻度も増していた。彼と過ごした日々は幸せだった。今ある記憶をすべて集めても幸せな記憶ばかりだった。ふと、ある本に目が留まり手を伸ばす。『徒然草』だった。彼の好きな本だ。開くとパラっと何かが落ちた。

 

 

本棚に手を伸ばす女性

 

 

 

 

拾い上げてみると手紙だった。その手紙はしわくちゃで伸ばした跡があった。少し躊躇しつつ開いてみる。それは彼の字だった。

 

 

『雪へ

君がこの手紙を手にしたとしたら、僕は君の前にいないのだろう。君は今幸せかい?好きな人はできただろうか?この手紙を書きながら、君の幸せを願っていると言いたいが僕はそんなに強くないことがわかったよ。君を残して逝くことになってしまってすまない。あの日ずっと側にいると約束したのにこんなことになるなんて思ってもいなかった。二人で色々な事をしたかった。悔やんでも悔やみきれない。僕の人生がこれで終わるなんて僕も信じられないから。

あと何日、あと数時間しか残っていないかもしれないこの時間を君の為に使いたいと思う。いいかい、よく聞くんだよ。僕は君を愛していた。深く深く君だけを愛していた。こんなに君を愛する人は僕だけだ。でも、僕がいなくなったら君を一番に愛する人は僕ではなくなる。

わかるかな。過去に縛られてはいけないよ。前を見るんだ。何も悩む必要なんてないんだよ。僕への想いは手放していいのだから。もし今君に大切な人がいるなら、その人の手を離してはいけないよ。どんなに困難な事情があるとしても離してはダメだ。

雪は優しいから、その人の事をいつも一番に考えて自分を抑制しているに違いないから。ダメだよ、自分の気持ちをコントロールしてはいけないよ。素直になっていいのだから。僕に会う前の雪に戻ってはいけない。自分の気持ちを押し殺し器用に笑う君の姿を僕はもう見たくないんだ。

 

僕の最後のお願いだ。

心から笑える人の側にいるんだよ。そしてその人の手をしっかりとつなぎ留めるんだ。絶対にその手を自分から離してはいけないよ。

 

雪の好きな人が、そんな雪の気持ちを察してくれる人だといいなと心から思っているよ。 あの日の花火と美しい君は僕にとって最高だった。 大斗』


 

 

『あの日の花火と美しい君は僕にとって最高だった。』その言葉が何かを誘発した。すべての記憶が開封された瞬間だった。走馬灯のように数十倍の速さで記憶が戻ってくる。割れるような痛みにその場に座り込む。莫大の量の記憶の壁が壊れあふれ出していた。鼓動が早すぎて吐き気がする。体が左右に揺れている。突然ある記憶の途中で、これまで早送りだった映像がゆっくりと再生され始めた。

 

 

 

 

「もしもし、終わったよ。今どこ?」

 

「・・・。」

 

「もしもし、どうしたの?」

 

「ユキ、僕はもうダメかもしれない。」

 

「えっ、何?聞こえない。」

 

「・・・」

 

「もしもし、聞き取りにくいわ。」

 

「・・そこで・・待っててくれないか。」

 

「わかった。どうかしたの?」

 

「・・愛してるよ。」

 

「何、どうしたの怖いわ。もしもし、大斗?もしもし・・・もしもし!」

 

 

 

 

止まっている車のタイヤ

 

 

 

 

 

 

 

 

「わたしのせいだわ。わたしのせいよ。」

 

「いや、君のせいではないよ。」

 

「いいえ!わたしのせいよ!!」

 

「誰のせいでもないんだよ。だから泣かないでくれ。」

 

「こんなの間違ってるわ。すべてがおかしい。大斗がこんなことになるなんてダメよ!」

 

「雪、こっちを見て。こうなったのは雪のせいではないんだよ。誰のせいでもない。だから自分を責めちゃいけないよ。」

 

「だって、だって私を迎えに行かなければ・・。」

 

「いいや、迎えに行くと決めたのは僕なんだ。誰のせいでもないんだよ。だから雪泣かないでくれ、お願いだよ。なんだか・・少し疲れたようだ。」

 

