アトレーユのブログ

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■哲学 思想 詩■

GWなので夜更かしをしてテレビを観るとも無く観ていると、深夜のドラマをやっていた。

 

主人公の女性(上白石萌音)が母に電話している。

 

「あ、お母さん、私、穴に入ることにした。あっちの世界はどうなんだろうね、寒いのかな。」

 

みたいなことを言っているところで終わっちゃった。

 

なんだこれ、穴?何?面白そう~。「滅相も無い」というタイトルです。

 

ということで検索してみると…

 

或る日、日本の各地8カ所に、突如としてビルほどある巨大な穴が現れた。自衛隊が入って行くが、何故か戻って来ない。だが、命綱が動いているので生存していることは間違い無い。しかし、帰って来ないということはよほど良い世界なのに違い無い。ということで、穴の向こうの世界へ行こうという者が現れ始める…というSFもの。

 

私の大好きなやつだ。世にも奇妙な物語でありそうなやつですね。

 

やがて、穴の向こうに行きましょう、という宗教団体みたいなのが現れて、これから行くと宣言した人から、これまでの自分の人生を語り、それを記録に残して、穴の中に入って行く…。

 

Tverで過去の放送が観れるが、初回と第3回だけで、第2回が無くて残念!

 

だけど、毎回一人の人のこれまでの人生の回想シーンなので、各回が独立しているので、初回を押さえておけば、あとは全く問題は無い。

 

その前日、たまたま新海誠監督の「すずめの戸締り」を観たばかりだったので、異世界への扉というテーマではシンクロしましたが、あっちはいわばパンドラの箱への扉的な、開けてはいけない扉だったので、こっちのはどうやら邪悪な世界への扉ではなさそうなんですが、なんか怪しいですよね。

 

こっちの世界で幸せになれない人が別の世界へ行ったら幸せになれるかも知れないなんて、そんな調子の良い話があるわけないじゃないか、何か落とし穴があるのに決まってる、っていうのがだいたい良くあるオチですよね。

 

面白いドラマや映画を観ると、原作者や脚本家を調べるのが常なんですが、加藤拓也さんという方らしい。写真を見るとまだ若そうです。要チェックです。

 

しかし、「滅相も無い」のタイトルで、このストーリーだとは絶対に思わないよなぁ~。

先日テレビ放映されたアニメ「かがみの孤城」を観ました。

ストーリーを簡単に言うと、それぞれに学校や家庭でイジメや暴力に合い、登校拒否や引きこもりをしている中学生の子供たち7人が、ある日、鏡をすり抜けて、島の上に建つ孤城へと来てしまう、というお話。

これはちょっとなかなか難しいアニメではないかな。特に、小学生くらいの子供には理解出来ないのではないかと思うけど、大人でも「?」だった人もいるんじゃないかな。

ネタバレになってしまうので、以下、ご注意。

観ていない人には意味が分からないと思うので、まずは観てみてください、絶対に観て後悔の無いアニメですから、と言っておきます。

まず、時間についての概念。

時間が過去から未来へと流れているもの、という前提と、そして、私たち一人一人が同じ「今」を生きているという概念を外さないと訳が分らなくなる物語ですね。

さて、物語の主人公である7人の少年少女たちは、1985年から2027年までの、それぞれ7年の間隔を経て集められた子供たちである。

したがって、彼らが鏡を通って、それぞれの現実へと戻ったときは、それぞれの時代へと戻っているが、この孤城に来たときは、共通の「今」を共有している。

7人の子供の中に、一人、お姉さんを病気で亡くした男の子がいます。物語のラストで、この子が、この孤城の世界の意味に気付く。そして言う。

「最初は、死んだ姉ちゃんがオレに会いに来てくれたのかな、と思ったけど、ようやく気付いた。姉ちゃんは、あの病室からここへ来てる、って。今も、たった今の姉ちゃんも、6歳の俺と一緒に病室の中なんだろ。このドールハウスの中で、姉ちゃん俺たちと、一緒に過ごしていたんだね。」

つまり、この孤城は、病室で横になっているこのお姉ちゃんの意識世界であると言える。
だから、この孤城における「今」は、西暦何年ですか?と問えば、それは、このお姉ちゃんが亡くなる最期の1年間における「今」である、と言える。
で、それぞれの時間軸を生きている7人の子供たちが、このお姉ちゃんの意識世界へと引っ張り込まれてるのだと言える。

