ヨハネによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕14・7「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 

 告別説教の中で、イエスとトマスとのやり取りの後、イエスとフィリポのやり取りがあります。

 イエスが「あなたがたは、すでに父を見ている」というとフィリッポは「主よ、私たちに御父をお示し下さい」と求めます。

 するとイエスは「わたしを見た者は、父を見たのだ。」と返します。

 エドワード・スキレベークス(Edward Schillebeeckx)の代表作『キリスト、神との出会いの秘跡』(1958年)は、20世紀のキリスト教神学、特にカトリックの秘跡論にとって重要な著作と言われます。

 その著書の中で、スキレベークスは、キリストは「原秘跡」であると言います。

 神は目に見えない存在ですが、イエス・キリストという歴史的な「人間」を通して、神の愛と救いが目に見える形で現れた。したがって、キリスト自身が神と人間が出会うための「根源的な秘跡」であると彼は説きました。

 「わたしを見た者は、父を見たのだ。」というイエスの言葉は「キリストは本性において神である父と同一のもの」と宣言するアタナシオスの信仰告白につながります。

 

聖アタナシオ司教教会博士については女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=050201

 

マタイによる福音

 28・1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。2すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。5天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」8婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。10イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤヘ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

 

 キリスト教会の一年でもっとも荘厳な祭儀は、復活の聖なる徹夜祭です。カトリックの典礼は「闇から光へ」という象徴的な動きが非常に強調されているのが一つの大きな特徴と言えます。

 

 第1部は光の祭儀、第2部は言葉の典礼、第3部は洗礼と堅信、第4部は感謝の典礼です。死の闇から復活の光が輝き出す典礼は、「闇は光を阻止できなかった。」というヨハネの言葉を思わせます。

 

 一宮教会では今年、お二人の方が洗礼と堅信を受けられます。これまでの生活の中でイエス様と出会い、イエス様と共に歩む決意をした方と共にわたしたちも自分の洗礼の約束を更新します。

 

 第2部の言葉の典礼では、旧約聖書からの朗読が七つ、栄光の賛歌が高らかに歌われ、使徒パウロのローマの信徒への手紙の朗読があります。パウロは「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」と語ります。それはまさに今日洗礼をお受けになる人へのメッセージです。その後イエス・キリストの復活をたたえるアレルヤ唱が歌われ、マタイ福音書が朗読されました。

 

 イエスが十字架につけられて墓に葬られた翌朝、週の初めの日の明け方に二人の婦人が墓を見に行きます。すると大きな地震が起こり、主の天使が墓を蔽っていた石を脇へ転がし、その上に座ります。番兵は恐れのあまり、死人のようになりました。

 すると天使は婦人たちに「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」と言います。二人の婦人が弟子に知らせようと走ると、その前方から彼女たちをイエスが迎え、「おはよう」と挨拶をしました。

 本当にイエスは二人を見て「おはよう」と言ったのだろうかと思い、調べて見ると、ギリシャ語原文は「カイレテ」で「(あなたがたは)喜べ」です。

 彼女たちが喜びにあふれ、イエスの足を抱き、ひれ伏すと、イエスは「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤヘ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」と言いました。

 復活されたイエスは出会うひとごとに「喜べ」と声をかけます。悲惨な現実に打ち砕かれるときでも、それが終わりではないのです。

 

 無防備で攻撃の的となっている人びとに復活のイエスが訪れてくださり、喜びに溢れる日が来るよう共に祈りましょう。

 

ひとこと

 復活は神の出来事であり、その事態を人間の言葉で捉え尽くすことはできません。

イエスが復活されたことにより、わたしたちは神のいのちにつながれて生きるようになりました。

今日、生物学的に生きていたとしても、神とのつながりを欠いているなら、その人は神の前には死んでおり、たとえ臨死の状態にあったとしても、神とのつながりの中で生きるなら、人からは死んだも同然のように見えても、その人は神と共に生きているのだと思います。

 

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハ11:25-26)

 聖金曜日は、主の受難を記念するため感謝の祭儀を行いません。第一朗読、第二朗読に続いて、ヨハネ福音書による主イエス・キリストの受難が朗読劇の形で朗読されました。この説教の後、盛式共同祈願、十字架の礼拝、交わりの儀があり、会衆のための祈願の後、沈黙のうちに解散します。

 

第一朗読は、イザヤの預言の「主のしもべの歌」でした。

 

 「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった」(53:5)。神は、私たちが受けねばならない刑罰を主のしもべに負わせます。「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」と言われるとおりです。

 この「主のしもべ」はイザヤが生きた時代の迫害される預言者、あるいはイスラエル民族のことだったかも知れませんが、イエスの弟子たちは、この歌こそイエスの受難と死を預言したものと受けとめてきました。

 「苦難の主のしもべの歌」は、ウクライナ、ガザ、イランなどで攻撃にさらされ、苦しむ大勢の人々の歌でもあるとわたしは思います。

 

第二朗読はヘブライ人への手紙でした。

 

 「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」と著者は語ります。

 今晩も、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげる大勢の人たちがいます。神が彼らの祈りを聞きいれて下さるよう祈りましょう。

 

福音朗読は、「ヨハネによる主イエス・キリストの受難」でした。

 

 受難の主日同様、朗読劇の形で語られます。イエスを前にした群衆が「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」と叫ぶとき、叫んでいるのはわたし自身でもあると感じます。

 

 イエスは十字架上で母マリアを愛する弟子の母としました。聖母マリアはこの時から、イエスの弟子の母、教会の母としてわたしたちを保護し、取りなす方となりました。

 

 ラテン語の《ホモ・パティエンス》は苦しむひとという意味です。homoは人間、patiorという動詞は受ける、被る、苦しむ、容れるといった意味を持っています。英語のパッション(passion)はこのpatiorという動詞に由来します。

 

 アウシュヴィッツから生還したⅤ・フランクルは、「ホモ・パティエンス」と題した文章(1951年)のなかで、「理性のひと」にたいし「苦しむひと」を対置しています。理性的な判断のひとである前に、苦悩を引き受けるひとであれというのです。

 

 哲学者の鷲田清一さんはⅤ・フランクルの「ホモ・パティエンス」を解説しています。

 

 人間という存在はそのもっとも深いところでは、「受難」(passion)であり、つまりは「苦しむひと」(homo patiens)であるというのだ。生きもの(Lebewesen)とは苦しむもの(Leidewesen)ではなかったかというフランクルの語呂合わせをまねて言えば、生きる(live)ことそのことがしばしば災い(evil)でありうるように、だ。

 

 今年の聖金曜日はフランクルの言葉に強く揺り動かされます。戦争や紛争のために虐殺される人びとと共にイエス様はいてくださると信じています。

 

 今晩、生きることが災いだと感じざるを得ない人びとと心を合わせて祈りましょう。

 

 主よ、どうかわたしたちをあわれんでください。