【英国王室番外編】ウエストミンスター・バグラチオン・ティアラ(カタリーナ・バグラチオン) | Time Tested Beauty Tips * Audrey Hepburn Forever *

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The Westminster Bagration Tiara

ティアラ、ネックレス、イヤリング、櫛 からなるparure。

赤のスピネル尖晶石(spinel)とダイヤモンドの組み合わせはユニークで、ピンクのスピネルも使用されています。

 

ティアラのもともとのオーナーはロシア帝国内・グルジア王族のメンバーの王子ピョートル・バグラチオンの妃、美しいPrincess Catherine Bagrationプリンセス・カタリーナ・バグラチオン(1783年12月7日ー1857年5月21日または6月2日)のために、おそらくFossin(後にショーメになる同じ会社)によって作成されました。

 

ジェラルド・キャベンディッシュ・グローブナー氏

 

バグラチオン・ティアラでは1970年代オークションに提供され、イギリスの最も豊かな貴族であるジェラルド・グローヴナー (第6代ウェストミンスター公爵、1979年までグローヴナー伯爵(Earl Grosvenor)の儀礼称号)が購入し、彼は婚約プレゼントとして婚約者、ナタリア・フィリップスに与えました。1978年に二人が結婚する際に身に着けられました。

 

 

 

カタリーナ・バグラチオン(1783年ー1857年)

Princess Catherine BagrationCatherine Skavronskaya

 

カタリーナ・バグラチオンはエカチェリーナ2世の姪で、美しく、信じられないほど独立的で恋愛関係豊かで、ロシア帝国内、ヨーロッパでも有力な女性となりました。

エカチェリーナ2世(Catherine the Great)やパーヴェル1世の妃マリア・フョードロヴナ(1759年10月25日- 1828年11月5日)により宮廷で養育されのちにマリア皇后の名誉メイドとなりました。結婚後はヨーロッパを旅行して最終的にウィーンに落ち着き反ナポレオンの政治的なサロンを保持、ゲーテと親交を維持し、彼とブルガーコフと文通。

彼女はすべての特使がまとめるよりも政治的な秘密を知っているのを自慢し、彼女の影響力はオーストリア上流社会のもとで広がり、フランス大使館をボイコットするまでになります。ナポレオンが政敵であると気付くまでになりました。

 

 

1800年、17歳のとき、気まぐれなパーヴェル1世(エカチェリーナ2世の息子)はロシア帝国軍人でグルジア・カルトリ王国のプリンス・ピョートル・バグラチオン(35歳)の結婚式に出席すると言い放ちます。 ひそかに愛情を寄せていたピョートルはカタリーナに「でもわたしCount Peter von der Pahlen(1745 –1826)に恋してるんですけど...」と言われ、ショックを受けるも、だれも皇帝と言い合いはしたくなかったので結婚の運びに。

 

軍人Louis Alexandre Andrault de Langéronは「バグラチオンは偉大なプリンス・グリゴリー・ポチョムキンの若い姪と結婚した。この豊かで、輝かしいパートナーは、彼に適さなかった。

バグラチオンが単なる兵士で極めて醜かった。彼の妻はとても白く天使のようであったのに彼は黒かった。夫といるのが幸せではなかったようだ」と語った通り1805年、プリンセス・カタリーナは最終的に夫と離れヨーロッパに旅立ちます。

子供はいなかったためエレガントな車を作らせ、それの室内にはベッドがあり、すべての荷物は外に置かれ「the Wandering Countess放浪伯爵夫人」と呼ばれるようになりました。

 

プリンス・バグラチオンが何度もロシアへ戻るよう多くの手紙を送り、彼女の友人に説得して行かせようとしますが、病気の療養を理由に戻りませんでした。

明白色のモスリンドレスを着ていたそうカタリーナは母から天使のような面を引き継いでおり、アラバスターの白い肌、青色の目、30歳であった時にさえ、まだ15歳の肌を持っているといわれていました。彼女の無限の肉欲のため「白い猫」 「美しい裸の天使」と呼ばれヨーロッパ中で有名になります。

 

妻は病気を偽っていたけれども、ピョートル・バグラチオンは寛大な夫であり続け彼女を守り、遠方にいる彼女のレセプションや衣服のための莫大な支出など請求書を支払い続けました。カタリーナの母に娘のことを諌めると、母も娘の浪費にいらいらし始めました。1808年に、軍隊の功績が戦争において目立っていた妻らに授与され、夫のプライドは傷つけられました。それでもピョートル・バグラチオンは借金を重ねるカタリーナに対して数千ルーブルを支払います 。そのころカタリーナはザクセン人の外交官Friedrich von der Schulenberg

、Prince of Württemberg, Lord Charles Stewart と噂になり、ドイツの詩人ゲーテ(1749年- 1832年)はカールスバートで彼女と会い、彼女の美を賞賛。