「わたし・・ごめんなさい。」

 

「大丈夫だよ。僕は君の側にいるから心配しなくていい。」

 

「ごめんなさい。」

 

「少し・・寝かせてくれないか。」

 

「わかった。おやすみなさい大斗。」

 

「・・・。」

 

 

 

 

 病院のベットの上でその手を握る女性

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「義姉さん、兄さんはよく頑張ったと思うよ。」

 

「・・・。」

 

「義姉さんの事を頼むって言ってたんだ兄さんが。だから、何も心配しなくていいから。僕も母も側にいるよ。だから・・・。」

 

「・・・。」

 

「誰か!!誰か!!来てください!誰か助けてください!急に倒れたんです、看護婦さんを呼んでください!」

 

「・・・。」

 

「義姉さん!聞こえる?義姉さん!義姉さん!!」
 

 

 

 空になった病室のベット

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トントン、ノックがした。

 

「雪さん、入りますね。」

 

 

ドアが開く。うずくまっている私に気づいた蓮君が駆け寄る。

 

「雪さん!!大丈夫ですか、立てますか?」

 

 

うずくまる女性

 

 

 

 

 

 

「どうしたんですか?顔色も悪いですね、そのまま帰るって母に言ってきます。ちょっと待っててください。」

 

慌てて部屋を出ようとする彼の腕をつかむ。

 

 

「蓮。」

 

 

 

 

その声に彼の体は硬直した。ゆっくりとこっちを振りむく。

 

 

 

 

 

「今、なんて言いました?」

 

 

 

疑うような驚いた顔でこっちを見る。

 

 

 

 

 

「蓮、思い出したの。すべて思い出したの。」

 

彼の顔がこわばっていくのがわかる。

 

 

 

「義姉さん・・・。」

 

 

 

 

「思い出したのよ。わたしが彼を殺した。」

 

「それは違う!!義姉さんのせいではない!」

 

 

「いいえ、違わないわ。私が彼を殺したの。いいえ、わたしのせいで彼が死んだの。死ぬはずじゃなかった彼が、死んだのよ!」

 

「違う!!それは違うんだ!冷静に話をしよう、義姉さん。」

 

 

「何も違わないわ。私は冷静よ、真実を話してるだけよ。彼は私のせいで死んだ。私は彼に別れを言えないまま彼は死んだの。彼は寂しく一人で死んでしまったの。」

 

「違う、違うんだ義姉さん!あの日、兄さんは会社へ行ってたんだ。急ぎの仕事があってその帰りに事故にあったんだよ。だから義姉さんせいじゃないんだ。葬儀が終わって数日してから会社の人達が謝罪に来たんだ。会社に呼び出さなければあの事故は起こらなかったと謝っていたよ。でもあの事故は誰のせいでもないんだよ。不運だったんだ。」

 

「そうだとしても不運だけでは済まされないわ。私は彼の最後を看取れなかった。それどころか、彼の心を疲れさせたまま逝かせてしまった。酷い妻よ。夫の最後も看取れず、夫の記憶さえも消しさってしまい、今までのうのうと生きてきたんだわ。私は最低よ。どんなに謝っても彼は許してくれない!!」

 

 

「義姉さん!!」

 

 

 

「私はなんて馬鹿なの。記憶を消すなんて。彼との思いでを消してしまうなんて。逃げたんだわ。私は全てから逃げたのよ。彼からも逃げたのよ。こんな私を誰が許すのよ。私は絶対に自分を許さない!」

 

「義姉さん!頼むよ、落ち着いてほしい。兄さんはこんなこと望んでいない。その手紙を読んだんだろ。」

 

 

 

床に落ちている手紙を指さした。

シワシワな手紙を見つめる。頬を涙が流れていく。

 

 

 

 