そういう意味では、「今」というものは無いのと同時に、全ての人それぞれの意識世界の中での「今」はある、それ以外に、万人が共有している、ひとつの「今」というものは無いのだ、と言える。

孤城の世界は、お姉ちゃんが生きていた最期の1年である、という意味では、これは過去の出来事なんだけれども、それを「過去」と認識するのは、既にお姉ちゃんを亡くした弟の少年の意識世界にとっての「過去」であるだけであり、そのお姉ちゃんと孤城でのみんなにとっては、それはまさに「今」であるのですね。

途中で、ある男の子が、「そうか分かった、これはパラレル・ワールドなんだ!」と言います。
と言うのは、現実世界に戻って学校で会おうよ、という話になって、みんなが学校に行ってみたときに、それぞれが自分だけが学校に行って、他のみんなは来なかったから。
それで、これは、並行する別々の宇宙なんだ、と理解した。

これは間違いではあったのですが、では、何故、そのような勘違いが生じたかと言うと、人はみな、同じひとつの「今」を生きているという大前提があるからなのですね。それぞれが別々の時代を生きているという発想がそれそも無いところで、そのような理解が生まれるのはむしろ当たり前だと言えます。

というわけで、この物語は、時間についてのこれまでの常識的な固定概念を崩さないと理解出来ないということになりますね。

あと、この孤城で過ごした1年間の記憶は、お姉ちゃんが亡くなる3月30日をもって全て消されてしまうというところは、「時をかける少女」の、あの古典的定番ですね。

この孤城での1年間の体験を通して、それぞれの子供たちの孤独が癒され、友情が芽生え、気付きもあり、強くもなり、現実に戻った彼らが、孤城での全ての記憶を無くしたけれども、もう現実から逃げることは無く、しっかり生きて行くというところも
この手のSFものの定番ですが、それが無ければ、このような世界を作ったことのお姉ちゃんにとっての意味が無いので、これは、お姉ちゃんの救済物語。

余命1年のお姉ちゃんが、弟くんを含む7人の子供の心を救った、そのことによって、自身の生きた意味と証しを得たという、計8人の魂を救った救済の物語。

素晴らしいアニメでした。拍手。


P.S.原作を書いた辻村深月さんという作家さんにも興味を持ちました♪

 

先日NHKでジョン・レノンの命日に放映されたアナザーストーリーズの「ジョン・レノン」の回を観たんですけども。

「イマジン」で描かれている、国境も無く、宗教も無く、戦争も無く、みんなが平和に暮らしている世界というのは、どこから来たアイデアなんだろうな、と、ちょっと思ったんです。

それは、意識が上に上がってくと突入する世界なんだろうな。

少なくとも、今、この世界には無い世界なわけなので、それはどこにあるの?と言えば、それは私たちの頭の中の世界にしか無いわけだけど、まあ、それを想像の世界と言うわけですよね。だから、「Imagine」なわけで。

でもそれはこの世には実在しない世界なのではなくて、実現可能な世界ではあると思いますよ。それは、ヨガや占星術やスピリチュアルに詳しい人なら分かる、黄金時代という地上天国というわけで、ヒンドゥー教=ヨガの世界観では、この世界は、黄金時代、銀の時代、銅の時代、鉄の時代を2000年ごとに繰り返している(2400年だっけ?)、そして、西暦2000年前後に、世界は黄金時代に突入した、というのは、フィフス・ディメンションが「アクエリアス(水瓶座)」で歌っている、あれですよ。

「月が第7の宮に入り
木星と火星が一直線上に並ぶとき
平和が惑星達を導くだろう
愛が星達を動かすだろう
これが水瓶座の時代の夜明け
水瓶座の時代 水瓶座の時代


調和と理解
協調と信頼
もう偽りや嘲りは存在しない
黄金に輝く生き生きした夢
クリスタルの神秘な啓示
そしてマインド(心)の真の解放
水瓶座の時代! 水瓶座の時代!」(「アクエリアス」)

●アクエリアス/フィフス・ディメンション
https://www.youtube.com/watch?v=1uHkMXoIMWk

では、ジョンは何故、1971年の段階でこの歌詞を書けたかと言うと、実はこの歌詞のほとんどはヨーコが既に書いたものにジョンが多少の手を加えたものなので、この歌の基本的な世界観はヨーコの世界なんだけど、ではこれはジョンがヨーコの受け売りで書いたのかと言うと、私はそれはそうでもないと思う。

