ルカによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕6・27「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。28悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。29あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。30求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。31人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。32自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。33また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。34返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。35しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。36あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

 37「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。38与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

 

 今日の弟子に対する命令は、少なくともわたしには実現困難なことばかりです。イエスの言葉どおりに生きることのできない自分を認めざるを得ません。

 私たちの父である神が憐れみ深いように、憐れみ深いひとにして下さいと祈ります。

 

 日本205福者殉教者については女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=091001

 

ルカによる福音

 〔そのとき、〕6・20イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。21今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。

 24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。26すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

 

 今日の福音で、イエスは四つの幸いと、四つのわざわい(不幸)について語ります。

 イエスのこの言葉は、群衆全般というよりも、これから主に従っていく「弟子たち」に向けられています。

 それは、主に従うゆえにこの世で直面する現実を見据えてのことでした。

 イエスが言う「貧しさ」や「飢え」は、当時の社会的な弱さや、信仰ゆえに被るリアルな苦難を指しています。しかしイエスはは、たとえ今の現実ではこうであっても、神の国において完全に逆転する。だからその日には喜び躍りなさい」と弟子たちを励まします。

反面イエスは「富んでいる人、満腹している人、今笑っている人、人からよく言われている人」に対して「災いである(不幸である)」と言います。

 なぜなら、彼らは「すでに慰めを受けてしまっている」からだとイエスは言います。

 「今さえ良ければいい」という刹那的な生き方は、一見華やかであっても、神の国から見れば最も危うい状態です。

 私たちが生きる現代社会もまた、「持てる者、強い者、称賛される者」を良しとする価値観に満ちています。

 キリスト者として生きることは、時に損をしたり、世の潮流から外れたりすることを意味するかもしれません。

 しかし、自分の力や富、人の評価に頼るのではなく、すべてを神様に委ねる「心の貧しさ」を持って歩むとき、私たちはすでに神の国に生きる者とされています。

マタイによる福音

 1・1アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。

 2アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、3ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、4アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、5サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、6エッサイはダビデ王をもうけた。

 ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、7ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、8アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、9ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、10ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、11ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。

 12バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、13ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、14アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、15エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、16ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。

 18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 

 マタイ福音書の冒頭にはマリアの夫ヨセフに至までの系図が延々と書かれています。なじみのない名前が続くのでそこで聖書が嫌になる人もいるのではないでしょうか。

 ダビデ家の子孫として生まれるのですが、このダビデ家の系図には男性だけが記載されるはずですが、タマル、ラハブ、ルツ、ウリアの妻という女性たちが記載されています。この女性たちは異邦人であったり、複雑な背景を持っています。マタイは意図的にこの女性たちを挿入したのではないかと思います。

 罪深い人間の中にイエスは誕生したことになります。

 今日、教会はイエスの母マリアの誕生を祝います。典礼の中で誕生を祝うのはイエス、洗礼者ヨハネ、そしてマリアだけです。

 聖書には聖母マリアの誕生や、その両親の名前などは書かれていません。マリアの偉大さはその出自によるのではなく、天使の言葉をきいて、「お言葉どおりこの身になりますように。」と神の子を宿すことを引き受けたことにあります。

 エリザベトが、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と言うとおりです。

 

 聖マリアの誕生については、女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycle0/festa0908.php