「あれは、兄さんが最後に書いた手紙だ。僕は手紙なんて書いて欲しくなかった。辛そうなのに痛みを堪えながらその手紙を書いていたんだ。何日もかけて少しずつ書いていたよ。最後は読めないくらいに汚いだろ。亡くなる前の日に手渡されたんだ。兄さんは最後を悟っていた。そしてこれをその本に挟むように俺に頼んだ。俺は断ったよ。縁起でもない、兄さんはまだ生きてるのに遺書を書くなんて許せなかった。でも兄さんが強く頼むんだよ。義姉さんのためだからと言って俺に頭を下げるんだ。俺が頑なに嫌だと言うと、突然兄さんは笑いだしたんだ。お前が俺に嫌だと言うのはこれが最後だなって笑うんだよ。俺は手紙を奪い取って兄さんの前で握り潰した。兄さんは笑っていたよ。そして最後に『頼んだぞ蓮。』そう言って眠ったんだ。それが兄さんの最後の言葉だった。どんな想いでその手紙を兄さんが書いたのか分からないのか義姉さんは!!兄さんは最後の最後まで義姉さんの幸せを祈っていたっていうのに、何が自分を許さないだよ!兄さんは、馬鹿をみたってことなのか。義姉さんには兄さんの望みが本当に何か分からないのかよ!!」

 

「蓮・・・だって、わたし彼を愛していたのに彼を忘れてしまったのよ。どうしたらいいの。わたしは、わたしはどうしたらいいのよ。」

 

 

「簡単だよ、義姉さん。兄さんの望みは義姉さんの幸せなんだから。」

 

「でも蓮、わたしは自分を許せないわ。」

 

 

 

「ダメだよ、また逃げる気なの。自分を許さないのは簡単だよ、またすべてを捨てればいい。今のこの状況から逃げるには自分を追い込めばいいだけだ。あの時は記憶を無くして楽になった。今は自分を追い込んで楽になればいい!それが兄さんへの謝罪と言い切るなら俺はもう何も言わない。」

 

「蓮。ごめんなさい。」

 

 

 

「僕に謝る必要はないよ、義姉さん。僕は兄さんに頼まれただけなんだ。義姉さんが幸せをつかむまで側にいてほしいと頼まれたから。僕に謝るのは義姉さんでなくて兄さんだよ。こんな辛いことを頼むなんて酷いよ兄さんは。」

 

「蓮、本当にごめんなさい。わたしが悪かったわ。」

 

 

「義姉さんは何も悪くないんだよ。」

 

「・・・。」

 

 

「兄さんは最後の最後まで義姉さんの幸せを祈ってたよ。兄さんがどんな想いで僕に託したのかその気持ちがわかる?」

 

「えぇ、今ならわかる。わかるわ。わたしは大丈夫だから、蓮。」

 

 

 

「よかった。・・本当に義姉さんは全てを思い出したの?」

 

「ええ、そうだと思うわ。」

 

 

「小さい頃の記憶も?」

 

「ええ覚えてるわ。」

 

 

「じゃ、飛行機のキーホルダーは?」

 

「キーホルダー?」

 

 

「それはまだなんだね。」

 

「なんのことを言ってるの?」

 

 

「いいんだ、そのうち思い出すと思うから。その時がくれば、今のように思い出すはずだ。そうすれば僕の役割も終わる。それまでは義姉さんの側にいてちゃんと見守ってるから心配しないで。今日は疲れたでしょう。もう帰るといいよ。僕が送るから。」

 

「ありがとう、蓮。」

 

 

「やっと僕のこと、蓮って呼んでくれたね。ずっと寂しかったんだ。蓮君って呼ばれる度に他人みたいで嫌だった。でも今ではそれが心地いいと思う自分がいて複雑だったよ。」

 

「ごめんね。」

 

 

「もう謝らないで。義姉さんは、これからも僕の義姉さんなんだから。」

 

「そうね。ありがとう。」

 

 

 

「じゃ、ちょっと待ってて。」

 

 

 

 

 

 

ゆっくりドアを閉めた。記憶が戻った。長い年月だった。それほど義姉さんには残酷だったと今分かった。兄さんの言葉のすべてが、その通りだった。間違ってなかった。悔しいけど兄さんは正しかった。

