世の中には程度の差こそあれ人を利用する人が存在する。

意識的であれ無意識的であれあったとしても被害に遭わされた人はたまらない。

俺自身、そのような相手の意志に気付いてしまったときに、それに対して自分の許せる範囲内において付き合う。

気付いていてても相手の思うようにしてあげる場面がある。

ただ、余り良い気分ではない。

そもそもが相手の思い通りにする必要がないからだ。

相手に対して何かして欲しかったり、お願いしたければ素直に正直に自分の想いを伝えればいいだけの話しだからだ。


そして、大概そういうタイプの人間に限って起こるのが自分の思い通りに行かないと不満になりイライラしたり、周りに対して不機嫌になったり、当たり散らす。

恐らく本人がどう言うことをしているのか気付いてなく自覚がない部分もあるのだろう。

基本的にこのような人間に限って、甘えがあり、周りに幸せにして貰おうと考えていている。

性格的には素直でなく、プライド高く、自己主張や表現が苦手であり、わがまま、自己中心的、打算的、人を信用出来ないので疑い深い、相手よりも優位に立っていたい、ケチ、自己否定されるのを恐れている、極度の寂しがり、権威主義的、好き嫌いが激しい、臆病者で常に不安感を伴っている、いざとなれば平気で人を傷つける冷たさを持っている、このようなことが当てはまる様に思う。

結局、人を信用しないにも関わらず、けれども自分を信用して欲しいのである。(根底には人を信用したい願望があるから)

その欲求はどこから来るのかというと、それは孤独への恐怖からである。

けれども、自分の要求を正直に相手に伝えられない。

それは何故か?

拒否されるのが怖いからである。

拒否が孤独へと向かわせる。

だから人を利用するのである。

利用することによって、自分にかまってもらえると言うような一方的な安心感を得ている。


そして、恐ろしいことにこのようなタイプの人間は非常に人に対して観察力がある。

と言うのも、自分が生きていくためには利用出来る人間を探さねばならないからだ。

見つけるや否や、寄生虫の如く取り付き、しおれるまでエネルギーを吸い尽くす。

もう摂取するエネルギーが無くなれば様無しで、違うエネルギーを求める。

利用出来る人間=優しい、甘えられる、許してくれる、認めてくれる人間

としてしか考えてない。

又、周りも自分と同じように考えていると思っており、利用されるのを恐れ、そのために利用しているとも言える。

これは、自分に対する客観性に欠ける点と、相手の気持ちを汲み取る力の欠如によるものでもある。

けれども、本人達には悪気がないのである。

『自分がこんなに苦しんでいるのだからしようがない。きっと許してくれるだろう。』

と言う具合になる。

自分の中では、どこまで気付いているかは別として、実際はそれ程追い込まれている。

自分がとにかく可愛くてしようがないのである。

しかし、本人の中では葛藤があり極端なほどの矛盾も生じ、実際はコンプレックスの塊である。

本人の心の奥底には良心があり、無意識には自分の悪行に罪悪感としてしっかりと心に残っている。


このような人間は感情などを誤魔化し自己正当化してしまう傾向がある。

結果、いつまでたっても悪のスパイラルから抜け出せないでいるのである。

私が言いたいのは、そのような人達にどれ程の人が犠牲を負っているかという事である。

まず、自分の甘えを素直に認め、自分を許してあげることを願う。

本当は知っているはずである。

自分が一番辛いと言うことを。



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どの様な時に恐怖を感じるだろうか?
これは人様々だろうけど、人間である以上そう個人差は無い。

突き詰めていけば似たり寄ったりである。

自分が何故その時恐怖を感じたのかと疑問に思ったりすることも余り考えたりもしない

そもそもそれが自然なものだと思っているから。

かと言って、その感情は不快なものであって本来あまり感じたくないものである。

何故そのような感情を感じさせる必要性があるのか。

これは単純に、今の自分にとっての都合により捉え方が変わる。

それは、快・不快である。

自分の中にある受信機が瞬時に判断しているのである。

又それは何故判断が下されるのかというと、自己防衛反応が働くからである。


ただ、それは生命の存続に繋がるものとなる。

本来人間は保守的な生き物なのだと思う。

不快を突き詰めていくと、それは無知に当たる。

では何故、無知が恐怖なのか?
それは分からないことだからである。

恐怖とは人間の決して体験することの出来ない、そしてわかり得ないもの、つまり死に直結するものだと考えられる。

極端な話し、命に関わる事態に陥った場合

危険を避けることが生命を存続させるか?

