ヨハネによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕16・20「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。21女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。22ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。23その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。」

 

 「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」とイエスは言います。

 別離の予感に悲しむ弟子たちにイエスは再会を予告します。イエスと出会った弟子たちの喜びを奪う者はいないというのは、イエスが弟子たちと共に生き続けることを予感させます。

ヨハネによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕15・9「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

 11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 

 イエスが弟子に与える掟は一つしかありません。それは弟子たちが「イエスの愛にとどまる」ことであり、「互いに愛し合う」ことです。

 イエスが弟子に唯一の掟を与えるのは、イエスの喜びが弟子たちの内にあり、弟子たちの喜びが満たされるためです。

 イエスは弟子たちを僕とは呼ばず、友と呼ぶと言いますが、復活したイエスがマグダラのマリアに出会った時、イエスは弟子たちのことをわたしの兄弟たちと言います。イエスと弟子たちとの関係は、僕から友へ、友から兄弟になります。イエスの復活により、わたしたちは皆、イエスの弟や妹にしていただけます。

 

 聖マチア使徒については女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=051401

 

ヨハネによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕15・9「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

 11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 

 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と訳されているもとのギリシャ語は、「アガパオー」です。これを「愛する」と訳すのは誤訳に近いと言ったのは、ケセン語訳福音書で有名になった山浦玄嗣さんです。

 山浦さんによれば、現代日本人が使う「愛」という言葉は、明治時代に西洋の概念を翻訳する際に定着したものであり、その根底には仏教的な「愛別離苦(あいべつりく)」や、執着を意味する「渇愛(かつあい)」のニュアンスが強く残っているといいます。

 一方、イエスが説いた愛(アガペー)を、山浦さんは「大切にすること」や「相手を生かすこと」と言い換えます。これは感情の盛り上がりではなく、明確な「決断」と「意志」に基づく行動を指します。

 山浦さんはこれを、岩手県の気仙地方の言葉で「でぇーじにする」(大事にする)と訳しました。

 相手が自分にとって好ましいかどうか、あるいは敵であるかどうかに関わらず、「この人をかけがえのない存在として、最後まで大切にする」ことがイエスの「愛」です。

 しかし、イエスの掟を守るのは、容易なことではありません。