クマによる被害、市街への出没が、日本全国でほぼ毎日のように報道されていますね。
その分布図を見ると、九州、沖縄と、千葉や一部の四国の県を除く、ほぼ全ての県で出没していますが、不思議ですね、まるで示し合わせたかのように一斉に出没しているのにも関わらず、このことについて、「不思議ですね。」と言っているコメンテーターをテレビで見たことがありません。
まるで全国のクマがテレパシーで連絡を取り合っていて、どこかに中央司令部があって、
「さあ!出動せよ!」
と言っているかのようです。
ですが、それは実際にそうなのです。でなければ、一体どうしてこのタイミングで全国規模で一斉に出没することが可能なのでしょうか。
それこそ、ユングの言う、集合無意識、つまり、個々の生命、この場合で言えば、個々のクマは、肉体的にはバラバラに見えるが、無意識の領域ではひとつに繋がっている、ということ、今回のこのクマの現象は、このことの証明です。
「青い鳥」の作者、メーテルリンクの「蜜蜂の生活」については以前、当ブログでも書きましたが、彼は蜜蜂の詳細な調査、研究によって、そのことを明確に描いています。
蜜蜂の統率の取れた動きは、ひとつの大きな生命が統率し、個々各々の蜜蜂はそれに従って働いている、そのように考えなければ到底理解不可能であるほど、見事なひとつの働きをしていることがよく分ります。クマも同様で、クマにはクマの、個々の個別性を超えた、大きなひとつの生命によって生き、動いているのです。
こちらのブログでは主に哲学とスピリチュアルのことを書いているので、音楽のことは書かないのだけれど、「宇宙」のワードが出て来たので、こちらにも書いてみる。
こないだの関ジャム改め、EIGHT JAMで、まもなく新作が出るユーミンが出演するというので観た。
実はユーミン・ファンを自称してはいるものの、29作目の「スユワの波」(1997年発売)を最後にユーミンは不発続き…、ミュージシャンとして、コンポーザーとしてのユーミンはもう死んだかと思っていたが、それでもアルバム中に1曲は良い曲があったので聴き続けたけれども、それすらも無くなって来た、それでもファンのしがない惰性で聴いて来たけれども、とうとう前作の2020年発売の「深海の街」(39作目)は今に至るまでとうとう聴いていない…。
そして、今回の「Wormhole」。そして、名義は、何と、「荒井由実」。
アルバム「Voyager」しかり、「宇宙図書館」しかり、また曲単位で言えば、「朝陽の中で微笑んで」、「青い船で」等、宇宙という舞台での人間存在とその儚(はかな)さ、私とあなたの出会いと別れ…、永遠と一瞬、と言ったスケールの大きな曲が多く、それは他のアーティストには見られないユーミンの特性のひとつであると思うのだけれど(またそこが私がユーミンを好きな理由のひとつなのだけれども)、今回は「ワームホール」という物理学の概念をアルバム・タイトルに持って来た。
簡単に言うと、ワームホールとは、宇宙空間のある二つの点と点を結むトンネルのようなもので、アインシュタインも、その仮説のひとつのモデルを考えた。直訳すれば、「虫の穴」、つまり、"宇宙の虫食い穴"ってことですね。
一説には、UFOは、このワームホールを通って、何億光年の距離を一瞬にして移動可能にするため、遠い銀河の彼方の星からでも一瞬で地球に来れるのだと言う話もあります。(でなければ、光を超える超高速だって隣の銀河から私たちの銀河まで数千年も数万年もかかるので、だからUFOなんて仮に居たとしても地球に来るはずが無い、来れない、と主張する科学者もいるわけ。)
で、この「ワームホール」、まだあんまり普及していない言葉なので、この言葉をアルバム・タイトルにすることに一瞬迷ったとユーミン本人は言っているが、私はもう十分に市民権を得ていると思っているのだけれど、どうですか?私がSF好き、物理学好きだからなのかな?
