ロシア皇帝ピョートル1世に寵愛されたアブラム・ガンニバル(1696年 - 1781年5月14日)。黒人奴隷からエリート軍人でのちにロシア貴族・小説家となった人物。
ガンニバルの子孫が、現代のイギリス貴族にいます。
例えば、アナスタシア・トービー( 準男爵ハロルド・ワーナー夫人)、第6代ウェストミンスター公爵夫人ナターリアNatalia Grosvenor, Duchess of Westminster、その息子の7代ウエストミンスター公爵ヒュー・グローヴナーとその姉妹、ナタ―リアの姉妹第5代アバコーン公爵の夫人アレグザンドラ Alexandra Hamilton, Duchess of Abercorn。
ナデジダ・マウントバッテンの孫4代ミルフォード=ヘイヴン侯ジョージ・マウントバッテン(女王のいとこ、フィリップ殿下のいとこのはとこ)など。
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1978年に陸軍軍人ハロルド・フィリップ中佐と妻ジョージア(Lady Kennard)の娘ナタリア(1959-)
一滴でもアフリカ系の血を引く祖先を持てば黒人だと認定するアフリカ系アメリカ人のワンドロップルールを適用すると、ここに写っている公爵夫人・子供たちはみな黒人になりますね。英国の話ですから別?
★1代目
アブラム・ガンニバルAbram Petrovich Gannibal(1696年 - 1781年5月14日)の肖像画
アブラム・ガンニバル黒人奴隷からエリート軍人でロシア貴族・小説家となった人物で二度目の妻でスカンディナヴィアとドイツの貴族の血を引くクリスティナとの間に10人の子供が生まれました。
エチオピアで生まれ、7歳の時(1703年頃)、敵の部族にコンスタンティノープルにいるオスマン帝国のスルタンの元へ連れて行かれ奴隷市場で売買されます。ガンニバルの姉レバンは同時期に身柄を拘束されるも、旅の途中で亡くなります。
1704年、ピョートル1世の命令で(作家レフ・トルストイの曾祖父)ピョートル・アンドレーエヴィチ・トルストイが指示し、ロシア大使サヴァ・ラクジンスキーの代理人によってガンニバルはコンスタンティノープルから連れ去られます。
連れてこられた子供たちの中、ガンニバルはだけが黒人の子供でした。(ほかの子供たちはアラブ人で当時アラブは野蛮だという考えがあったとか。ヨーロッパ王家の宮廷で黒人の子供は珍重されました。)
なぜこのようなことをしたのかというと皇帝ピョートル1世は子供たちを、ロシア貴族の子供と同様に芸術や科学を良くすることを証明し、肌の色ではなく能力で認められるよう、見せたかったとされます。
1705年にピョートル1世が彼の名付け親となり(ハンニバルのロシア語読み)洗礼を受け1717年にはガンニバルは芸術・科学・軍事の教育を続けるべくパリへ連れて行かれ、彼は流暢に数カ国語を話し、数学と幾何学をマスター、帰国後は400冊の本を所有し、大知識人となっていました。フランス時代にはルイ15世の軍に加わり、フェリペ5世軍と戦ったりもします。1741年、ピョートル1世の娘エリザヴェータが即位すると、彼は女帝の宮廷で揺るぎない存在となり、少将の地位を与えられ、タリンの総督となりました。
★2代後(息子の世代)
長男イワン・ガンニバル
ガンニバルの長男イワンは海軍士官となり、1779年にウクライナのヘルソンを創建、帝政ロシアでの2番目の高位軍人となりました。ガンニバルの息子オシップ(Osip)が英国貴族につながる祖先となります。
★3代後(孫)
孫娘ナデシダ・ガンニバル(1775-1836)、
ガンニバルの息子オシップ(オシプ)が設けた娘ナデシダ・ガンニバルNadezhda・Gannibal(ナデシダ・プーシキナNadezhda Osipovna Pushkina)は由緒ある家柄のロシアの地主貴族ワシーリーと結婚しました。'la belle Creole'で知られています。
夫は詩人で、プーシキン家は作家で歴史家のニコライ・カラムジンなど、当時の代表的文化人と親交があり息子アレクサンドルにも影響を与えました。
★4代後(ひ孫)
アレクサンドル・プーシキン(1799年6月6日- 1837年2月10日)