まあ、男女の愛というのは、意識が一つに溶け合うと言うか、影響力の大きい方が、小さい方に(ジョンとジョンのファンには怒られるかもだけど)、流れ込む、というような現象があって、これは、私自身が体験してることなので、体験から言うんだけども、そういうことはあるんですよ。
そういう意味では、愛というのは、自分が体験してないことが体験出来るという、すごいもので、愛が全ての答えだとか、愛こそが鍵だとか、ジョンや色々な人が言うのはそういう意味も含めて言ってるんだろうけど、

とにかく、ジョンも体験してる。

じゃあ、何を体験してるかって言うと、まだ到来してない、遠い未来の記憶、または、意識に突入する、先ほど冒頭で言った、意識が上に上がることで体験する、ということですね。(何故かと言うと、上には過去、未来と言った時間も含め、境界線が無いから。)

ただ、ヒンドゥ=ヨガの世界観では、世界は、先ほど言った4つの時代を繰り返しているので、ひとつ前の過去の黄金時代の記憶に、ヨーコがアクセスした、とも言えるかもですね。

そして、この「イマジン」という曲の歌詞が、天国の実在を主張するキリスト教の文化圏である、ヨーロッパやアメリカでさえも、バッシングされることなく多くの受け入れられているのは(それは驚くべきことです!)、全ての人の心の中に、この黄金時代の記憶があるからだと考えるのは、理に叶った解釈ではあると思うのですよ。

まあ、その黄金時代というのが、国境も宗教も無い、戦争も無い平和な時代というのが、西暦2000年頃に突入したというのは、今の世界を真渡せば、真逆ですよね。もしそれが本当に来るのだとすれば、あと数十年とか、数百年とかかかるんでしょうけど、今じゃない。自分たちがその世界を見れるかどうかと言うと、自分は生きてあとせいぜい30年だから無理だろうけど(笑)。

スティーヴィー・ワンダーは、「そういう世界は、自分たちが生きてるうちは無理だろうけどね、でもいつかのクリスマスにはきっと。」と、「いつかクリスマスの日に(Someday at Christmas)」という曲の中で歌ってますけどね。(夢を歌ってるのにしっかり現実的でシヴィアなんだよね。)

●いつかクリスマスの日に/スティーヴィー・ワンダー
https://www.youtube.com/watch?v=9RIEj3znH_k

じゃあ、自分たちが体験出来ない天国の記憶を歌った「イマジン」にはどういう意味があるのだろうな、つまり、それが人々の心に何を与えるのだろうな、と考えたときに、それはやっぱり夢物語だよな、歌詞にもあるように、夢想家の歌だよな、ってなるのがオチ、それでも、人々の心に勇気や希望や愛や信じることを与えるのであれば、あながち無意味ってわけでも無いとは思うけど。

 













 

日テレの連ドラ「ブラッシュアップ・ライフ」観てる人いますか?

今季これが一番面白い。

初回から面白かったけど、前回で一気に来ましたね!

非常に簡単にあらすじを言うと、主人公の麻美(29歳)は車に跳ねられて死んでしまう。
気が付くとそこは真っ白な部屋で、向こうには受付がある。
「29年の人生お疲れ様でした。」と言われ、「あの扉を開けると次のあなたの生が始まります。」と。

ちなみにこの受付係役がバカリズムで、このドラマの脚本を書いてるんだけど、やはりこの人が脚本を書いた「ノンレムの窓」という不定期オムニバスドラマがあって、この人、天才だなと思った。

で、「次の私の人生は何ですか?」と聞くと、人間ではなくて、「インドの大蟻喰いですね。」と。

「ええ~、人間に生まれ変われないんですか!」と言うと、あなたの人生はちょっと徳が足らなかったと。

「もうどうにもならないんですか?」と言うと、「人生もう一度やり直せますよ。」とのこと。

「えっ!ほんとですか!」というわけで、人生をまた最初からやり直すって話です。

この話を考えて行くと、人生の最初に戻ったと言っても、時計の針を巻き戻したわけではないから、彼女の死後に現世に生き残った人たちは、その人生を続けてるんですよ。

そうすると、彼女がやり直した人生は、その世界とはまた別のパラレル世界、同時並行しているまた別の世界なわけです。

だから、ある人が彼女みたいに、人生をもう一度やり直したところから新しい宇宙が誕生しますから、一体どれだけのパラレル・ワールドが並存しているか分からない。

また、彼女がやり直した人生における彼女の両親や兄弟、友達は、彼女がやり直す前の彼らとはまた別の人格であるから、その中の誰かが、また人生をやり直すという可能性もあり、こうして、世界は無限に分裂、増殖して行くわけですね。

で、前回面白かったのは、ある日麻美の友達が、お茶をしているときに、「ねえ麻美、あんた何回目?」と聞いて来る!