ちなみに、「リインカーネーション」のときも少し、どうかな?と思ったらしい。輪廻転生のことだけど、これはそんなに普及はしてなく、「輪廻転生」は「輪廻転生」ですね。
あと、「宇宙図書館」は、「アカシックレコード」で良かったのにね。こちらの方が普及している気がする。(でもないか?)
そして、ユーミンは、「今回は私の最高傑作」と豪語しているのだけれど、前々作の「宇宙図書館」でも同じようなことを言っていて、「このアルバムは多分、後世語り継がれるような傑作になると思う。」と言っていて、聴いてがっかりしたので、またか、と思ったけれども、この番組の中で、おそらく全曲に近い曲が、少しずつ断片的に流されたのだけれど、どれも、この10作くらいずっと無かった、まさにユーミン節が蘇っていて、どれもが良くて、これは今回は本当に奇跡的にユーミンが復活したかも知れないと期待しています。
なお、アルバム・ジャケットの「Y」は、もちろん、「Yuming」の「Y」を型取っているのだけれど、無限を表すメビウスの輪にもなっていますね。ユーミンは無限が好きだからな。そう言えば、「無限の中の一度」という曲もあったな。
ユーミンの世界観の基本的なところに、無限の中の一瞬を生きる私、人間存在も無限の中の一瞬…と言った視点がある。常にそれがバックボーンにあるんだと思う。
シンクロニシティは何故、また、どのようなメカニズムによって起こるのでしょうか。不思議ですね。
心理学者のユングが提唱した概念、とても偶然とは思えないような偶然の一致、「共時性」と訳されたりもしますが。
過去に一度、連日のようにシンクロニシティが頻繁に起こった時期があり、その頃は、私にとって大きな内面的転換期で、ちょっとした神秘体験や内面の開けがあった時期だったので、自分の内面に大きな変化が起きたときに起こるのがシンクロニシティだと思っていました。
ところで、今回は2回目の頻繁なシンクロニシティで、その回数も期間も半端でないのです。
今年の2月10日に、東京での会社を退職し、生まれ故郷の長野に帰ろうと決めたんですね。で、その翌日からそれは起こりました。記録をつけているのですが、2月は28日までなので、18日間で8回、その後は、3月に18回、あとは、4月に13回、5月は引っ越しでバタバタしていて、テレビやネットをあまり見れなかったので情報量が少ないために6回でしたが、あとは順次、毎月、15回、27回、27回、22回、27回という頻度。27回というとほぼ毎日ですね。これは驚異的です。
どのようなシンクロかと言うと、ほとんどが、PCやスマホで文字を打っていると、今打ったまさにその言葉を、テレビやラジオなどで誰かが言う、と言ったもので、ほとんど、宇宙におちょくられてるような気になりますよ。
例えば、「善は急げだね。」と書いた瞬間、テレビで「善は急げ。」とか、「ネパール」と打った瞬間「ネパール」、「退職金」と打った瞬間「退職金。」、「海鮮丼」と打った瞬間「海鮮丼」…と言った具合ですが、これは、まさにその文字を打った直後であって、決して、2秒後や5秒後ではなく、必ず全てその直後なんです。絶妙なタイミングなのです。
すごかったのが、台所で水を出し過ぎて水しぶきを浴びた瞬間、テレビで「水しぶきを浴びる。」(笑)
メールで「コツが掴めない。」と打った瞬間、テレビで「コツを掴んだ」。
メールで「そのエネルギーはどこから来るんだろうね。」と書いた直後に、テレビで「エネルギーは霊から。」。(これに到っては完全に問答になってる。)
ベランダに置いてある青いスーツケースを見た直後、テレビで同じような青いスーツケースが映ってる。
などなどです。
もうそろそろ終わるんじゃないかな、と思ってましたが、まだ続いてます。もう8ヶ月半ですか。さすがに死ぬまで続くことはないとは思いますが…。(それもあり得るのだろうか?)