彼は、由緒ある家柄のロシアの地主貴族である父方の600年に渡る祖先については35行で書いた一方、アブラム・ガンニバルだけで20行の詩を捧げているほど黒人の曾祖父を敬愛し、1827年からアブラムを主人公とした小説『ピョートル大帝の黒人(奴隷)』を執筆しました。
1811年に、サンクトペテルブルク郊外のツァールスコエ・セローに開設された、貴族の子弟のためのリツェイに第一期生として入学。21歳で発表した初の詩集によって文学界の寵児になり、農奴制を批判した『村』など、政治色の強い詩を書き、作品の発表を禁止されたり、政府の監視で活動を押さえつけられたり、田舎に追放となるも、孤独な生活のなかで、バイロン、シェイクスピアなどのヨーロッパ文学を学び、乳母が聞かせてくれたロシア民話に触れ感性を伸ばし「大尉の娘」や「スペードの女王」など多くの作品の幾つかは、チャイコフスキーやラフマニノフ などロシア・ソ連の作曲家たちによってオペラ化されています。
1830年、父から結婚祝いに贈られたニジェゴロド県ボルジノ村に出向いた際に、コレラ流行のため足止めを食ったのを幸い、執筆に専念し韻文小説『エフゲニー・オネーギン』の大部分、短編小説集『ベールキン物語』など代表作を生み出します。
ハンサムでモテる男性だったそうですが(そのせいかそのためか)、その肌の色ゆえにさげすまれることがあったとか。ハチャメチャでたらめな恋を繰り広げ彼は数多くの 決闘を勝ち抜いてきました。結婚すると人が変わったように13歳年下のナターリアのを愛します。
ナターリアに言い寄ってきたフランスからやってきたジョルジュ・ダンテスと決闘して殺されます。(ダンテスはナタ―リアに言い寄り、1837年にナターリアの姉エカテリーナと結婚するも、その後もナターリアに言い寄り続け業を煮やしたプーシキンは決闘を申し込みました。)
女性の貞操がテーマになっている作品『エヴゲニー・オネーギン』という作品を書いていました。不羈奔放の生き方を好み、他人の心を弄ぶ悪癖の為に、大切な友を決闘で、心の奥では本当は愛していた女性を失ってしまった男の愚かさ...まるでそれに模したような人生の閉じ方でした。
妻ナターリア・ゴンチャロワ(1812年- 1863年)
1831年、アレクサンドル・プーシキンは美貌でモスクワ中に知られていたナターリア・ゴンチャロワ(ナターリア・プーシキナ)と結婚。
父はカルーガ出身の製紙業者の末裔で、母ナターリア・ザグリャスカヤはモスクワ貴族。彼女の目を引く容姿は、スウェーデン貴族の血を引く父方の祖母から遺伝したのだといわれていたそうです。家柄こそ貴族であるものの、家は零落し金策に追われていました。
プーシキンはナタ―リアの美しさに「神が作りたまいし理想の具象だ」と心を奪われます。彼女は現実的な女性で18歳で結婚。夫はそれまでの噂が嘘のように彼女を愛して、守り、限りなく優しくて寛大な夫になったとか。
プーシキンとナターリアの間には、1832年長女マリア・Maria,、1833年に長男アレクサンドル Alexander、1835年に次男グリゴリーGrigory、1836年に次女ナターリア Natalia(メレンベルク伯爵夫人 ナッサウ=ヴァイルブルク家へ嫁ぐ、孫はゾフィー・フォン・メーレンベルク)が生まれました。
アレクサンドル・プーシキン夫妻は低位の階級を与えられ帝室への出入りを許されるも、プーシキンは名うての美人で、密かに慕う者が多かったと言われる妻ナターリアを帝室に出入りさせるためのものとして屈辱と受け取りました。
プーシキンの進歩思想を嫌った宮廷貴族達は、フランス人の美貌の青年将校ジョルジュ・ダンテスをたきつけ、ナターリアに言い寄らせます。ナタ―リアは美しい彼になんら特別な感情を抱かず、ダンテスも宮廷一の美女だがフランス女性のようなウィットもない田舎者と感じていましたが、ツレない彼女に恋の成就を迫りにいきます。結果夫は決闘で亡くなることに。
マリア・アルトゥングMaria Hartung(1832- )
貴族で小説家プーシキンの娘で1832年、サンクトペテルブルク生まれ、その美しい容姿がトルストイの小説『アンナ・カレーニナ』のモデルになったといわれます。
