ヨハネによる福音
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕15・9「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と訳されているもとのギリシャ語は、「アガパオー」です。これを「愛する」と訳すのは誤訳に近いと言ったのは、ケセン語訳福音書で有名になった山浦玄嗣さんです。
山浦さんによれば、現代日本人が使う「愛」という言葉は、明治時代に西洋の概念を翻訳する際に定着したものであり、その根底には仏教的な「愛別離苦(あいべつりく)」や、執着を意味する「渇愛(かつあい)」のニュアンスが強く残っているといいます。
一方、イエスが説いた愛(アガペー)を、山浦さんは「大切にすること」や「相手を生かすこと」と言い換えます。これは感情の盛り上がりではなく、明確な「決断」と「意志」に基づく行動を指します。
山浦さんはこれを、岩手県の気仙地方の言葉で「でぇーじにする」(大事にする)と訳しました。
相手が自分にとって好ましいかどうか、あるいは敵であるかどうかに関わらず、「この人をかけがえのない存在として、最後まで大切にする」ことがイエスの「愛」です。
しかし、イエスの掟を守るのは、容易なことではありません。