最初は、何故これが起こっているのかということを考え、
「退職と帰郷を決断したことは正しいよ。」
という天からのメッセージだろうと理解したんですよね。でもそれは、ある時点で、「うん、もう分かったよ。これで正しかったんだね。」と天に伝え、それでそろそろ終わるだろうと思っていたのです。ところがこれが終わらない。
そして、このシンクロニシティは一体どういうメカニズムによって起こっているんだろう?と考えたのです。
それを起しているのは誰なのか?天なのか。天とは、宇宙あるいは神と言い換えても良いのですが。
テレビでそれを言う時間が既に決まっていて、それに合わせて私が文字を打つのか。
それとも、私がその文字を打った瞬間に、世界の方がそれに合わせて、それを言うのか。
しかしある時、「待てよ、これは自分が起こしているのではないか?」と思ったんですね。
その考えに到ると、「私は今、夢を見ているのではないか?」と思ったのです。
だとすれば、夢の中でなら、完璧なタイミングでシンクロニシティが続けて起こっても何の不思議も無い。何故なら、人生は私が創造しているのだから。どちらがどちらに合わせる、といったことも全く必要無い。私と世界は、別々の二つの側面なのではなく、世界は私の創造、私の内にある。
だとすると、もうそろそろ自分が夢を見ているということに気付きなさい、というメッセージなのだろうか?と思って来るのです。
人生はもしかしたら私の見る夢なのではないか?という疑問はこれまでに何度も思ったことなのですが、そのたびに、「いや、まさかね~。」と疑っていたのですよね。
もし私が今、夢を見ているのなら、かつて事故にでも合い、植物人間になって病院のベッドの上で長い長い長い夢を見続けているのか?
ドラえもんの主人公、のび太くんが、実は交通事故に合い、病院のベッドの上で「ドラえもん」という夢を見ているのだ、という都市伝説をかつて聞いたときのショックは半端では無かったですが、そのとき私は何故あんなにもショックを受けたのだろう。
(あ、今、テレビで、「夢を見る」と言いました。笑)
そろそろ夢から目覚める時なのでしょうか。
そして、夢から醒めたそこに、真実の世界が待っているのでしょうか。
最近よく観ているあるユーチューバーさんが、古事記を勉強すると良いとおっしゃっていたので、古事記の入門書を取り寄せて読み始めた。
なるほど面白い。
が、しかし、その始まりは、神々がこの地に降り立って大和の国をお創りになる物語なので、「それ以前」つまり、宇宙の創成の物語は無い。
既に宇宙は存在し、地球も存在しているところからのスタートなのだ。
その点、旧約聖書の方は、神が「光あれ!」と命じて、光を創ったところから始まっているので、その点では聖書の方が優れていると言える。
しかし、それも、神が物質世界、あるいは、物理次元を創造するところからのスタートなのであって、既にそこに神が存在している。それ以前がそこには無い。
私が知りたいのは、神が何故、あるいは、どのようにして存在したのかである。
この点について、例えば、ダンテス・ダイジは、
「神もまた、世界の流出源に過ぎない。」
と、言い切ってくれている。
これは、西洋、あるいは、キリスト教には無い発想だろう。
あるいは、異端としてキリスト教会から追放された、マイスター・エックハルトの「無」は、そこに到っていたかも知れない。
トマス・アクィナスが、ある夜のミサの最中に見たという、「大変なものを見てしまった。それに比べたら、これまで私が書いて来たものなど、がらくたの山に過ぎない。」と言って、「神学大全」の続きの執筆を放り投げてしまったときに見たものが、それであったかも知れない。
