12月、「師走」となりました

 師・・・師匠、先生でさえ小走りになるほど忙しく慌ただしい歳末月ということから生まれた言葉とのこと。 ただし、最近の学校の先生は一年中走りまわっているらしいですな。というより、走らされていると言った方がいいのかもしれません。


 先日、路銀の都合がついたので駆け足で岩手県内を旅行しました。
何しろ北東北ですから、冬になる前の方が旅程が楽だろうと。 一関市から入って平泉(世界遺産)を見学し、太平洋沿岸部の大船渡に寄り、遠野を経由して花巻市に出て、そこから帰途に就くという行程です。当初は盛岡市まで行くつもりでしたが、負担を減らすために変更です。

 平泉は奥州藤原氏三代の栄華の跡です(1087~1189頃)。
中世に中央政権の争いから離れて現在の平泉周辺で約百年間続いた豪族です。
清衡、基衡、秀衡と続き四代目の泰衡が新しい覇者、源頼朝に抗しきれずに藤原氏が匿っていた義経を討ち、その後自身も頼朝に滅ぼされて奥州藤原氏は滅んでしまいます。 藤原氏の館は残っていませんが、その藤原三代の間に栄えた仏教文化遺跡が世界遺跡に指定されました。(個人的には、指定されようがされまいが貴重な遺跡であることに変わりはないので、そんなに大騒ぎしなくても思いますが、こういうのはひねくれた考え方でしょうか)
 二つの大寺院がありますね。
「中尊寺」~日本によくある山門寺院です。山の参道(月見坂)を登って本堂、金色堂に至ります。金色堂は三代の墓所であり、三体の壮麗な仏像に守られ、外壁が金張りされています。
「毛越寺(もうつうじ)」~平地にしつらえられた寺院で、極楽浄土を模したとも言われる広々とした庭園が広がっています。
この毛越寺の一部として源義経を祀った「高館義経堂(たかだち・ぎけいどう)」という小さなお堂があります。義経が自害したと伝えられる地です。ここからは、束稲山とふもとに広がる畑地、北上川そして現在は国道4号線が縦走している悠然とした景色が見えます。
松尾芭蕉(1644~94)はここで、「 夏草や 兵どもが 夢のあと 」という有名な句を詠みました。 「奥の細道」で芭蕉は松島の後平泉を訪れていますが、ここが旅の最北で、この後は西南の山形・最上方面に向かっています。この頃、伊達・仙台地方はまだ新興地帯だったのでしょう。

 この後、陸前高田市を通って大船渡市へ。三陸沿岸の旅館に泊まってみたかったからです。 途中、陸前高田ではベルトコンベヤーを使って土砂を運ぶという大規模かさ上げ工事で有名になった所を見ることができた。ベルトコンベヤー工事は既に終わっているが、冬間近の寒々しい中に広がるかさ上げ更地が痛々しい。この光景が美しい姿に変わるにはあと何年かかるのだろうかと思う。考えてみればあの大震災大津波からまだ5年も経っていない。復旧するにはまだまだ時間がかかるのだろうと思います。

(参考)
ベルトコンベヤーかさ上げ工事映像
https://www.youtube.com/watch?v=ABjebfZu-hw 


 大船渡では碁石海岸の小さな和風旅館に泊まった。津波で流された以前の旅館の跡地をかさ上げして新たに建てたのだそうだ。OO別邸という名を使っていたが、訊ねはしなかったが、もしかすると流出前の館にとっての別邸という意味かもしれないです。 
(大船渡市と陸前高田市およびその近辺は「気仙」地方と呼ばれるそうだ。方言も住民気質も他と少し違うらしい。行政区としての名称ではなく伝統的な呼び名だろう。「ケセン語訳聖書」というこの方言を使った聖書完訳という偉業を果
たした山浦玄嗣(やまうら はるつぐ)という方がいらっしゃいます)

 遠野市は通過しただけで花巻へ。 「花巻」・・・なんとなく郷愁と憧憬を覚える地名です。 宮澤賢治・・・生前まったく報われることのなかった岩手の求道者ともいうべき人です。後に石川啄木とともに岩手の大看板となった人。その記念館は今年リニューアルされました。氏の人生の歩みが概観できます。ミュージアムショップで、「雨ニモ負ケズ」が記されていた手帳の複製が売られていた。(賢治先生が知ったら怒りそうな値段で、、、ひと言余計 )