戦いを挑んで勝った上で生命を存続させるか?

危険を避けられず生命を途絶えるか。

戦いを挑んで負けて生命を途絶えるか。

このことから言えることは、どちらにしろ挑戦だと言うこと。

決断を下さなければいけないという事。

避けることに偏見が世の中にはあるが一つの選択肢と言う事実に過ぎない。

戦って勝って生き残ったから素晴らしいわけでもなく、逃げて生き残ったから素晴らしいわけでもない。

その過程にいおいてあなたがどう考えどう感じたかという事が最も重要なことなのだ。

極端だが、生きるか死ぬかは結果に過ぎない

勿論本来、生命に関わる争い・戦争は在ってはならないという前提での話しである。

しかし、この世に起きた事、又起き得ることは全く起きないとは言えない。

そもそもが生き続けていることが当たり前じゃない。

しかし、生き続けられることが当たり前になりつつある現代で、

逆に何故生き続けられているか考えたことがあるだろうか?

よく考えれば大体の人は分かるはずである。

本来、生と死は紙一重。

だから、人は恐怖を感じる。

それが人間の潜在意識にあり、本能である。


改めて恐怖とは何だろうか。

恐らく人間には死の恐怖が心の底にあり、その死こそが恐怖へと繋がるものになる。




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その先に突き進み続ける事に躊躇いがあったのは間違いなかった。

しかし、あの時の俺にはその道しか見えていなかったのかもしれない。

その中でも、何となく踏み込んでは行けないのだと感じていたのだと思う。

ただ今となっては、何故踏み入れたか自分の中ではっきりと説明が付く。

そこを目指すのには理由が在り、目的が在り、何か特別な事さえ得られると思っていた。

最初から分かりきっている物事でもいいが、俺には物足りなさを感じる性なのだと思う。

何かとてつもない事を体験し感じ取りたかった。いわゆる怖いもの見たさみたいなものが無意識レベルで駆り立てたのだと思う。

その先には、何かとんでもない事が待ち受けているのは間違いないと思っていた。

俺は次第にその先の光景をイメージするようになり、きっとそのイメージ通りの光景を目の当たりにするのだと確信するようにさえなっていた。

俺が作り上げたイメージはやがて自分の中で絶対的なものとなっていた。

今思い返すと、何かにとりつかれているようであったことを思い出す。

あの時までは、あそこまで俺を突き動かす原動力は何であったかは分からなかった。



やがて事を終えた日、俺は安心し一気に気が抜けた。

その晩、周りも静かになった頃、俺は自然と今まで自分のやってきたことを想い返していた。

そして、道の果てに到達し、そこから眺める景色を目にする。

そして思った。

自分で期待していたものはいったい何だったんだろうかと思う。

そこで得ようとした物は全くなく、感じるであろうはずの達成感すら無い。

そこには何も無かった。何も見えなかった。

そして、何より自分がいないことに気付いたのであった。



今まで、自分と言う存在を自分が認めていなかったのだ。

そう考え始めると次第に自分の中で変な現象が徐々に起き出した。

あの感覚は今でも忘れない。

最終的には灰の様な状態であった。

そして、そこには一切の感情は無かった。

完全なる抜け殻である。

俺が俺でないような感覚を味わうと共に、抜け殻から出た俺は何も無い灰色の空間に吸い込まれるように同化した。

その空間はものすごく静かな場所であった。そして何も感じることの出来ない感じがしたのであった。

そしてその空間は何も意味を持たない空間であった。

その間、しばらく放心状態に近かったのだと思う。

何か言葉では顕せないような現象が頭の中で起きていた。

それからの俺はそのような体験後から一種のトラウマ地味たものを一年以上引きずっていた気がする。

世間一般に「うつ」と言う物が存在するが、それに近い物が自分にもその時くらいに患っていたかもしれない。

もう二年前の話しだから今振り返ると何となくそうなんじゃないかと思うことが分かる。

これは俺自身が求めていたことなのだと。

俺は今までの自分という存在に終止符を打ったのだと思う。



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