また、哲学者の池田晶子が、
「移り変わるものどもには興味が無い。私が欲するのは永遠に変わらぬ、不変のものである。」
と言って、求め続けた「無」がそれかも知れない。
国際的に著名なヨガの先生、本山博先生は、稲盛和夫さんとの対談の中で、こうおっしゃっている。
「ところが、無に達すれば、創造神のことも説明できます。宇宙を創造されたのかもしれませんが、創造神といえども一つの働きですから、必ず滅びる存在です。そうして最後に残るのは絶対の無です。われわれは『絶対』を表現することはできません。不生不滅、すなわち生まれることも滅びることもないというように表現するわけです。これは龍樹が初めて表現しました。(中略)宇宙であろうと自然であろうと人間であろうと、創造神によって創られたすべての存在は、無の中に浮かんでいる泡(あぶく)のようなものです。いつか必ず滅びるのです。」(「人間の本質 生きる意味を知る」PHP研究所刊)
「宇宙であろうと自然であろうと人間であろうと神であろうと」ですね。
私もまた「無」こそ知りたい。
それを知るのでなければ、根本的に、何も分かったことにはならない。
光を知らずに、その影の世界だけを知ったようなものである。
それは、プラトンが、この世界はイデアの影のようなものであり、イデアこそが真の実在の世界である、と言ったときに、この世界を知り尽くしたと豪語する学者の愚かさのようなものである。
今年の5月に、長く務めた仕事を辞め、東京から、生まれ故郷の長野に帰って来た。
四方、山々の田舎生活が始まった。
東京生活があまりにも長かったので、まるで嘘のよう、夢のようである。
実際、これは夢なのではないかと度々思う。
朝、目が醒めると、そこは相も変わらぬ東京の部屋で、この3ヶ月近く、長野に帰って来たという夢を見ていて、現実はたったの一晩しか経っていなかった!…なんてことになるのではないか、という気さえする。現実感が無いのだ。夢のようなのだ。
不思議なことだが、夢の世界と現実の世界とでは、時間の経過の感覚が違う。
現実はたったの一晩しか過ぎていなくても、夢の中では何ヶ月も過ぎている、ということがある。
これはあの話に似ている。
臨死体験をした人が、何日間も霊界をさまよったが、肉体に帰ってみると、たったの数時間しか経っていなかった…、という良く聞くあの体験ですね。
これは、浦島太郎のおとぎ話同様、時間の流れはひとつではないということは相対性理論においても証明されている話。
楽しい時の時間はあっという間だが、やりたくない仕事をやっているときの時間は、まるで5分が30分くらいのように長い、という誰もが経験しているあの体験、これもまた同じで、時間は客観的に流れている同一のひとつの時間なのではなくて、意識がその現実を体験している主観の中で流れているだけだ、ということですね。それはただの錯覚ではないのです。
ところで、それを言うなら、私は、生まれてこの方、体験しているこの人生の全てが実は夢なのではないか、つまり、私が、ある日この世に生まれ、この方ずっとこの現実を生きているというひとつの長い長い夢を見ているのではないか?と考えることも出来るのだ。
或る日ふと目が醒めると、この人生は、一晩に見ていた長い長い夢だった…、と。
その時、私はどんな人で、どんな人格で、どんな顔をし、どんな惑星に住んでいるのだろうか?
隣りでは、愛する人が、「おはよう。」と言ってくれるのだろうか。
そもそも私は人なのだろうか?
フィリップ・K・ディックの読み過ぎですか?