面白い!

彼女は既に人生を5回やり直しているらしい。ちなみに麻美はこれまでに4回やり直している。(笑)

その友達いわく、麻美とは、彼女の2回目のやり直し人生でも会っており、会社の同僚だったと言うのだ。

ここへ来て分からなくなった。

人生は分岐し続けてるのに、またやり直した人生で再会するというのは、分岐した世界が再びメビウスの輪のように交わったり、また分岐したりするのか?

その世界の構造は一体どうなっているのか?頭がこんがらがって分からなくなったので、思考をストップしました。

ただ、面白いのは、麻美は、人生をやり直していることについて、こんなことを言っても誰も信じないどころか、気違い扱いされて病院へ入れられると困るので誰にも言わないでいたのに、そのことを知っているばかりか、自分も人生をやり直しているという人が目の前に現れたということですね。

この、なんて言うか、突然の世界の開けと言いましょうか。突然、今体験している世界が開けるという体験。こういうのが私はたまらないですね。

映画「マトリックス」で、ネオの前に現れて「真実を教えてやろうか?」というモーフィアスみたいな存在が現れるというこの感じ。

あるいは、主人公の前にある人が現れて、「目を覚ましなさい。君は今、夢を見ているんだ。」という、フィリップ・K・ディックの小説、あるいは、映画「バニラ・スカイ」のようなお話。

で、ドラマに話を戻すと、結局、人生の秘密を知っているその友達もまもなく飛行機事故で死んじゃって(まあでもまた6回目の人生をやり直すんだろう。笑)、また数年すると、また別の、人生の秘密を知っている友達が現れるんだけど、もうそういうのって、2度も現れちゃうと、感動も何も無いね。(笑)


さて、今日の放送回ではどう展開するかな。楽しみだ~。

(ちなみにこっそり言うと、私もこの人生3回目なんですけど、同じように人生やり直している人います?な~んちゃってね。嘘かホントかはあなた次第…。笑)

















 

先日の、私と友人Kさんとのやり取りから。


私「Kさん、私が心臓手術してから今日で丸1年です!早いですね…と言いたいところですが、ん?そうかな?という思いも出て来ます。

なんか最近、時間の感覚が曖昧になって来た感じがあるような、無いような、なのですが、これが私個人のものなのか、集合意識レベルで起こっているのかどうか。

Kさんはどうですか?

時間の経過がよく分からなくなって来ているような感じ?」

K「おっと~、手術から1年が経ちますか~早いですね~
元気そうで何よりです!!!
私はそういうのはないですね~

アトレーユさんの言われる時間は、内側の時間でしょうかね。
以前瞑想しながら、内側の時間は止まっているけど外側の時間は動いているな~って感じた事があって、アトレーユさんの感じるのは内側の時間の事かな~って思ったりもしました。」

私「内的時間と外的時間と分けられるのか、考え行くと分からなくなりますが、確かに、自分だけのものなのか?集合意識レベルなのか?という問いが、もうそのような分離を既にしてますね。(笑)

あ、私の宇宙があって、その宇宙の中に、私の内と外があるので、内的と言えば内的、外的と言えば外的なのかも?

つまり、私の宇宙の中では、時間経過が曖昧になって来ている、と。客観的に。…という主観において。(笑)」


…といった具合ですが、いつもこんな会話をしているのですか?と聞かれると、そうですね、いつもこんな会話です。(笑)特にこの友人とは。

ここで私が言っていることは、自分自身、上手く表現し切れていなくて、それは私自身が、それを明確に理解し切れていないことから来ているのですが、ここは非常に重要な部分に触れているというのは分かります。

要するに、普段、私たちが当たり前のように口にしている「客観的」とは何なのか、ということですよね。

個人個人が感じている時間の外に、客観的な時間というものがあたかも流れているかのようですが、それは本当にあるのでしょうか?

グリニッジ天文台で正確な時間を刻んでくれているから、それが客観的な時間であり、客観的な時間が存在するからこそ、我々一人一人が主観的な時間を感じれるんでしょう?…というわけですが。

でも、それは、誰が感じるのでもない時間だから、それは早くも感じないし、遅くも感じない、誰も感じることの出来ない時間…。

時間とは感じるものであり、だから時間なのではないか?


