マルコによる福音

 〔そのとき、〕10・28ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。29イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、30今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。31しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

 

 イエスが「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言うと、弟子たちは驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いにつぶやきます。

 そこで、イエスは彼らを見つめて、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」と言いました。

 そのすぐ後の部分が今日の聖書朗読箇所です。わたしには、ペトロの言い分はピントがずれているように思えます。

 人間の力で神の国に入ることは難しいけれど、何でもできる神に信頼すれば、神の恵みによって神の国に入ることができるとイエスは言っています。

 これに対してペトロはすべてを捨ててイエスに従った報償を求めているのです。

 ペトロと同様他の弟子たちも同じ考えだったのだと思います。

 彼らがイエスの言葉の意味を知るのはイエスの復活後のことです。

 

 聖フィリッポ・ネリ司祭については女子パウロ会ホームページをごらんください。 https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=052601

ヨハネによる福音

 〔そのとき、〕19・25イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。26イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。27それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

 28この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。29そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。30イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 31その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。32そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。33イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。34しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。

 

 新共同訳聖書で「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」と訳されている部分に違和感を感じていたら、新約聖書翻訳委員会の小林神父訳では「その時から、この弟子は彼女を自分のところに向かい入れた。」となっていました。

 調べて見ると、「引き取る」は、物理的・法律的にあるもの(ひと)を自分の管理下に置くことだとありました。用例には、「親戚の遺児をわが家に引き取る」とか、「不要品を古物商に引き取ってもらった」などがありました。

 ヨハネはイエスの言葉を受けて、マリアを自分の母としてお迎えしました。

 ヨハネがマリアを母としてお迎えしたところから、イエスを信じる人々にとってマリアは信仰の母となられました。

 教会の誕生日である聖霊降臨の次の日が教会の母となっているのはふさわしいと思います。

 

 教会の母マリアについては、女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycle0/materecclesia.php

ヨハネによる福音20:19-23

 19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 

今日は聖霊降臨の祝日です。

 

 第一朗読の使徒言行録では、イエスの指示どおりにエルサレムにとどまり祈り続けていた弟子たちの上に聖霊が降ります。弟子たちは聖霊に満たされて語り始めます。弟子たちの話を聞いた人たちは、あらゆる国から来ている人たちでしたが、言葉の違いを超えて弟子たちの話を聴き取ることができました。彼らが語る内容は国籍や言語の違う人たちにも理解できるものだったようです。

この出来事は、旧約聖書、創世記11章のバベルの塔の話を思い起こさせます。人々は「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。」と言って塔を作り始めました。神はその様子を見て「彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬように」しました。

 聖霊降臨では、聖霊が弟子たちの上に降ることによって言葉の壁を越えて、互いに理解し合うことができるようになりました。

 世界中の言語に翻訳されている聖書は、どの言語の人でも救いと赦しをもたらすメッセージを理解することができます。

 

 第二朗読のガラテヤの教会への手紙で、使徒パウロは「霊の導きに従って歩みなさい」と教えます。パウロは、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」だと言います。霊の導きに従って歩んでいるかどうかは、霊の結ぶ実を見ることによって分かります。聖霊の賜物を受けて、霊の結ぶ実をわたしたちの生活の中で実らせることができるよう祈りましょう。

 

 復活したイエスと出会った「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝え」(20:18)ました。今日の福音朗読はその後のエピソードが述べられています。

 マグダラのマリアからの伝言を信じられなかったのか、「ユダヤ人への恐れ」が優っていたのか、弟子たちは自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。「鍵をかける」という表現は実際に扉の鍵をかけることを意味していますが、「天の国を閉ざす」(マタイ23:13)という意味でも使われます。さらに自分の心を閉ざすという意味にもとれます。

 弟子たちが戸に鍵をかけたのはユダヤ人を恐れたからだと書かれていますが、彼らはユダヤ人以上に復活したイエスが彼らの前に出現することを恐れたのではないかとわたしは思います。

 おびえる弟子たちの真ん中に、突然イエスが立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われます。この平和は、イエスが告別説教の始めで、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」と弟子たちに告げ、告別説教の締めくくりに、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と勇気づけた平和です。突然のイエスの出現に遭遇した「弟子たちは、主を見て喜」びました。弟子たちのおびえは喜びに変えられました。

 

 イエスは、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とおっしゃり彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言います。

 

 ヨハネ福音書では洗礼者ヨハネがイエスと出会った時に、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(1:32)と証しをしています。イエスが弟子に与えた聖霊は、イエスご自身の霊であり、その霊の力でイエスは神の国を告げ知らせました。

 

 イエスの平和と霊を与えられた弟子たちは、復活されたイエスによる神の赦しを告げ知らせ、もたらすために遣わされます。

 

 わたしたちにもイエスは「聖霊を受けなさい」といい、御自分の霊を吹きかけられます。かつて弟子たちがイエスの霊を受け、イエスの使命(mission)に与る者とされた(commission)ように、わたしたちもイエスの霊に満たされてイエスの使命を委託されます。

 

 福音朗読の前に歌った聖霊の続唱の歌詞を想い起こしましょう。

 

聖霊来てください。あなたの光の輝きで、

わたしたちを照らしてください。

貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方。

やさしい心の友、さわやかな憩い、ゆるぐことのないよりどころ。

苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め。

恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光よ。

あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、

だれも清く生きてはゆけない。

汚れたものを清め、すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方。

固い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。

あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。

あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、

終わりなく喜ぶことができますように。

アーメン。アレルヤ。