庭が雑草ばかりで淋しいので、アザレア(西洋ツツジ)の植木を買って来ましたが、この猛暑で水が足りなかったのか、枯れてしまいました。残念。
ところで、「庭が淋しい」というのは面白い表現ですよね。日本語の独自性を感じる表現です。
淋しいのは、そう思う私が淋しいのであって、庭が淋しがっているのではない。(笑)
欧米圏の人が聞いたら、「ニワガサミシイ?what!?」と言うでしょうね。
彼らに説明するとしたら、
「庭が殺風景で、それを淋しいと私が感じている。」それを、「庭が淋しい」と日本人は言います、と説明しますが、それが何故、「庭が淋しい」となるのかが彼らには理解出来ないでしょうね。
これは、日本人の認識に、主観と客観、言い換えれば、私と世界が、西洋人のように明確に分離が無く、主客が未分化であると言うことが出来ると思います。
これは、西洋人から見ると、日本人は自我が未発達であるために、自分と世界、または自分と他者が明確に分離出来ていない、と見るかも知れませんが、必ずしもそうは言えません。
日本最高の哲学者、西田幾多郎の主著、「善の研究」の中で、主観と客観があって世界なのではない、主客は元々ひとつなのであって、そこから主観と客観に分かたれるのである、と言っていて、これは読んだ当時は、あまりにも常識的感覚と離れていて、理解し難かったです。観念論もはなはだしいと…。
しかし、仏教や禅、ヨガを学ぶと、これは西洋の主客二元論の方が、常識に近い、浅い認識だと分って来ます。あるいは、主客の分離を、ア・プリオリ(無前提)に前提してしまっていると感じます。
もっとも、西田幾多郎は、常に、座禅を通して禅の世界を体験しつつ、それと並行して哲学的思索があったので、言うなれば、西田哲学は、禅の世界の論理的思弁の世界だとも言えるのですが。そこが西田哲学のすごいところなんですけどね。
遅ればせながら、ChatGPTをインストールし、やってみました。
で、さっそく最初に質問したのは、
「明日は来ますか?」
でした。(笑)
これで分かった人は映画通、何それ?と思った人はフツーの人です。(笑)
「ミッションインポシブル」シリーズの最新作「デッドレコニング part1」の中で、世界を支配しようとたくらんでいるAIが、トム・クルーズ演じるイーサン・ハントとその仲間に謎を仕掛け、答えられなければ時限爆弾が起動する、という危機一髪のシーンで、このような謎を吹っ掛けられます、
「近づくが永遠に辿り着かないものは?」
と。
イーサンたちが答えられないでいると、後に仲間になることになる女スリ師が言います、
「明日よ。」
というわけで、これについてChatAIは何と答えるか、「明日は永遠に来ません。」と正しく答えるかを試してみたのです。(笑)
この問いは本当に面白い。
ちなみに来た答えは、
「詩的な質問ですね。
地球が回り続ける限り、明日は来ます。」
という、当たり前な答えだった。(笑)
明日は、あと半日、あと1時間、あと1分…、と近づいては来るが、いざその瞬間になると、明日は24時間後にピューツ!と遠ざかって、肝心の明日は永遠にやって来ない。あるのは今日だけ。
だが、昨日も、記憶と記録媒体の中だけであって、もはや今日において、昨日は無い。
それなら、今日だけではなく、1分後も1分前も同じなのであって、存在するのは常に「今」だけだということになる。過去は記憶、未来は想像なのである。そして、ただ全てのものが変化し続けているだけで、それを昔の人は、「諸行無常」と言った。
続いて、次の質問、
「無とは何ですか?」
これについては、「何も無い」という普通の意味と、哲学的な意味、仏教的な意味、禅で言う意味、が解説され、最後に、まとめが書かれていた。
次の質問、
「あなたは神ですか?」
これについては、「いいえ、私は神ではありません。何でも知っているので私を神だと思う人がいますが、私は過去の膨大なデータから適切な答えを見つけて答えているに過ぎません。」
当たり前過ぎてつまらない。
続いて、「神についてもっとやり取りを続けることが可能ですが、いかがいたしますか?」と聞かれたけれどもやめた。
で、使ってみた感想は…、
結局のところ、辞書やwikipediaに書かれていることと変わらないことが返って来るだけで、AIでなければ答えないような、思ってもいなかったような虚を付く返事は返って来ないということが分かった。
ただ、こちらの質問の仕方を工夫すれば、人間の頭脳では到底考え着かないような奇抜な答えを引き出すことも可能かも知れないと思った。
つまり、AIの技量が問題なのではなくて、対話を面白くするのはこちらの技量だということですね。
まあ、それは、人間相手の対話だって同じことですけどね。(笑)
風呂場に、ハエに似た、でもハエとはちょっと違う、羽の生えた虫が居着くようになりまして、困ってます。
殺生はしたくないのでそのままにしておくと、翌日の夜も全く同じ場所に止まっていました。
24時間も全く微動だにせずにそこにとどまっているのです!