 

ベートーヴェンの崇拝者でプロイセン王国の王族・軍人ルイ・フェルディナント・フォン・プロイセンPrince Louis Ferdinand of Prussia (1772-1806)と新しいロマンスをはじめるも、彼は1806年のザールフェルトの戦いでジャン・ランヌ率いる部隊に敗れ戦死。
ウィーンの戻るとオーストリア帝国の政治家クレメンス・フォン・メッテルニヒPrince Klemens von Metternich(、1773年5月15日 - 1859年6月11日)の女主人となり、1810年プリンセス・マリー=クレメンタイン・バグラチオンMarie-Clementine Bagration, Pinzessin(1810-1829)を出産。1814年までメッテルニヒ家とそこに住み続けます。

愛人関係の違法な娘ですが、ロシア・アレクサンドル1世(パーヴェル1世息子)が個人的な関与によって 彼女がロシア帝国合法な娘として認められて、ロシア軍人ピョートル・バグラチオンの娘よびグルジア王室バグラティオニ朝のの公式なメンバーになりました 。プリンセス・マリー=クレメンタイン・バグラチオンは1828年7月Prince Otto von Blome (1795-1884)プリンスオットーと結婚します。

 

クレメンス・フォン・メッテルニヒはオーストリアの外相としてウィーン会議を主宰したほか、のちオーストリア宰相に就任し、ナポレオン戦争後の国際秩序であるウィーン体制を支えます。(フランツ2世の信頼が厚かったメッテルニヒは、1810年にナポレオン1世と皇女マリア・ルイーゼ(マリー・ルイーズ)との結婚の仲介役となるもナポレオンがモスクワ遠征に失敗、さらにライプツィヒの「諸国民戦争」に敗北すると、カタリーナの影響もあり反ナポレオン的な国際秩序の形成に尽力。

また皇帝フランツ1世を介してザーロモン・ロートシルトとその兄弟に男爵位を授与し、ロスチャイルド家を貴族としました。
 

 

 

1815年に、ロシアの軍隊がナポレオンに勝利を迎えて、ウィーン会議が開かれると、常にヨーロッパの政治的な情報をロシア皇帝に供給したカタリーナにアレクサンドル1世は敬意を表します。
同じ年に、彼女はパリに引っ越し、秘密警察は彼女の贅沢な大邸宅を監視の下に送りスパイも送ります、彼女は多くのパリ風の有名人を彼女の親密な友人にしました。

パリの小説家スタンダール、フランスの小説家、思想家、政治家バンジャマン・コンスタン、フランスの外交官キュスティーヌ侯爵アストルフ=ルイ=レオノール、ギリシャ王妃。

フランス国王のシェフかつシェフの帝王といわれたアントナン・カレームをコックにしたことも。

作家バルザックは、ボロボロの衣装でサロンへの頻繁な訪問。La Peau de Chagrin'のヒロインFeodoraのモデルにしました。親友で『レ・ミゼラブル』で著名なヴィクトル・ユーゴーも『レ・ミゼラブル』でサロンに言及。

 

1830年1月18日のパリで、15歳年下の英国の外交官ジョン・ボバート・カラドック卿(2代男爵ホーデン)と結婚。子供を全然持ちませんでした。

彼女は偉大なおじのすばらしい宝石類コレクションの女子相続人であり、それは人生終盤に彼女の財源となりました。

ナポレオン3世が皇后ウジェニー・ド・モンティジョEmpress Eugénieのため購入したアイテムを含む、大変有名な"Potemkin Diamond ポチョムキン・ダイヤモンド",なども売り払いました。

1857年6月11日にベニスへの旅行中亡くなり、サンミシェル墓地に埋葬されました。

 

ウジェニー・ド・モンティジョ

 

皇后ウージェニーのダイヤモンドはもともと大きなブラジル産ダイヤモンド、で約100カラットあり、1760年にブラジルのミナスジェライス州の鉱山から発掘後リスボンに迅速に出荷されました。

 

大きく50カラットに研磨されたダイヤモンドはロシアのエカチェリーナ2世の所有になり、しばし毛装飾品の中心としてそれを法廷に身に着けていました。彼女はそれを恋人グリゴリー・ポチョムキンに与え、しばらく石はポチョムキン・ダイヤモンドとして知られていました。

彼はエカチェリーナ2世の側近として多くの宝石コレクションを取得。それは、1791年の彼の死において彼の姪であるアレクサンドラ・エンゲルハルトCountess Alexandra Branickaに引き継がれ、彼女の死後妹カタリーナ・バグラチオンPrincess Ekaterina Pavlovna Bagrationに引き継がれました。

 

