ヨハネによる福音
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕14・23「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。28『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。29事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」
今日の言葉の典礼の主題は、教会を導く聖霊の働きということができます。
第1朗読の使徒言行録は、エルサレムで行われた使徒会議の場面です。
アンチオキアに来たユダヤ人キリスト者が、異邦人キリスト者に向かって「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と言ったことから、彼らとパウロとバルナバとの間で激しい言い争いが生まれ、パウロとバルナバと数名の者がエルサレムに上って、他の使徒たちや長老たちと会議を行ったのです。
その結果、使徒たちと長老たちは、自分たちの中からユダとシラスを選んで決定事項を伝える手紙を託し、パウロ、バルナバと共にアンチオキアに派遣しました。
その手紙には、異邦人は割礼を受ける必要はなく、四つの禁令、「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避ける」ことで良いと書かれていました。
こうしてキリスト教はユダヤ教の一分派ではなく世界中の人々が信じることのできる宗教になりました。
第2朗読は黙示録が続けて読まれています。天から下ってくる聖なる都エルサレムには神殿がありません。「全能者である神、主と小羊とが神の神殿」だからです。地上のエルサレムの神殿ではなく、天から究極の救いがもたらされるのです。全能者である神、主と小羊こそが神殿なのです。
父と子と聖霊のみ名によって人々が集まるところは、どんな場所でも神殿となります。
イエスの弟子たちへの告別説教は、ユダが夜の暗闇に飲まれた後の13章31節から始まり17章のイエスのいのりで締めくくられます。この告別説教の間に、イエスは愛する(アガパオー)、愛(アガペー)という言葉を51回使います。この頻度からも、イエスの弟子への告別説教の中心は「愛」(アガペー)であることが明らかです。
一方で日本では「愛」は愛憎、愛着、愛欲、愛人、愛着、情愛など、情念や執着に受けとめられやすいようにも思います。
イエスが言おうとする愛は、「友のために自分の命を捨てる」(ヨハネ15:13)愛のことです。
16世紀に日本に来た宣教師たちはアガペーの訳語を「愛」としましたが、すぐ「ご大切」と訳語を変えました。相手を自分の命に代えても大切にしようとすることがイエスの説く愛です。
26節の「弁護者」という言葉はヨハネ福音書だけで使われます。その弁護者とは聖霊、真理の霊を指していますが、ヨハネ2章1節ではイエスご自身が弁護者と呼ばれます。
聖霊はイエスを信じる人々にイエス(の言葉)を正しく理解させ、それに生きる力を与える霊だと言われます。聖霊はヨルダン川でイエスご自身に降りました。そのとき父である神がイエスを「これは、私の愛する子、私の心にかなうもの」と宣言しています。従って、私たちにとっては、聖霊はイエスの霊そのものであるということもできます。イエスに活力を与え、十字架上の苦しみと死を堪え忍ぶ力を与え、復活のいのちをもたらしたのはまさにイエスに降った聖霊の働きによります。今、弟子たちの前を去る前に、その聖霊を弁護者として弟子たちに与えるとイエスは約束します。
また、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」とも約束します。
告別説教の時点ではイエスの平和がどのようなものであるか弟子たちにはわかりませんでした。
しかし、イエスの死後、ユダヤ人を恐れて、部屋に閉じこもっていた弟子たちを訪れたイエスが「平和があるように」と告げたとき、この平和が単なる挨拶ではなく、ご自分を裏切った自分たちを赦し、どんな時も共にいる約束であることが弟子たちにはわかったのだと思います。
それで、イエスが与えた平和の力と弁護者の守りに支えられて、弟子たちは迫害を恐れることなくイエスの福音を力強くあかしするようになったのだと思います。
教皇レオ14世は5月14日「東方教会の聖年」のためにバチカンを訪れた東方典礼カトリック教会の巡礼団への挨拶で、東方教会がある聖地や、ウクライナ、レバノン、シリア、中東地域、アフリカのティグレ地方、コーカサス地域などに見られる暴力に言及して、
「武力的征服の名の下に死ぬのは人間です。これらのすべての恐怖、若いいのちの虐殺は恥ずべきことです」と述べ、教皇としてだけでなく、キリストの言葉として、「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20,19.21.26)という平和のアピールを繰り返しました。
「キリストの平和は、紛争の後の死の沈黙でも、強制の結果でもありません。それは人間を見つめ、いのちを取り戻させる恵みです」と教皇は話し、キリストが与える平和、和解、赦し、再出発の勇気のために祈るよう招きました。
「わたしは平和を残し、わたしの平和をあなたがたに与える」という約束は、毎回の感謝の祭儀で平和のあいさつの前に司祭が唱える祈りでもあります。
ひとこと
今日は世界広報の日の献金日にも当たります。
聖書と典礼の8ページには、教皇フランシスコの世界広報の日のメッセージの抜粋が載っています。聖書と典礼をお持ち帰りになり、ご自宅で一読くださるようお勧めします。
SNSの浸透により、だれもがツイッター(X)で発信でき、その真偽が確かめられないまま拡散されています。また、自分に都合の悪い情報はフェイクニュースだという為政者もいます。
こうした情報の氾濫の中でわたしたちに必要なことは冷静な識別です。
聖霊の導きによる識別を行うことができるよう祈りましょう。