そして、思いました、彼らはきっと存在しているだけで満たされているのだと。
一方、人間は、とにかく何かをしていなければ生きていけない存在です。
何もせずにただ同じ場所に1時間座っていなさいと言われても退屈で苦痛…。
とにかく何かをすることでその退屈さから逃れたい。気を紛らわせたい。
気を紛らわせたいということを逆から言えば、ただ存在しているということが堪えがたい苦痛なのである。
存在しているということが苦痛なのである。
そして、至福というものは、何かをやったことの引き換えとしてしか得られないものなのだ。
それを得るために、人は、スポーツや競技で世界一を目指したり、趣味に打ち込んだり、がむしゃらに働いてお金を貯めたりするのだ。
つまり、何か努力をしなければ、至福を得られないのが人間存在なのだ。
ところが、私が知っている、ある覚者…と言っても、普段は普通の主婦なのだけど、くぅ。さんという方がいて、「私は何もしなくても毎日が至福だ。」と言っている。
その後で、それが人間の本来の在り方なのだが、それが失われているから、人は何かをすることで至福を得ようとするのだ、ということを言っていた気がするが、もしかしたら、それは別の人が言っていたか、あるいは私自身が思った事だったかも知れない。
だがもしそうだとすれば、いつも至福でないのは人間だけで、他の生物や植物、そして鉱物も、存在するありとあらゆる者が、至福の中にいるのかも知れないな。
そう考えると、人間だけが、何か特殊な存在なのかも知れない。不幸な存在。
そしてまたもしかしたら、獄中にいる受刑者の中にこそ、何もすることが無いゆえに、全てを奪われているがゆえに、至福の中にいる者もいるのかも知れないですね。これは私たちの価値観が180度反転するアイロニーですね。
GWなので夜更かしをしてテレビを観るとも無く観ていると、深夜のドラマをやっていた。
主人公の女性(上白石萌音)が母に電話している。
「あ、お母さん、私、穴に入ることにした。あっちの世界はどうなんだろうね、寒いのかな。」
みたいなことを言っているところで終わっちゃった。
なんだこれ、穴?何?面白そう~。「滅相も無い」というタイトルです。
ということで検索してみると…
或る日、日本の各地8カ所に、突如としてビルほどある巨大な穴が現れた。自衛隊が入って行くが、何故か戻って来ない。だが、命綱が動いているので生存していることは間違い無い。しかし、帰って来ないということはよほど良い世界なのに違い無い。ということで、穴の向こうの世界へ行こうという者が現れ始める…というSFもの。
私の大好きなやつだ。世にも奇妙な物語でありそうなやつですね。
やがて、穴の向こうに行きましょう、という宗教団体みたいなのが現れて、これから行くと宣言した人から、これまでの自分の人生を語り、それを記録に残して、穴の中に入って行く…。
Tverで過去の放送が観れるが、初回と第3回だけで、第2回が無くて残念!
だけど、毎回一人の人のこれまでの人生の回想シーンなので、各回が独立しているので、初回を押さえておけば、あとは全く問題は無い。
その前日、たまたま新海誠監督の「すずめの戸締り」を観たばかりだったので、異世界への扉というテーマではシンクロしましたが、あっちはいわばパンドラの箱への扉的な、開けてはいけない扉だったので、こっちのはどうやら邪悪な世界への扉ではなさそうなんですが、なんか怪しいですよね。
こっちの世界で幸せになれない人が別の世界へ行ったら幸せになれるかも知れないなんて、そんな調子の良い話があるわけないじゃないか、何か落とし穴があるのに決まってる、っていうのがだいたい良くあるオチですよね。
面白いドラマや映画を観ると、原作者や脚本家を調べるのが常なんですが、加藤拓也さんという方らしい。写真を見るとまだ若そうです。要チェックです。
しかし、「滅相も無い」のタイトルで、このストーリーだとは絶対に思わないよなぁ~。
先日テレビ放映されたアニメ「かがみの孤城」を観ました。
ストーリーを簡単に言うと、それぞれに学校や家庭でイジメや暴力に合い、登校拒否や引きこもりをしている中学生の子供たち7人が、ある日、鏡をすり抜けて、島の上に建つ孤城へと来てしまう、というお話。