誰も感じない時間って何???





 

こないだたまたまテレビ放映されてた「LUCY/ルーシー」という映画、これ結構面白かったんです。

リュック・ベッソン監督作品だし、娯楽サスペンスとして楽しめるだろうと思って観たんですが、これがなかなか侮れなかったんです。

簡単に内容を言うと、ごく普通の女性ルーシーが、ホテルでマフィアの闇取引に巻き込まれて、下腹部に強烈な麻薬が入った袋を埋め込まれてしまう。この麻薬は、通常10%までしか活用できない人間の脳の潜在能力を極限まで高めることができる恐ろしいものだった。その運び屋として体内の麻薬と共に移動するよう命じられたルーシーだったが、麻薬を狙う別のマフィアに捕まってしまう。ルーシーは殴る蹴るの激しい拷問を受けるが、その拍子に体内の袋が破れ、彼女の脳は麻薬の力で覚醒し、超人的な力を発揮してその場から脱出し…、というものです。

脳内覚醒のヴィジョンが映像化されてるので、これがなかなか良く出来てて見ものなんですが、内容的にも、例えば、時間論が展開されたりする。

自動車が走っているのを見ればそれが存在していることが分かるが、それを動画に撮って早送りし。だんだん速度を上げて行けば、ある時点から見えなくなる。つまり、それが存在しているということは時間があるからで、時間が無ければ何も存在出来ない、というようなことを大学教授に語らせたりする。

また、覚醒のプロセスの映像化は、例えば、映画「マトリックス」の「赤いカプセルを飲めば君は不思議の国にとどまる」と言ってモーフィアスがネオに見せてくれたあの真実の世界へ行くプロセスや、映画「コンタクト」で、科学者エリーが、地球外生命体によって教えられた通りに設計したロケットに乗って、光のトンネル(ワームホール)を通り抜けるプロセスを思わせるし、時間の進み具合を意のままにコントロールし、街を行く人々をストップさせてしまうところなんかは映画「オープン・ユア・アイズ」(「ヴァニラ・スカイ」はそのリメイク)なんかを思い出させる。

まあ、「コンタクト」は、SFの体裁を取った覚醒系映画とも解釈出来ますね。

上記3作は、私の好きな覚醒系映画3作品ですが、これにまた新にもう1作加わったと言っても良いかと思います。

で、彼女の脳が100%覚醒したとき、肉体は消滅しますが、100%覚醒したら、肉体では存在出来なくなるということが仄めかされます。

で、そこに居合わせた人の「彼女は何処へ?」との問いに、刑事のスマホが着信し、

「I'm everywhre.(私は到るところにいる。)」

と表示されます。

傍から見たら彼女は消えただけですが、彼女の内面においては、時間軸をどんどん過去に遡って、恐竜時代へ、そしてさらに、猿の時代まで遡って、その猿と映画「E.T.」のごとく、人差し指と人差し指を着けた瞬間、彼女は光の球となって、銀河の果てまで飛んで行き、おそらく最初の生命(単細胞)の結合の場面を見た次の瞬間、消えます。

彼女は神になったということですが、これは、見えなければそれは存在しない、というさっきの時間論・存在論とは一見矛盾するんですが、神は存在以前、時間以前なので(時間も神の創造物ですから。旧約聖書によればね。)、矛盾はしないんです。では神は存在じゃないんですか?という問いは自分でお考えください。

ところで、最初の生命(単細胞)の増殖からさらに過去に遡ると、生命の存在しない世界になるので、物質の生成過程が本当はそこにあるのですが、つまり、惑星の誕生とかですね、さらに遡って、ビッグバンまで、その過程があるわけですが、生命が存在しないと、それを認識出来る意識は神しか無いので、神と融合したルーシーは、それを見る必要も無いのですが、その過程はまだ時間のある期間ですから、存在すると言えば存在すると言えます。ただ、それを見る者がいないので(神以外に)、存在しないとも言える…、のかな?どうでしょうね。









 

前記事の続きです。

今やっているテレビドラマ「ミステリと言う勿れ」にハマり、その原作者に興味を持った、その原作者、田村由美はただ者じゃないぞ、と、で、この漫画家さんの心の奥にあるものが何なのかをもっと知りたかったので、短編集を買ってたみた、まで前回書きました。

そして、最初に読んだ短編で既にその答えが来てしまった。答えが来るのが早過ぎる!早過ぎてつまんない!

