マタイによる福音

 〔そのとき、〕28・8婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。10イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

 11婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。12そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、13言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。14もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」15兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。

 

 安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行くと、大きな地震が起こり、主の天使が天から降り、墓を塞いでいた石をわきへ転がしその上に座りました。

 天使は、婦人たちに「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。」と言い、イエスは死者の中から復活され、弟子たちより先にガリラヤに行き、そこでご自分にあえると弟子たちに告げるよう伝えます。

 今日の福音はその直後の場面です。「イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われた」と新共同訳はなっていますが、佐藤研訳では、「すると見よ、イエスが彼女らを出迎えて言った、『喜びあれ』」となっています。ギリシャ語原文は「カイレテ」で直訳すると「(あなたがたは)喜びなさいと言った」です。

 イエスと遭遇する女性たちや弟子たちの物語は、彼らが復活したイエスを探し当てたのではなく、イエスの方から近づいて、ご自身を示して下さる物語になっています。

 ミサの中でイエスはわたしたちを迎え「喜べ」と声をかけておられます。

 世界中がイエスの喜びに満たされますように。

ヨハネによる福音

 20・1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

 

 イエスの復活はわたしたちの言葉ではとらえることができません。弟子たちは、自分たちの生活の中で復活したイエスが活き活きと働いておられることを体験したのではないでしょうか。

 

第1朗読は使徒言行録のペトロの説教です。

 ペトロは「わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。」と証言します。

イエスの死者の中からの復活という表現は、起こった事態を説明するには十分ではないと思われますが、空前絶後、前代未聞のことが生じた際、それを適切に言い表す言葉がないことも事実です。

 弟子たちは自分たちが裏切り、ローマ軍によって十字架刑に処せられ、墓に葬られたイエスが、自分たちと共にいて食事をしたと証言します。彼らは共にパンを裂き合うとき、イエスが共におられることを実感しました。

 

第2朗読は使徒パウロのコロサイの教会への手紙です。

 パウロは、「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」といいます。昨日洗礼を受けたばかりの人も、わたしたちも、上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしましょう。わたしたちは死んだのであって、わたしたちの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。わたしたちの命であるキリストが現れるとき、わたしたちも、キリストと共に栄光に包まれて現れるのです。

 

福音はヨハネ福音書の空の墓の記事です。

 安息日が明けた最初の日、マグダラのマリアが朝早くイエスの墓を訪ねます。このマグダラのマリアは、「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」(ヨハネ19:25)と書かれている人物です。マグダラのマリアの詳しいプロフィールは分かりませんが、弟子たちが逃げ散った中で、彼女がイエスの母マリアと共に十字架のそばに踏みとどまっているのは、イエスを心の底から愛していたからです。

 

イエスとの出会い

 ヨハネ福音書では、大勢の人がイエスに出会います。弟子たちをはじめ、ニコデモ、井戸の側のサマリアの女、ベトサイダの池にいた病人、生まれながら目の見えない人、マリアとマルタ、マグダラのマリア、ファリサイ派の人々、律法学者、アンナス、カイアファ、ピラトもイエスに出会いました。

 

光と闇のシンボリズム

 ヨハネ福音書では、ひとびとは、イエスに出会って、光の方に来るか、光に背を向けて、闇の中に消えていくか、選択を迫られます。

 

ヨハネ福音書冒頭の序文の一部(1:5)を新共同訳は、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」としていますが、ヨハネ文書の専門家小林稔神父は「その光は闇の中にあって輝いている。闇はこの光を阻止できなかったのである。」としています。

 

どんなに闇が深いものであったとしても、闇は光に勝つことはできないというイメージは復活徹夜祭の光の祭儀を思い起こさせます。

 

 出会いと光と闇という観点からもう一度本日の福音の箇所を読み返しましょう。

 

 「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、」という書き出しに、復活したイエスに出会うまでは、闇が続くことが暗示されています。

 マグダラのマリアはイエスの遺体を処置するために墓に出かけましたが、墓が空になっているのを見つけます。そこで弟子の頭であるペトロのとこに出かけて「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」と報告します。

 彼女は、イエスに敵対する勢力がイエスの遺体をどこかへ持ち去ったと心配したのかも知れません。そこでペトロとイエスの愛されたもう一人の弟子が墓に駆けつけますが、やはり墓の中に遺体はありませんでした。

 しかし、「イエスの愛された弟子」は「見て、信じ」ました。この弟子は、たとえ「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を」理解できなくても、イエスとの深いつながりの中で、イエスが生きておられると信じることができたのです。

 この後、イエスはマグダラのマリアに顕現し、彼女はイエスの復活の最初の証人となります。その八日の後、ユダヤ人を恐れて家に引きこもる十人の弟子の真ん中にイエスが顕現します。そして八日の後、その場にいなかったトマスに顕現して、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とトマスに語ります。

 イエスは復活後八日ごとに弟子たちに顕現します。イエスは現在に至るまで、主日と呼ばれる日曜日の感謝の祭儀ごとに顕現し続けます。

 

 アメリカとイスラエルによるイランへの大規模な軍事攻撃は、2026年2月28日に開始されました。この作戦は、両国が共同でイランの主要施設を標的に実施したものであり、同日にイラン側も反撃に出るなど、中東全域に緊張が拡大しています。

 一方的な武力攻撃、敵対者の暗殺によって自分たちの権益を拡大しようという試みは、闇と死の力をふるうサタンの仕業としか思えません。

 

 平和の君である主が、戦争で傷ついた人々を支え、和解と平和への具体的な歩みを開いてくださるように祈ろうと呼びかける教皇レオ14世と共に祈りましょう。

ヨハネによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕14・7「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 

 告別説教の中で、イエスとトマスとのやり取りの後、イエスとフィリポのやり取りがあります。

 イエスが「あなたがたは、すでに父を見ている」というとフィリッポは「主よ、私たちに御父をお示し下さい」と求めます。

 するとイエスは「わたしを見た者は、父を見たのだ。」と返します。

 エドワード・スキレベークス(Edward Schillebeeckx)の代表作『キリスト、神との出会いの秘跡』(1958年)は、20世紀のキリスト教神学、特にカトリックの秘跡論にとって重要な著作と言われます。

 その著書の中で、スキレベークスは、キリストは「原秘跡」であると言います。

 神は目に見えない存在ですが、イエス・キリストという歴史的な「人間」を通して、神の愛と救いが目に見える形で現れた。したがって、キリスト自身が神と人間が出会うための「根源的な秘跡」であると彼は説きました。

 「わたしを見た者は、父を見たのだ。」というイエスの言葉は「キリストは本性において神である父と同一のもの」と宣言するアタナシオスの信仰告白につながります。

 

聖アタナシオ司教教会博士については女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=050201