【フランス王室】ルイ17世 ルイ・シャルル王子 ~200年の時を経て~ | Time Tested Beauty Tips * Audrey Hepburn Forever *

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フランス革命で最も悲劇的な結末を迎えた王子...フランス・ルイ16世とマリー・アントワネットの息子ルイ・シャルル王子(ルイ17世

ルイ17世 ルイ・シャルル王子
ルイ・シャルル王子(1785年3月27日 - 1795年6月8日)



心臓が本物か偽物か...実は幽閉されていなかったと論争がある方でした。


ルイ17世はフィリップ・ジャン・ペルタン医師によって解剖され、心臓を秘密裏に持ち出して保存していた医師は1825年 5月にパリのド・ケラン大司教にそれを託し、1826年 9月にペルタン医師が亡くなると、クリスタル容器に入った心臓は大司教の図書室に隠されました。


忘れられた後に19世紀になってルイ17世の遺骨が調査された時、死亡時期は10歳2か月と言われていましたが、栄養状態の悪い状況下ながら10歳ながら162センチの柩におさめられており、2年で50㎝近い異常な成長をしていた(15歳の平均身長で10歳の平均よりも40cm以上長い) ということもあり、替え玉説が出たといいます。

それによってルイ・シャルル王子は1795年に幽閉中に結核で死亡したとも、逃亡したとも言われ、生存伝説がある中、直系子孫を自称する人物が19世紀を中心に100人以上も現われたそうです。


2000年のDNA鑑定の結果によってタンプル塔で死んだ少年はアントワネットの母マリア・テレジアの子孫 (アンナ) と同じ型のミトコンドリアDNAを持ち、本物のルイ17世と考えて矛盾はなかったそう。
(マリー・アントワネットのみ1塩基の相違があったが、上記の理由で一致していると見なせる)。


2004年6月8日にルイ・シャルル王子の心臓は、209年をかけてパリ郊外のサン・ドニ大聖堂 (フランス王家の墓所) の地下室に安置されました。マリー・アントワネットの実家であるハプスブルク家は(フランスへの抗議?)か出席はしませんでしたが、ブルボン家の主たる廷臣貴族、ロシアからはロマノフ家の当主が出席しました。


Time Tested Beauty Tips * Audrey Hepburn Forever *-マリー・アントワネット

(母マリー・アントワネット)




【以下、残酷という歴史の事実を記した表現が多々あります。

 これでもマイルドに書きましたが、

 心が弱っているときや苦手な方はここでお戻りください。】



“自由・平等・人権”を振りかざす革命派によって、それらをすべて奪われ、極度の状況下、10歳で成人男性に匹敵するような驚異的な脳の発達をしていたというルイ・シャルル王子(1785年3月27日 - 1795年6月8日)。


母と叔母の死を知ることはなかった短い生涯。

独房の壁には「Maman, je ママ、ぼくあのね…」という書きかけの言葉と花の絵が残され、幽閉の状況がよくなり塔の屋上に散歩に出た際に見つけた花を花好きの母のためにと摘み取り、もうそこにはいない母の幽閉されていた部屋の前にそっと置いていたそうです。



...生涯を振り返ります。




名門ブルボン家とハプスブルグ家の血を引き、母似のブルーの瞳に赤みのかかったブロンドの巻き毛に整った愛らしい顔立ちのルイ・シャルル王子が4歳のころ、王位継承者だった兄ルイ・ジョセフが7歳で病没。ルイ・シャルルは王太子となりますが、この直後、1789年7月14日にフランス革命が勃発。


10月5日にヴェルサイユ行進が起こると、国王一家はパリのテュイルリー宮殿へ移され軟禁状態となりますが、馬車の窓から顔を出し群衆に「ママを許してあげて!」と叫び続ける優しい心の持ち主でした。

2年後1791年8月13日にタンプル塔に家族と共に幽閉されるも、父からラテン語、フランス文学、歴史、地理を教わり、叔母エリザベート王女からは姉マリー・テレーズとともに数学を学びました。



1793年1月21日、8歳の時に父ルイ16世の刑が執行され、マリー・アントワネットはシャルルの前に跪いて「国王崩御、国王万歳」とルイ17世の誕生を祝福。王党派 叔父プロヴァンス伯(ルイ16世の弟、王政復古後のルイ18世)ら反革命派によって、フランスの新国王とされ、ルイ17世と呼ばれました。

名目上のフランス国王(在位:1793年1月21日 – 1795年6月8日)とみなされ、シャルル本人はそれを知ることはありませんでした。


1793年、母から引き離され王室を汚い言葉で罵る新聞を発行するジャック・ルネ・エベールから後見人兼教育係として命令を受けた文盲の靴屋アントワーヌ・シモンの元で過ごすことになります。喪服を脱がされ、革命党員の制服を着用させられ、酒・暴力による虐待と王室をののしる言葉や歌を覚え込ませられます。