あるテロリスト集団が学校を占拠し、数名の学生が人質になるっていうお話。(「踊る教室」)

学生「あんた少し他の連中とちがうね」
テロリスト「君もね」
学生「生きにくいタイプでしょう」
テロリスト「人が普通だとすることに馴染めず社会に疑問を持ってしまう人間は生きにくい国ですよここは」

というわけで、このテロリスト、社会を変えようと思ってテロリストになったというわけ。

ふ~む、なるほど、この漫画家さん、'60年代の学生運動の世代か?と思った。だが、1983年デビューなので、世代的にはちょっと計算が合わない。

読み進める。

「ねえはるこ、自分はここにいるはずの人間じゃないとか思うことない?ある時、異世界からお迎えが来て、あなたは向こうの国の王子です さあ帰りましょう ─ みたいな」

これか~、この漫画家さんの根っこにあったのは。この漫画家さんはただ者じゃないと思った私の勘は見事に当たってた。

彼女は異世界の人で、周りの人と自分が全然違う、この違和感が、この人の漫画を描く原動力だったのか。

彼女は宇宙人だから、地球の文明と視点が全然違うから、この文明の愚かさや問題点が、くっきりと浮彫になって見えてしまう。

…とここまで書いて気付いた。

「ミステリと言う勿れ」の主人公、久能整は、完全に宇宙人ですよね、あれ。あのずば抜けた洞察力と知性の高さ。地球文明の水準をはるかに超えている。見方によっちゃバケモノ。

で、短編に話戻ります。

問われたはるこが答える。

「王子い!?中学の頃なら思ったよ。なんとか戦隊の紅一点のレンジャーに選ばれるの。でもそれって結局逃避だってある時思った」

違うんだな、違うんだな、それでいいんだよ。逃避じゃないんだ、はるこ。君は宇宙人だから人と違って当然なんだ。

でも、はるこ=田村由美はそう考え、そうして生きて来たんだな。

そして、逃避しないで社会を変える方向で選んだ道が漫画家という道だったというわけですね。

分かり易くて、あまりにも典型的に解釈通りにハマる答えでつまんない。(笑)

ちなみに、ドラマの中で、瑛太演じる犬道我路…、主人公の久能とお互いに自分と似た匂いを感じ、引き合いますね。あれも宇宙人ですよ。

ご自分のことを宇宙人だと感じたことは?ある?ない?











 

フジテレビ系新テレビドラマ「ミステリと言う勿れ」にハマりました。

第1話を観て、これは面白いと思い、これを書いた脚本家さんは誰なんだろうと調べた次第。これはただ者ではないなと。第2話を観て、さらにその確信は揺るぎないものになりました。

面白いっていうのは娯楽として面白いっていうのとは違いますよ。

脚本と言うか、原作は、同名の少女漫画で、漫画家さんは、田村由美って方でした。

作品を見ると、「BASARA」、「巴がゆく!」など背表紙は見たことがあったけど、それくらいでしたが。

第1話を簡潔に言うと、菅田将暉演じる大学生、久能整は、ある殺人事件の嫌疑を受けるが、犯人は実はその取り調べをした刑事で、彼はかつて妻と子を殺されており、その犯人を殺したのだが、その犯行を久能になすり付けようとしたというひどい話。

ところが久能は逆にその刑事を諭し、刑事は泣き崩れてしまう。そしてすごいのは、久能が、自分が罪をなすり付けられ、数日に及ぶひどい取り調べを受けたにもかかわらず、そのことには全く触れず、責めなかったところ。

この漫画家さんには愛があると見た。この社会を何とか少しでも良いものにしたいと思っている。決して、面白い漫画を描いて売れようとか有名になろうとか、そういう富や名声のために漫画を描いているのではない。きっと何か深い想いがある。それには何か、きっかけがあつたのではないかと邪推してしまう。

そして第2話。「何故、人を殺してはいけないか」論が展開される。

ゴールデンタイムのテレビドラマで展開される内容では全く無い。

久能は言う、「いけないってことは無いんですよ。別に法律で決まっていることでもないですから。罰則はありますけど、人を殺しちゃいけないっていう法律は無いです。何故、人を殺してはいけないのか、いけなくはないんだけど、ただ・・・。(以下、省略)」

おお、来た。相当深く考えてなければ、ここまでは言えないですよ。

私は、人を殺してはいけない理由は無いと言った人を二人しかしらなくて、一人は哲学者池田晶子さんで、もう一人は、哲学者永井均さん。永井均さんの場合は「人を殺してもいい」とまで言っている。(そこで終わりじゃないけどね。続きがある。)

ここに到り、私は、この漫画家さんには、愛があるだけじゃなくて、哲学があると見た。

だけど、愛があれば必ずや人は哲学せざるを得ないのではないだろうか?