宮澤賢治記念館サイトhttp://www.city.hanamaki.iwate.jp/bunkasports/501/miyazawakenji/p004116.html 

(宮澤賢治(1896~1933・S8)にしろ石川啄木にしろ近現代東北の天才であるが、報われぬまま若死にした。生前もう少し陽の目を浴びてもよかったのではないかと思う。皆地味で息苦しさを感じながら生きていた時代かもしれないが、それにしても、と思う。)

 以上で、岩手の旅の記述は終わりにします。

 
 今月は当ブログ更新の予定はありません。
 ブログデザインをクリスマス仕様にしておきます。
 よいクリスマス、冬休み、お正月をお迎えください。









 11月25日の夜遅く、往年の名女優・伝説の女優と冠された原節子さん(1920~2015)が亡くなっていたとの報が駆け巡りました
95歳だったとのことでした

約半世紀前に映画界を去り隠遁生活を送られていた女史ではあるが、だれも決してその名を忘れなかった人である。
当時の女性としては大ぶりで洋風の感じのする女優さんであった。
本格的なドラマ映画が始まった時代の代表的女優さんだったと思う。

1937年(昭和12年)公開の初の日独合作映画「新しき土」は当時大きな注目を浴びました。(今観ると、1936年・日独防共協定から1940年・日独伊三国同盟に至る時代、満州国(1932~45)と満蒙開拓時代という背景がよくわかります。)原節子さん16、17歳頃の作品です。
戦後の小津安二郎監督の日本の家族の原風景を描いたような作品の主要人物としての原節子さん。

(終戦後、ほどなく黒澤明や小津安二郎が海外で高い評価を得たのは、日本という国の意外な面を外国の知識人・大衆が見出したからでもあろうと思う。大戦中の海外侵攻や特攻隊という自爆攻撃、捕虜になることよりも無謀な玉砕や集団自決を選ぶ不気味な民族の国。この日本のイメージとは全く異なる姿を見せられたからでもあろうと思う。
実におおざっぱな推論です。)

  学生の頃、原節子さんが存命で鎌倉かどこかで隠遁生活をしていると知ったときは少なからず驚いたものだ。
騒がれもせず静かに暮らせたのは、本人はもちろん近隣の住民を含めて周囲の人たちが賢明であったからだと思います。また、95歳という年齢も意外でした。引退が早かったとはいえ、そんなに昔の人ではない、ということです。
彼女の眼には今の世の中がどのように映っていたのか、興味あるところです。

  (参考)

「新しき土」リバイバル 公式サイト http://www.hara-eiga.com/  








 





 もうすぐ12月、
 地域によっては冬到来の気配がはっきりわかる時候となりました

 「中高年ドライバーの介助機器」とは、何を隠そう・・・(誰も隠す人はいませんが)・・・カーナビ(カーナビゲーションシステム)のことです。
運転技術の要素のひとつは、運転経路認識力、つまり道路・道順がちゃんとわかるかということですね。方向感覚という言葉を使ってもいいかもしれません。これが無いとクルマの運転はできません。
遠方の未知の所にクルマで行くのはごめんだ、とういうのはたいていこれが原因でしょう。どこをどう行けばいいのか考えながら運転するのは想像するだけでも疲れるわい、ということですね。だからクルマを自分で運転して遠出はできない人も多いでしょう。
それが、カーナビを使うと劇的に負担が減ります。
私はほんの2,3年前に遅ればせながらこのことに気づきました。
極端な話、目的地を設定すると、自分がどこを走行しているかわからなくてもナビの指示どおりに運転していれば目標地点に着いてしまうのです。荒天や冬季でなければ交通の難所など今の日本にはあまりありません。道路沿いにはコンビニがいくつもあるので必要ならば頻繁に小休憩もできます。少々心身の調子が悪くても、少しクルマで遠出するというのはそれほど難しいことではなくなってきたということです。
でも、夜間の知らない道路や、片側1車線で中央分離帯のない高速道路を運転するのは少しこわいです。

中高年ドライバーと書いたのは、若い人たちが最初からカーナビに頼り過ぎると、運転技能というか走行経路を判断する能力が低下するだろうと思ったから。五感を使ってクルマを運転する経験が積めないのではないかとの心配ですな。

navigate  〔動詞〕 (乗り物を)操縦する、誘導する
            (自動車の)針路・経路を決める