マタイによる福音 10:37-42

 〔その時、イエスは使徒たちに言われた。〕37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

 40 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。41 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。42 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

 

今日のみことばの典礼のテーマは、「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受ける」ではないでしょうか。。

 

第一朗読の列王記で預言者エリシャがシュネムの町で、婦人から歓待を受け、やがて彼の部屋まで準備してもらいました。エリシャはその町を訪れる度に、まるで自分の部屋のようにそこでくつろぐことができました。エリシャが彼女のためにできることがないか考えていると、従者のゲハジが、「彼女には子どもがなく、夫は年を取っています」と答えました。この婦人はエリシャに自分の窮状を告げることはなかったのですが、彼女の内心の悩みを知ったエリシャは、彼女に「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱いている」と告げます。

 

 今日の福音の言葉は、イエスが弟子たちを宣教に遣わす時に話した言葉の最後の部分です。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」というイエスの言葉には戸惑いを覚えます。

 

 聖書学者の雨宮神父によれば、「ふさわしい」と訳されたギリシャ語は、もともと、天秤にかけた二つの物が釣り合う様子を表す言葉です。従って、ここでのイメージは、天秤の皿の片方に「わたし(イエス様」、もう片方に「父母・息子・娘」が乗っている状態です。この天秤を持つと、どちらか一方に傾くのです。

 

 イエスの方に傾くか、「父母・息子・娘」の方に傾くか、に応じて、イエスにふさわしいか、どうかが決まるとイエスは言います。

 

 親や兄弟、子どもを大切にする気持ちは、どんな人間にも共通なことのように思いますし、それができないのは虐待だとも言われます。ですから、イエスのおっしゃることは理不尽で、厳しすぎる要求のように思えます。

 

 使徒たちにこのような厳しい要求をするイエスご自身はどんな生き方をしておられたのでしょうか。

 

 マタイ福音書では、イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのち、悪魔から荒れ野で誘惑を受けます。その誘惑は三つありました。

「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」、

「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」、

「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」

 

 この誘惑は、結局、神以外のものやことを愛着するようそそのかすものです。イエス様は、最終的に「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」と悪魔とその誘惑を斥けました。

 

 イエスの生活は、イエス様の「神である主を拝み、ただ主である神に仕える」生活だったと言えます。

 

 宣教生活を始めたイエスは、二度とガリラヤのナザレでヨセフとマリアと一緒に暮らす生活に戻ることはありませんでした。

 

 最初にイエスが四人の漁師を弟子にしたとき、彼らは網を捨て、舟と父親とを残してイエスに従いました。それ以来弟子たちはイエスとともに歩み、イエスが語ること、なさることを見聞きしてきました。

 

 しかし、苦しんでいる人や悲しんでいる人が大勢いるためにイエスは十二人を派遣することになさったのです。そして弟子たちがどのようにふるまうべきかを教えました。今まではイエスと共に行動していた弟子たちはイエスのもとを離れて自分たちだけで宣教しなくてはなりません。

 

 弟子の中には自信がないので、自分の故郷に帰ろうかと思う人もいたかも知れません。今日のイエスの言葉は不安そうな弟子たちの顔を見てイエスが言ったとするならよく分かるように思います。

 

 イエスの福音は、家族が仲良くしていれば良いという教えではありません。イエスの福音は、すべてに先立って「神を大切にし、神に従う」ことです。イエスの掟を守り、神を大切にする気持ちで、家族を大切にするのか、家族が大事だから、イエスについて行くのを止めるのか、どちらか一つだとイエスは弟子に言うのです。何かを選ぶことは、それ以外のものを断念することです。

 

 パウロが「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たち、またケファ(ペトロの別名)のように、信仰深い妻を連れて歩く権利がないのでしょうか。」(コリントの信徒への手紙一 9章5節)と言うように、使徒たちの中には妻と同伴で宣教をしていた人もいました。

 イエスは家族を捨てろと言っているのではなく、家族への愛や自分自身の保身が、イエスに従うことの邪魔になるならば、それを超えて自分に付き従う覚悟があるのかと言っているのだと思います。

マタイによる福音

 〔そのとき、〕8・5イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、6「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。7そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。8すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。9わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」10イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。11言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。12だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」13そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

 14イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。15イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。16夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。17それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

 

 カトリック教会には「病者の塗油の秘跡」があります。

 信者が重篤な病気を患い、死の危険を感じるとき、使徒ヤコブの手紙に「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」とあるように、司祭を招いて「病者の油」を塗る式です。

 その儀式書に掲載されている福音書の朗読箇所が本日の福音です。病気、それも重篤な病気にかかることは信仰の試練の時でもあります。

 孤独の中で苦しむとき、主が訪れてくださり、いやしの油で触ってくださる秘跡は、患者に大きな勇気と安心をもたらすものです。

 イエスは超越的な力を発揮して病気を癒やすのではありません。

 「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」とあるように、イエスは患者の病を背負ってくださるのです。

 この秘跡は聖体拝領を含みます。病者の塗油の時の聖体拝領は、「旅路のかて」と呼ばれ、この世の生活を終え、天に旅立つときの糧です。

 残念ながら、さまざまな理由で聖体拝領ができないことが増えています。患者の家族は患者が聖体拝領できる間に司祭を呼んでくださるようお願いしたいものです。

マタイによる福音

 〔そのとき、〕8・1イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。2すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。3イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。4イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」

 

 レビ記の規定により、重い皮膚病を患った人が病気が治った場合、祭司によって病気が完全にいえたと証明されなければ、家族や共同体に戻ることができません。

 イエスが業病を治したことが知られれば、本来の使命を遂行する妨げとなると考え、病気が治ったことを祭司だけに見せるようにと言ったのです。