だって、愛があれば、こんなにもひどい社会を放ってはおけなくなる。この社会の病理の根源は何なのか?と考えざるを得なくなるでしょ?そしたら、哲学者にならざるを得ない。

まあ、あるいは、ひたすら祈る、という方向に行けば、宗教家になるという道もあるだろうけどね。

だから、この漫画家さんは、宗教家になる可能性もあったけど、哲学する漫画家になった。この社会を少しでも良いものにしたい。だから、社会に向かって漫画を通して問うている。考えて欲しいと。

きっと何か深く傷付いたことがあったのではないかと思う。あるいは深い失望、あるいは絶望。そこから這い上がって来た。それがこの漫画家さんの、漫画を描く原動力になっている。

…とか言って、この人のこと、何にも知らないんですけどねぇ~。

 

メリカリでこの漫画家さんの短編集8冊揃えを買ってみました。この漫画さんの心の奥にあるものが何なのかをもっと知りたかったので。










 

少々時間が経ってしまいましたが、クリスマス・イブの晩からクリスマスの朝にかけての明け方に見た夢の話です。

私は生まれ故郷の長野に帰省しており、川のほとりに立ってます。川は左右に二つの川が流れています。

すると、加賀まり子もしくは加賀まり子に似ている女性が近寄って来て、

「この二つの川は昔は一つの川だったのよね~。」

と言っています。

さて、東京の家に帰ります。私は3畳ほどの小さなアパートに住んでいるようです。

すると、70代とおぼしき一人の老人が訪ねて来て、「少し休ませてくれませんか、。」というので部屋に上げ、話をします。

穏やかな会話が続きましたが、話の途中で私はちょっと腹を立ててしまいますが、また普通の会話に戻り、老人がそろそろ帰ると言うので、「泊まって行っても良いですよ。」と言いましたが、「いや、帰ります。」と言い、帰って行きましたが、おじいさんの帰る姿を眺めながら、とても切なく、悲しく、淋しい思いをしました。でも、電話番号のメモをいただいたので、またいつでも電話出来る、と思いました。

さて、目が覚めて、とても深く感じるもののあった夢だったので、この夢を分析をしてみたくなりました。

まず、クリスマスに見た夢であることから、このタイミングで見た夢であることに多分意味があるのだろうと思いました。

すると、そのおじいさんがキリストによく似ていたことに気付きました。口髭と顎(あご)鬚を生やしており、頬はこけ、面長で、温和な雰囲気。いかにも私の思うイエスのいで立ちでした。

それで分かりました。イエスは神の一人子であり、神を象徴する存在ですから、これは私と神との関係を表す夢なのだと分かりました。

そう思ってみると、確かにその数日前に、私のヨガの先生とのオンライン・セッションで、人間が存在することの理由についての話になり、先生にお尋ねすると、「どうやら情報が必要らしいです。神は"体験"というものが出来ないので、体験が必要みたいです。」とのことでした。

スピリチュアル系の本を読むとだいたいどの本もそのように説明されるので、やはりそうなのか、と思い、私にとってはそれは特に新しい情報ではなかったのですが、簡単に言うと、神、あるいは、神と言って宗教臭さを感じて抵抗を感じる人がいるとすれば、宇宙の根源、創造の源、つまりこの宇宙を始めた存在、と言い換えてもいいですが、そういう存在が、自らが何者であり、またどのような可能性を持っているか(つまり無限性)を知るために、喜びから悲しみ、苦悩までのあらゆる体験が必要である、ということですね。

そして、私は、そういう目的のために、ありとあらゆる人間の悲しみ、苦しみ、痛み、苦悩、不条理があるのかと思うと、それは激しく怒りを感じるものであり、私はずっと神に向かって、「そのような目的があるとは言え、それはあまりにも残酷ではありませんか?それは間違っていませんか?」と問い続けて来ました。

ところで、冒頭の帰省と川の夢は、それでは何だったのだろう?と最初は分からなかったのですが、数日後に分かりました。

帰省は過去に遡ることを意味し、私と神は昔は一つの川だったが、今は分岐し、別々の流れであることを意味していると分かりました。それは、私の神への疑問、そして、怒りによる分離であるということですね。

