1965年6月18日フランス グルッセー城(Château de Groussay)で行われたダンスにファビオラ王妃と共に出席したベルギー王室 パオラ妃。髪には前回ご紹介したネックレスを活用したティアラ。
(L-R) Queen Paola of Belgium and Queen Fabiola of Belgium
Charles de Beistegui lors du bal qu'il a offert dans son chateau de Groussay ici avec la Princesse Paola le 18 juin 1965
1815年に建設が始まり1823年に完成したグルッセー城(Château de Groussay)。
ここにはイギリスから戻ってきたアングレーム公爵夫人マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス(フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの長女。)が1832年から住んだこともあります。
Paola de Belgique lors du bal du Chateau de Groussay le 18 juin 1965
違う時期に同じドレスで。ティアラなしでジュエリーはパールのピアスのみ。美が引き立ちます。
エリザベート妃とパオラ妃
マリー・アントワネットは生涯に4人の子供を産みました。
マリー・テレーズ
ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワ
ルイ・シャルル(ルイ17世)
マリー・ソフィー・ベアトリス
革命を生き抜き成人したのは長女マリー・テレーズのみ。フランス革命が起こった時、マリー・テレーズは10歳ごろで解放されたのは16歳でした。すこし振り返ります。
(処刑場へ向かうマリー・アントワネット)
1778年に生まれ、1792年14歳の時に両親ルイ16世、マリー・アントワネット、叔母エリザベート王女が革命政府によりギロチン で処刑され、弟ルイ・シャルル とも引き離され、2年近く1人で幽閉生活を送ったマリー・テレーズ。
誰とも話すことなく2年幽閉され過ごした彼女はめったに笑わない神経質な少女となり、発声に異常をきたし一生治ることはありませんでした。
死の間際の父から「憎しみを捨てるように」と諭されていましたが、ルイ・フィリップとナポレオンへの憎しみはいつまでも呪縛のように彼女についてまわりました...。
オーストリアの捕虜として捕らえられていたフランス要人数人と引き換えに、解放されいとこのフランツ2世が治める神聖ローマ帝国のウィーン(※マリー・アントワネットの実家オーストリア・ハプスブルク家)へと向かった彼女。居心地の悪いウィーンで仲の良かったのがフランツ・カール・ヨーゼフ大公の妃ゾフィーでした。
(のちに皇帝フェルディナント1世が退位し、ゾフィーの長男フランツ・ヨーゼフ1世に皇位が回ります。フランツ・ヨーゼフ1世のお妃は、絶世の美女として名高いエリザベト)
1799年21歳の春、叔父ルイ18世 夫妻の亡命地ロシア領ミタウ城に到着し、ルイ16世の処刑に立ち会ったエッジワース神父と対面。
マリー・テレーズは同年6月10日 、アングレーム公ルイ・アントワーヌと結婚。外見へのコンプレックスがあり、人見知りがあるものの勇気と思いやりがあり、信仰深く、戦いの合間に負傷兵を見舞う優しい相手でした。結婚祝いとしてルイ18世は、ルイ16世夫妻の結婚指輪をマリー・テレーズの手のひらに載せ、新郎新婦は抱き合って泣きました。
1805年 4月、フランス亡命宮廷は再びミタウに戻り、ナポレオン軍によるプロイセンとロシアの攻撃が始まります。間もなくロシア帝国がナポレオン軍に敗北すること、ヨーロッパ大陸にブルボン家の安住地はなく、スウェーデン国王グスタフ4世 が避難場所を用意することを知らせがありました。グスタフ4世が用意したフリゲート艦トロイア号でルイ18世とアングレーム公はストックホルムへ旅立ち、その後イギリスへ向かいます。
イギリス国王ジョージ3世 は、スコットランド・エディンバラでの下船許可を出しましたが、バッキンガム侯爵が仲介し、ロンドン北東部のゴスフィールド・フォールがフランス亡命宮廷の定住地となり、1808年 8月、マリー・テレーズとルイ18世の妃マリー・ジョゼフィーヌが後を追うように夫たちの元へ。
イギリスの人々もフランス亡命宮廷に優しく接してくれマリー・テレーズは1813年 1月、結婚13年目にして懐妊するも妊娠がかなり進んだ時期に流産。1814年、ナポレオンがロシア遠征で敗れたことを機会に、イギリスを後に。マリー・テレーズは、ナポレオン時代に貴族となった新興貴族には決して気を許さず、洗礼名で名前を呼び彼らを怒らせました。
1805年に遺体が発見されていた両親とは別に弟の生存を確かめるべく、1814年弟の牢番アントワーヌ・シモン未亡人を非公式に訪れ、翌1815年 1月27日 ルイ・シャルルの検死を行ったフィリップ・ジャン・ペルタン医師と会います。医師はルイ・シャルルの心臓を切り取った経緯を話し、その入れ物を渡したいと伝えます。ただ手渡すことに失敗し、1825年 5月にパリのド・ケラン大司教にそれを託され、1826年 9月にペルタン医師が亡くなると、クリスタル容器に入った心臓は大司教の図書室に隠されました。
1824年 、ルイ18世が病死し義父アルトワ伯が国王シャルル10世 となり、マリー・テレーズは王太子妃となります。いまだ政敵から狙われていたマリー・テレーズですが、慕う人も多かった彼女。王太子妃の身分となっても45人の使用人しか雇わず、質素と倹約を貫きました。
1830年 、7月革命でまたシャルル10世一家は長い亡命生活を送ることとなり、パリでの暴動の後、マリー・テレーズはヴィルヌーヴ・レタンの屋敷を売却。シャルル10世一家は8月3日 にパリを出発し、16日にイギリスへ渡ります。フランス新政府とイギリスの関係が改善されると状況は一変し、シャルル10世はオーストリア皇帝 フランツ1世(かつての神聖ローマ皇帝フランツ2世)を頼りプラハへ。プラハではフラドシン城 を用意してもらい、シャルル10世らとヴェルサイユの伝統的儀礼を復活させ生活しました。
彼女はここで刺繍をして静かに過ごし、刺繍をオークションに出し収益は恵まれない者に寄付。1836年 にオーストリアの都合で城を転々とし、義父シャルル10世を1836年に、夫アングレーム公を1844年に看取った後、今度はウィーン郊外のフロースドルフ城へ転居。1851年 10月19日、肺炎のため死亡。アングレーム公とは愛し合っていましたが、子供が出来ませんでした。ルイ16世とマリー・アントワネットの血筋は途絶えることに...。
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弟(ルイ17世とも)をご紹介する記事を3年前!に切ない思いをはせながら書いていたのにご紹介するのを忘れていたのを思い出しました。近いうちにご紹介します。
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