自宅で9年教育を受けドイツ語とフランス語は流ちょうに話せ、大学を卒業し、宮廷に仕え、28歳の時に2歳年下のアルトゥングと結婚しますが、夫は窃盗の濡れ衣を着せられて「自分を疑った人を許す」、という遺書を残しピストル自殺。
マリアは「彼は許しても私は決して許さない」と言ったそうで夫に死なれた後は孤児の支援をしました。
★5代後
ナタリア・プーシキナ(Natalya Alexandrovna Pushkina)
マリアの妹、初代メーレンベルク伯爵となったニコラウスと結婚します。
ニコラウスはナッサウ公ヴィルヘルムとヴュルテンベルク王フリードリヒ1世の孫パウリーネの息子でした。
1868年6月1日、スイスジュネーヴで娘ゾフィーが誕生します。
★6代後
ゾフィー・フォン・メーレンベルクSophie von Merenberg (1868年6月1日 - 1927年9月14日)
ゾフィーは、ロシア大公ミハイル・ミハイロヴィチ(ニコライ1世の四男ミハイル・ニコラエヴィチ大公の次男でロシア皇帝アレクサンドル3世のいとこ)と結婚するも貴賤結婚のため、ロシア大公妃の称号は与えられず、父方の伯父ルクセンブルク大公アドルフより授与された「トービー伯爵夫人」の称号を名乗りました。
父方の叔母にスウェーデン王オスカル2世妃ゾフィア、父方の従姉妹にオランダ王ウィレム3世妃エンマ、オールバニー公レオポルド夫人ヘレナらがいます。
トービー伯爵夫人ゾフィーは3人の子女を設けます。
★7代目【英国貴族の子女】
①ミハイル トービー伯爵
②アナスタシア 準男爵ハロルド・ワーナー夫人(1892年 - 1977年)(愛称ジーア)
③ナデジダ ミルフォード=ヘイヴン侯爵ジョージ夫人
詳しく説明すると、
★7代後
②アナスタシア (プーシキンの曾孫、3代後)
ロシア系イギリス貴族として イギリス準男爵ハロルド・ワーナーと結婚、1男2女をもうけます。
★8代後【子女】
・ジョージ・ワーナー(1918年 - 1942年)第2次世界大戦中死去
・ジョージアナ・ワーナー(1919年 - 2011年)1978年に陸軍軍人ハロルド・フィリップ中佐と結婚、ナタリアを設ける。
・マイラ・ワーナー(1925年 - )
★9代後【現英国貴族の孫娘】ジョージアナの子女
①英国貴族第5代アバコーン公爵の夫人アレグザンドラ(1946年 - )
Alexandra Hamilton, Duchess of Abercorn
②第6代ウェストミンスター公爵の夫人ナターリア(1959年 - )
Natalia Grosvenor, Duchess of Westminster
★プチーシキンから10代後
息子は第7代公爵となった25歳のヒュー・グローヴナー
(アレクサンドラ&ナタ―リアの従姉妹で第17代ダルハウジー伯爵の夫人マラリーン(1950年 - )もいます)
★7代後
③ナデジダ ミルフォード=ヘイヴン侯爵ジョージ夫人(プーシキンの曾孫、3代後)
ナデジダ・マウントバッテン (ミルフォード=ヘイヴン侯爵夫人)Nadejda Mountbatten, Marchioness of Milford Haven(1896年3月28日- 1963年1月22日)
1916年11月15日にロンドンにおいて、ドイツ系貴族のバッテンベルク公ルイス・アレグザンダーの長男ジョージ(のちのミルフォードヘイブン公爵、フィリップ殿下の叔父)と結婚。義弟ルイス・マウントバッテン卿の妻エドウィナとは非常に仲の良い親友でした。
★8代後【英国貴族の子女】
・タティアナ・マウントバッテン(1917年 - 1988年)、
・第3代ミルフォード=ヘイヴン侯爵 デイヴィッド・マウントバッテン(1919年 - 1970年)
★9代後【英国貴族の子孫】
・第4代ミルフォード= ヘイヴン侯爵
George Mountbatten, 4th Marquess of Milford Haven (born 6 June 1961)
・イヴァール・マウントバッテン閣下
Lord Ivar Mountbatten (born 9 March 1963)
フィリップ殿下の叔父の子孫にも。
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