だから神(イエス)は私が泊まって行って欲しいと言ったにもかかわらず帰ってしまったのであり、私はそれがとても切なく、悲しく、淋しかったのですね。

私は神と共にいたいのですが、私の中に神への怒りがあるために、神とひとつになれないということです。

とても分かり易い、意味の一貫した夢ですね。完璧です。

ひとつだけ分からないのは、何故、冒頭で私に真理を教えてくれたのが加賀まり子だったのかです。(笑)

加賀まり子さんは確かに私の好きな芸能人であり、それだけの理由なのかも知れませんが、深い意味があるのかも知れませんが、分かりません。(笑)











 

マトリックス・シリーズ4作目「マトリックスレザレクションズ」を観て来ました。

「マトリックス」の1作目を最初に観たとき、「なんだ!これ、フィリップ・K・ディックじゃないか!」と驚きました。

フィリップ・K・ディックというのは、アメリカのSF作家で、「ブレードランナー」の元となった「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」や、スピルバーグの「マイノリティ・リポート」、その他、「トータル・リコール」、「ペイチェック」、「アジャストメント」、「クローン」、「暗闇のスキャナー」など多くの作品が映画化されましたが、この「マトリックス」は「ユービック」の映画化と言っても過言ではなく、監督のウォシャウスキー兄弟もインタビューで「ディックの影響を受けた。」と語っている。

ディック・ワールドを一言で言うなら、信じて疑わなかったこの現実が足元から崩れて行く、というあの、目が覚めるような現実感ですよね。

昔、若い頃、ドラえもんののび太くんは、実は交通事故に合い、病院のベッドの上で、宇宙猫のドラえもんとの日々の夢を見ている植物人間状態であり、「ドラえもん」とは実は、のび太の見ている夢なのだ、という都市伝説を聞いて、深い激しいカルチャー・ショックを受けたものでした。

そもそも、「ドラえもん」自体が漫画なのだから、言うなればそれは漫画家の描く夢なのであって、漫画とは、「夢を現実ということにして物語を楽しみましょうね。」という作者と読者の暗黙の了解の上に成立するものなのだから、「実はこれは虚構(夢)でした。」と言われて驚くというのも面白い話なんですがね。(笑)

実は世界は夢でした…、というのは、この暗黙の了解という大前提が崩壊する、ということなのです。

この暗黙の了解が崩れ去る、ということ、これを現実崩壊と言う。

ディックは生涯に渡って、このことをテーマにし、繰り返し、設定を変えて、このテーマで作品を書いている。

例えば、ある作品では、主人公が鏡を覗くと、「目覚めなさい。おまえは今、夢を見ている。」と書いてある。

別の作品では、本当は原子力発電所で事故が起きて、近くにいた人たちが気を失っているのだが、みんなでひとつの夢を見ている。悲惨な現実に目覚めたくないので、みんなで夢を見続けることで現実から逃げている。

「ユービック」では、本当の我々は火星におり、「地球」文明という夢を見ている。だが、それに気づいた者が、人々を現実に目覚めさせようとし、「ユービック」というスプレー式の薬を発明するのだが、人々を眠り続けさせたいと思う勢力がこれを無効化しようとする。これは、火星という舞台を現実世界に変え、薬をあの赤いカプセルに変えれば「マトリックス」ですよね。「トータル・リコール」も同じです。(舞台設定が火星という意味ではこっちの方が近い。)

私は、のび太くんが実は病院のベッドの上に寝ていて夢を見ている、と聞いたときの、現実が崩壊し、目覚めを予感するあのショックを、今に至るまでずっと持ち続けて来たと言ってもいい。

前置きが長くなりました。(ここまで前置きかい!)

さて、今回の4作目についてですが、早口で長いセリフ(字幕)のオン・パレードに理解が追い付かず、すぐに眠気がやって来て、気付いているだけで少なくとも3度は眠りに落ちました。(笑)

途中で、理解を諦め、もう一度観に来るか、DVDが出たら買って何度も繰り返し観るか、と決めました。

ただ、ラストの5分前で、泣きました。

トリニティ!!!

ネタバレになるのでこのくらいにしときます。(えっ!前置きが感想より長いじゃないか!って?すいません!笑)

ちなみに、「トリニティ」という名前がすごいですよね。キリスト教では、「三位一体」。全部ある。最強の存在。
「ネオ」は「ニュー」で、新しいから、まだまだ。

だからあのラストになるのよ。って意味不明でごめんなさい。