私がイタリア文学に興味を持ったのは15年ほど前
須賀敦子さんの全集を読んでからです。
今、家にこれしか残っていないので、
1巻と2巻は友人に貸したままなのかな(コロナ前で忘れてしまった)
須賀さんの文章がきれいで、
彼女のイタリアでの生活にどんどん引き込まれていきました。
そして最初に読んだイタリア文学が
須賀敦子訳のナタリア・ギンスブルク著「ある家族の会話」でした。
読み始めは、物語のダイジェストみたいにスピードが速くて
でも、すでに本文なのです。(これがイタリア本の書き方だと知る)
驚きながらも文の上手さとギンスブルグの世界に引き込まれて読んでしまいました。
夢中になり何回電車の駅を乗り過ごしてしまったことか。。。
次に「マンゾーニ家の人々」(ナタリア・ギンスブルク著 須賀敦子訳)
を読み始めたのですが、途中で本が見当たらなくなってしまいました。
(電車の中に置き忘れたのかも)
イタリア語の勉強に追われて読書からしばらく遠ざかっていましたが
時間に余裕が出て、最近また読書づいています。
数日前に「ある女の子のための犬のお話」を読んだばかりです。
ダーチャマライーニが飼っていた犬や他の動物についてのエピソード集で
動物を飼ったことがある人ならその時のことを思い出して、考えさせられたり、共感したり…
子供向けのようであり、子供には少し怖い話のようでもありの内容。
翻訳本のため、子供は読みにくいかも、とも。。。
私は本を読むと、暇に任せてあとがきなど全部読むのですが
この訳者あとがきの中に
おまけとして、我が家の猫の話。というのが書かれてありました。
やはりそうなるのねと、面白そうで読みだしました、が…
日本語として理解できない。???
2回読んでも、たくさん出てくる猫の主語と述語が繋がらない、おまけに人間も絡んでくる。で、5回読んだら、この筆者が言いたい事がだいぶ解ってきました。
補わなければ理解できない箇所が多すぎる。
書き手本人だけが悦に入って、読み手を置き去りにするよくある下手な作文です。
これは、信じられない 驚愕でした。
5回読み直しても、
最後の行に出てくる「母親」がどの猫なのか未だによく分っていませんし
もしそれが最初の野良猫なら、黒い子猫(?)が居なくなった時の記述と同様に
筆者の動物に対する愛に疑問を感じる不快なお話になります。
須賀敦子さんは
ナタリアギンスブルグから文章の書き方を学んだと著書の中で書いています。
この訳者が ダーチャマエライーニから学んだものは、無駄のない知的な凝縮した言葉を羅列することだけ…
客観的な状況描写力をダーチャマライーニから学ばなかったのでしょうか?
イタリア語翻訳の大御所(?)に対してこんなこと言えるのは、イタリア文化会館を理不尽に追い出された私ぐらいでしょう。
事実を指摘してるだけですし、もう失うものもないから。
また他におかしいと思う翻訳の私なりの指摘です。
最近イタリア文化会館のブログで目にした映画のDVD「副王家の一族」と「シチリアの女一代記」。
「副王家の一族」は、中国のお話かと思ってしまいます。
副王って日本語に存在するでしょうか?
原題はI Viceré。 確かに辞書に「副王、総督」が載ってました。
映画を見た後の私としては、シンプルにシチリアの公爵家とか大貴族でいいんじゃないかと思ってしまいます。
もう一つの「シチリアの女一代記」は、貧困に生まれ艱難辛苦の末に一代で財を成したシチリアの肝っ玉母さんをイメージします。
このタイトルから教養高い美しい公爵夫人を想像できる日本人はいないでしょう。↓
この2つは日本人が翻訳したとは思えないし、この最悪の訳を許した イタリア文化 に関わっているイタリア語上級習得の日本人たちの感覚が理解できません、と怖いもの知らずでもの言う私です。イタリア文化会館 を相当に恨んでるかな
こんなお粗末な題で、よくイタリア大使館からクレームが出なかったと思います。
映画「副王家の一族」はこちらで見ることができます。↓
イタリア語だけです。
言葉が100%解ったわけではありませんが、ストーリーが単純なので私の語学力で十分理解できました。ただ主役の役者さんの顔が濃くて好みじゃないので最後まで観るのは別の我慢が要りました
好みで言えば、タイトル最低な「シチリアの女一代記」の方がお薦めの映画です。原作の「シチーリアの雅歌」よりは落ちますが。
(「シチーリアの雅歌」より「マリアンナ・ウクリア公爵夫人」の方が適題と思うけど)
読み終えたダーチャマライーニの作品について ↓