ルカによる福音

 6・1ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。2ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。3イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。4神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」5そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」

 

 ファリサイ派の人は「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」とイエスに詰問します。

 当時のユダヤ教では、安息日に仕事を一切してはいけないという厳しい規則がありました。イエスの弟子たちが、安息日に麦の穂を摘んで食べたことは仕事にあたるとして律法違反だとファリサイ派の人は迫ったのです。

 イエスの時代、空腹時に他人の畑で麦の穂を摘んで食べることは認められていました。

 イエスは安息日の規定の遵守を縦にとるファリサイ派の人に、「人の子は安息日の主である。」と言います。

 イエスは「安息日は人のために造られたのであり、人が安息日のために造られたのではない」と言い、人を救うこと、愛の業を行うことは安息日であっても許されると示しました。 

ルカによる福音

 〔そのとき、ファリサイ派の人々や律法学者たちは〕5・33イエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」34そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。35しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」36そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。37また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。38新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。39また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

 新しい服を布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てるたとえの意味は、新しい服はイエスがもたらす神の国の福音を指し、古い服は古くからの言い伝えや律法の形式的な運用を指しています。

 イエスの教えは、律法学者やファリサイ派の人々の考えとは全く異なる枠組みです。

 新しいぶどう酒は発酵の勢いがあり、保存のためには柔軟性のある新しい革袋が必要でした。

 イエスは長年染みついた習慣や、これまで安心感を得てきた古いやり方(律法主義や慣習)に慣れ親しんだ人たちにとって、神が新しく始めようとする恵みの業は、受け入れがたく、自分たちのやり方を手放しがたいと言います。

 こうしたことは、今の教会の中でも起こっていることです。

 

ルカによる福音

 〔そのとき、〕5・1イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。2イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。4話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。5シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。6そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。7そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。8これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。9とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。10シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」11そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

 

 シモン・ペトロ、ヤコブ、ヨハネは「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」とルカは言います。しかし彼らは、家族や財産を文字通り捨て去ったのではありません。

 彼らは漁師というそれまでのなりわいを捨て、主に付き従うことを人生の目標に据えたのです。

 アンパンマン・マーチは、「何のために生まれ、何をして生きる」と歌いますが、イエスと出会い、イエスから呼びかけられたとき、彼らは自分が何のために生まれ、どのように生きるのかが分かったのです。

「 わたしたちには、ほかの使徒たちや主の兄弟たち、またケパ(ペトロ)のように、信者である妻を連れて歩く権利がないのだろうか」(1コリ9:5)とパウロが言うように、使徒たちの中には妻を伴って各地を巡り、共に信仰生活・宣教を営んでいた人がいたようです。

 彼女たちは、夫の宣教の歩みを共に支えるパートナーとして同行していた可能性があります。

 聖グレゴリオ一世教皇教会博士については、女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=090301