 

最後のあの日、兄さんは僕に言った。

 

 

 

 

「蓮、雪はダメだぞ。」

 

「何がだよ。」

 

 

「雪を好きになっても振り向いてはもらえない。」

 

「何言ってるんだよ兄さん!俺はそんな事・・。」

 

 

「雪の事が好きだろ、知ってたよ。でも俺がいなくなっても、その気持ちを雪に伝えてはいけないよ。」

 

「だから別に好きじゃないって!」

 

 

「お前は雪にとって俺の弟なんだよ。もしお前がその気持ちを雪に伝えたら、雪は今まで以上に自分を追い込むだろう。きっと俺に対する心苦しさで生きていけなくなる。何故なら俺が死んだら雪は間違いなく罪悪感で押しつぶされるからだ。そしてお前のその気持ちが雪にとどめを刺すことになるはずだ。だから絶対に言ってはダメだ。わかったか。」

 

「とどめを刺すってどういう事だよ。」

 

 

「言葉のままだよ、きっとこの世界にいたくなくなる。そして、俺の元へ行こうとするだろう。」

 

「それって・・自殺するってことか?」

 

 

「それは一番最悪の事態だ。だから、そうならないように雪を助けて欲しいんだ。キーホルダーの男の子の話を覚えているか。」

 

「あぁ、覚えているよ。酔っぱらった時によく義姉さんが自慢する男の子だろ。」

 

 

「そうだよ、俺は自分がこんなに嫉妬深いとは思わなかったよ。実は調べたんだ。」

 

「マジで!なんでだよ。相手は子供だろ。」

 

 

「それでも、嬉しそうに話す雪の姿に嫉妬してたんだ。雪が名前を憶えていたからすぐに探しだせたよ。一度会いに行ったら、お母さんと本を借りにきていたよ。可愛い男の子だった。リュックには雪とお揃いのキーホルダーが下がっていたよ。」

 

「それが何なんだよ。」

 

 

「これからが大切な話だ。いいかよく聞いてくれ、雪の人生には大切なことかもしれないからだ。もし何年経っても誰も好きになることなく雪が一人だったとしたら、どんな形でもいいからこの子と会わせてあげて欲しい。そのあとは見守るだけでいいから。チャンスをあげて欲しいんだ。」

 

「何言ってるんだよ、兄さん。相手は子供だぞ。」

 

 

「今は子供でも、彼はいずれ大人になる。だから、それまで彼の事も見守って欲しい。」

 

「全然意味がわからないよ。そんな未来の話をされてもピンとこないし。」

 

 

「お前には遠い未来でも、俺には無い未来なんだよ。」

 

「そんなこと言うなよ!」

 

 

 

「疲れたな・・少し横になるよ。」

 

「少し寝るといいよ。とにかくその意味不明な発言はなしだ。なし。」

 

 

「・・頼んだぞ、蓮。」

 

 

 

 

こんなひどい遺言なんてあるのかよ。本当に兄さんは義姉さんのことになると周りが見えなくなる。俺のことさえ見えていない。でも俺が義姉さんを好きなことには気がついた。兄さんの言う通りだと今は思う。もし記憶喪失でなく俺が告白をしていたら義姉さんはもっと苦しんでいたはずだ。あの優しい義姉さんの事だ間違いない。

 

俺は死ぬまでこの気持ちを一人で耐えるしかないのか。苦しんできた日々を思い出す。いや、兄さんが知っているから一人じゃないな。さすがに墓場まで持っていったら兄さんに怒られそうだな、そろそろこの気持ちを譲る準備を始めるか。

 

 

お膳を握り締め、階段を一気に駆け下りた。

 

 

 壁に座っている人

 

 

 

 

 

 

次回、『初恋とプレプロポーズ』

 

 

 

 

 

 

第19話 初恋とプレプロポーズ

 

 

 

 

 

 

 

 

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《声ブロ》 小説 僕の手は君の 第1回

 

連載小説「僕の手は君の第1話」

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連載小説「サマーバケーション第1話」

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