皇后ウージェニーのダイヤモンドは普仏戦争でフランスが敗れ、第二帝政が覆された後、皇后は夫とともにイギリスへと亡命し、ケント州のチズルハースト(Chislehurst)に居住したときに英国に渡り、その後経済的に苦しくなりクリスティーズChistiesにより競売されて西インドのガーイクワード家の当主およびヴァドーダラー藩王国の君主マルハール・ラーオ・ガーイクワードGaekwad of Baroda, India, Malhār Rāoにより購入されました。しばらくの間ガーイクワード家にあったものの、再び売られ現在は私的にロシアにあります。

 

 

1978年に、ウェストミンスター公爵は、ポチョムキン・ダイヤモンドの残りで作られたであろうダイヤモンドとスピネルのティアラとマッチした(イヤリングとネックレスは1870年代にロシアで作成)カタリーナ・バグラチオンに属していたと報告されるの宝石をセットで購入。

ウエストミンスター公爵夫人妻のナターリアは祖先に黒人ロシア貴族と数々のロシア貴族をルーツにしています。

 

 

おば エカチェリーナ1世Catherine I of Russia(Catherine Skavronskaya)。

(1684年4月15日 - 1727年5月17日)

 

ローマ・カトリックでリヴォニア出身の農民のサムイル・スカヴロンスキーSamuel Skowrońskiとエリーザベト・モーリッツElisabeth Moritzの子で生まれたころはマルタ(Marta Helena Skowrońska)というう名だった。

エカチェリーナ1世はロシア皇帝ピョートル1世と結婚し娘エリザヴェータ (ロシア皇帝)を出産。

 

 

カタリーナの父

Count Pavel Martinovich Skavronsky(1757-1793)

姉妹はエカチェリーナ1世。王室の侍従でナポリ全権大使。

 

カタリーナの母(1761–1829)

Katharina Vassiliewna Engelhardt (Yekaterinavon Englehardt)

 

エカチェリーナ2世の愛人でエカチェリーナの生涯唯一の真実の夫と言うべき男性であったロシア帝国の軍人グリゴリー・ポチョムキンのお気に入りの姪。

エカチェリーナ寵愛の女官、1777年、エカチェリーナ2世と愛人グリゴリー・オルロフの間にアレクセイ・グリゴリエヴィチ・ボーブリンスキーが生まれた(ロシア貴族の始祖)ころに女官になりました。叔父グレゴリーと恋人関係にあったとスキャンダルになったこともありますが、1779年叔父が姉Alexandra Branitskayaと噂になったころに関係を終わらせたとか。

 

叔母アレクサンドラ・エンゲルハルトAlexandra Branitskaya

ロシア貴族von Engelhardt出身。フランチシェク・クサヴェリ・ブラニツキ伯爵と結婚。

 

二人の姉妹はエカチェリーナ2世の寵愛の女官で、ロシア宮廷で臨むポジションを与えられ「ほぼ大公妃」、「宮廷の宝石、および帝国のファミリーの名誉のメンバー」と評されたそう。

 

 

夫 ピョートル・バグラチオン(1765年7月10日 - 1812年9月12日)

 

カタリーナ・バグラチオンはナポレオン戦争(ロシア遠征)時にロシア帝国の将軍としてロシア第2軍を率いたピョートル・バグラチオンと結婚します。

彼はグルジアのカルトリ王国バグラティオニ朝の後裔にあたり(曾祖父はカルトリ国王イェッセ

1801年、グルジア王国はパーヴェル1世が保護領カルトリ・カヘティのロシアへの併合に調印し、アレクサンドル1世が実施する形でロシア帝国に編入されるも、グルジア王族は称号の保持を許され、ロシア帝国内でグルジア王室として存続。現在ムフラニ家はグルジア王室の第2王統のダヴィッド・バグラチオン・ムフラニ(1976年6月24日 - )が王位請求者となっています。

 

プリンス・バグラチオンは、高齢になってもナポレオンとの戦争で戦い続け1812年8月26日のボロディノの戦いでは足で致命傷を負い、壊疽を起こし、9月16日亡くなります。亡くなる前に2つの肖像に委任します。一方は自分に、もう一方は妻に。

 

アレクサンドル1世の妹エカテリーナ・パヴロヴナ大公女(1788年 - 1819年、ロシア皇帝パーヴェル1世と皇后マリア・フョードロヴナの四女)はプリンス・バグラチオンに情熱的に恋心を抱いており、ナポレオンがプロポーズしても断わるほどだったそう。

しかし妻を愛し崇拝していたため大公女の気持ちを断り、大公女はすぐに1816年、母方の従兄のヴュルテンベルク王太子ヴィルヘルム(同年に王位を継ぐ)と再婚。

大公女の結婚を妥協する手紙はピョートル・バグラチオンの真実の愛情を示す長円形のカタリーナの細密画とともに彼の書類の間で発見されました。

 

 

 

 

 

おそらく7代ウエストミンスター公爵の夫人が身に着けることになります。

 

 

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