父の処刑から9ヵ月後、母マリー・アントワネットが処刑され、幼いルイ17世は光も風も通さない8畳ほどの独房に移されます。室内用便器はなく部屋の床で用を足すことになり、タンプル塔で働く者はこの部屋の清掃と室内の換気は禁止され、ネズミや排泄物にまみれた不潔な部屋で慢性的な下痢になり、骨格異常くる病となり歩けなくなります。

誰とも話さず、独房からも出られず、孤独な日々に耐え、1日に1度の生存確認の際は暴言を吐かれ、この1食の食事にも次第に手をつけなくなってしまいます。違う階に幽閉されていた姉マリー・テレーズは何度も弟の面倒を見させて欲しいと懇願していました。



ロベスピエールが処刑されると生活に変化が起こります。



1794年9月、8ヶ月ぶりに独房の掃除が行われたとき、マリー・テレーズは蚤にまみれた弟のベットを処分させ自分が使用していたベッドをルイ17世に使用させるように依頼しました。

悪臭にまみれたその部屋で、立つこともできなくなったルイ17世は栄養失調と病気のため灰色がかった肌色をし、こけた顔にぎょろりと大きくなった目、頭と首には大きな腫れ物ができ、肩も曲がり、手首と膝には青くて黄色い腫瘍ができていて、爪は異常に伸びきって、脚は異様に長く、そして激痛を訴えていました。診察した医師は驚きを隠せず放置の犠牲者、残忍な仕打ちと、医師は所見を書きましたが手遅れの状態でした。


11月8日、国民公会はルイ17世の世話をジャン・バティスト・ゴマンに命じます。ゴマンはルイ17世の衰弱した姿に驚き、国民公会の再視察を依頼。ルイ17世はゴマンの親切な対応に驚きながら徐々に彼らになつくも会話もままなりません。

フランス国内の空気も変化し、革命派によって幼い王子が囚人以上のひどい扱いを受けていることが公となり、スペイン王室は、ルイ17世の引き渡しを条件にフランス共和国を認めると、1795年の早い時期に申し出るも、フランス側は要求を拒否。



優しく接する医師の治療が始まって3週間。5月29日医師とその助手が謎の死を遂げます。代わりにフィリップ・ジャン・ペルタン医師が向かうと、ルイ17世の容態も思わしくなく、全身かさぶたと腫瘍に覆われ、顔と両足はやせ衰え、腹部は腫れて慢性な下痢に苦しむシャルルに驚きます。6月6日医師の命令によってやっと独房のかんぬきや板切れなどが取り除かれ、1年半ぶりに光のある部屋にシャルルは身を置きます。

6月7日、施しようのない衰弱と失神、深夜には容態が急変。8日、脈が弱くなり、腹部も膨張しているシャルルに、医師は付き添い看護師を要請します。しかし放置され3時頃に呼吸困難に陥り、看守が慌てて抱き上げると、長い長いため息をつき、命の火を静かに消しました。



ルイ・シャルル、フランス王ルイ17世 10歳2か月でした。



フィリップ・ジャン・ペルタン医師は検視も行い、酷く痛めつけられた身体以外にも、「素晴らしく発達した脳を見たのは初めてだ。博識な男性を思われるほど完成度が高く発達している」と残しています。

彼はハンカチにルイ17世の心臓を包み、コートのポケットに入れて持ち出し、自宅において、蒸留したワインのアルコールを塗られて書棚に隠しました。

このルイ17世と思われる遺体の心臓とマリー・アントワネットの遺髪のDNA鑑定が2000年になされ、マリー・アントワネットの兄弟姉妹やいとこ、現在のハプスブルク=ロートリンゲン家の人物との比較で鑑定は行われ、王子本人と認められやっと両親が眠るサン・ドニ大聖堂 に入ることができました。


母マリー・アントワネットの遺体もすぐに埋葬されず、マドレーヌ墓地に半月近く放置された状態だったともいわれています。


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歴史を読むと複雑な思いに何度もぶつかります。どんな出来事も長いスパンで見れば何らかの意味を持っていると感じるようなまるで仕組まれたようなパズルがあったり、時期が違えばあり得ないと感じることが当たり前であったり...。知らなければわからないことがあるという「単純な気づき」を教えてもらったり。


どの時代にも善悪の存在は必要で、純粋に美しいもの、根から醜いものもある。過去に未来はないと考える人もいますが、人間がいかに理不尽で愚かなことを繰り返しているのか、その世界で多くの人類の財産と呼べるものが残されていて...個人的には本当に学ぶことが多いと感じます。

自分中心の「正しい」の基準を持ちながらも必ず双方の意見を見れる目を持たなければ♥


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