これはちょっとなかなか難しいアニメではないかな。特に、小学生くらいの子供には理解出来ないのではないかと思うけど、大人でも「?」だった人もいるんじゃないかな。
ネタバレになってしまうので、以下、ご注意。
観ていない人には意味が分からないと思うので、まずは観てみてください、絶対に観て後悔の無いアニメですから、と言っておきます。
まず、時間についての概念。
時間が過去から未来へと流れているもの、という前提と、そして、私たち一人一人が同じ「今」を生きているという概念を外さないと訳が分らなくなる物語ですね。
さて、物語の主人公である7人の少年少女たちは、1985年から2027年までの、それぞれ7年の間隔を経て集められた子供たちである。
したがって、彼らが鏡を通って、それぞれの現実へと戻ったときは、それぞれの時代へと戻っているが、この孤城に来たときは、共通の「今」を共有している。
7人の子供の中に、一人、お姉さんを病気で亡くした男の子がいます。物語のラストで、この子が、この孤城の世界の意味に気付く。そして言う。
「最初は、死んだ姉ちゃんがオレに会いに来てくれたのかな、と思ったけど、ようやく気付いた。姉ちゃんは、あの病室からここへ来てる、って。今も、たった今の姉ちゃんも、6歳の俺と一緒に病室の中なんだろ。このドールハウスの中で、姉ちゃん俺たちと、一緒に過ごしていたんだね。」
つまり、この孤城は、病室で横になっているこのお姉ちゃんの意識世界であると言える。
だから、この孤城における「今」は、西暦何年ですか?と問えば、それは、このお姉ちゃんが亡くなる最期の1年間における「今」である、と言える。
で、それぞれの時間軸を生きている7人の子供たちが、このお姉ちゃんの意識世界へと引っ張り込まれてるのだと言える。
そういう意味では、「今」というものは無いのと同時に、全ての人それぞれの意識世界の中での「今」はある、それ以外に、万人が共有している、ひとつの「今」というものは無いのだ、と言える。
孤城の世界は、お姉ちゃんが生きていた最期の1年である、という意味では、これは過去の出来事なんだけれども、それを「過去」と認識するのは、既にお姉ちゃんを亡くした弟の少年の意識世界にとっての「過去」であるだけであり、そのお姉ちゃんと孤城でのみんなにとっては、それはまさに「今」であるのですね。
途中で、ある男の子が、「そうか分かった、これはパラレル・ワールドなんだ!」と言います。
と言うのは、現実世界に戻って学校で会おうよ、という話になって、みんなが学校に行ってみたときに、それぞれが自分だけが学校に行って、他のみんなは来なかったから。
それで、これは、並行する別々の宇宙なんだ、と理解した。
これは間違いではあったのですが、では、何故、そのような勘違いが生じたかと言うと、人はみな、同じひとつの「今」を生きているという大前提があるからなのですね。それぞれが別々の時代を生きているという発想がそれそも無いところで、そのような理解が生まれるのはむしろ当たり前だと言えます。
というわけで、この物語は、時間についてのこれまでの常識的な固定概念を崩さないと理解出来ないということになりますね。
あと、この孤城で過ごした1年間の記憶は、お姉ちゃんが亡くなる3月30日をもって全て消されてしまうというところは、「時をかける少女」の、あの古典的定番ですね。
この孤城での1年間の体験を通して、それぞれの子供たちの孤独が癒され、友情が芽生え、気付きもあり、強くもなり、現実に戻った彼らが、孤城での全ての記憶を無くしたけれども、もう現実から逃げることは無く、しっかり生きて行くというところも
この手のSFものの定番ですが、それが無ければ、このような世界を作ったことのお姉ちゃんにとっての意味が無いので、これは、お姉ちゃんの救済物語。
余命1年のお姉ちゃんが、弟くんを含む7人の子供の心を救った、そのことによって、自身の生きた意味と証しを得たという、計8人の魂を救った救済の物語。
素晴らしいアニメでした。拍手。
P.S.原作を書いた辻村深月さんという作家さんにも興味を持ちました♪