清々しく、やさしく、丁寧に、力強く生きる  長瀬泰信 -3ページ目

清々しく、やさしく、丁寧に、力強く生きる  長瀬泰信

~人は言葉により励まされ、癒され、自分の世界を築いていく~

「今が一番。何々があったらとか、何々になったらとか、やらない理由をつけないで、今、何ができるか、今、何をしなければならないかを考えて今を力一杯生きることだね」


 若い世代に何を伝えたいですかという問いかけに、一風堂店主河原成美さんは、そう答えられました。


偉大な教育者森信三先生が「人間は自分に与えられた条件をぎりぎりまで生かす。これが人生を生きる最大最深の秘訣だ」という言葉を遺され、何か理由を付けて先送りして、本当にやらなければならないことをやらず、誘惑にいたづらに時間を費やすことを戒める言葉と重なりました。


 『教師宮澤賢治のしごと』(小学館:畑山博著)のなかに「学校の教師の仕事は、それとほんとうに誠実に取り組んだら、音楽や絵を描くよりもっと素晴らしい芸術行為なのだと、私は信じている。ある意味で、それは神のごとくして、相手の魂の琴線を調律し、かきならすことができるのだから」という件(くだり)があります。


 同じように自分の職業であるラーメン業を芸術だ、演劇だ、と取り組まれておられるのが、テレビ東京の人気番組『全国ラーメン選手権』3連覇、「博多一風堂」店主でラーメン業界の寵児となられた河原成美さんです。

普通は選手権で優勝すると、次に敗北すればその輝きが薄れることから連覇への挑戦は避けたいところですが、河原さんは「ラーメン職人選手権」で優勝した後も挑戦されました。優勝者の肩書きが、負ければ店のブランド、価値にもひびが入りますが、3連覇の偉業を達成されました。

 平成20年にはニューヨークのお洒落エリアであるイーストビレッヂに「博多一風道ニューヨーク店」をオープン、連日長蛇の列が報じられました。河原さんは「うまいラーメンは心でつくる」と語られます。
作家神渡良平さんから、福岡に住まれているのなら河原成美という人を訪ねてみませんかと紹介され、繋いでいただきました。

話を伺いながら、お父さんが高校の美術教師だったことを聞き、そのお父さんの大輔先生には、私が新任として赴任した学校で教師道を日々の姿勢の中で教えられ、畏敬の念を抱いた先生でした。

 先生の作品は重厚な絵画で高い評価を受けて、指導においても多くの教え子を藝大に合格させる名物教師の一人でした。定年に3年も早い退職のときの挨拶は「体力的に絵を教えるのに限界を感じました」という言葉で、教師たる者は熱意を失ったときには教壇から去らなければならないという私へのメッセージだと、その当時から思い続けていました。


その思いを河原さんに語りますと、「父は体力の限界が原因で退職したのではありません」と言われながらいきさつを語られました。河原さんが事件を起こし、 「公判の席で証人席に立った父が涙ながら、すべては私のせいです。私は教師としてたくさんの生徒を教えてきましたが、自分の子どもの一人さえ満足に育てることができませんでした。この子に罪はありません」と訴えられたそうです。


 父は私が逮捕された翌日に、世間に申し訳ないと、高校教師を退職しました。57歳の働き盛り、恥も外聞も捨てて、私をかばおうとする父の姿に、心底申し訳ないと感じ、両親のためにも立ち直ろうと決意しました、と語られています。


 私は、自分の子供に対峙したときに同じようには行動できないと思いながら、定年を迎えました。
 留置場から帰ると兄弟から激しく殴られました。(もう取り繕わなくていい。背伸びしなくていい。もはや失うものはない。ここが俺のゼロ地点だ。俺は俺でやっていこう)とスタートを切られます。何かやろうと考えた河原さんは、子どものころから厨房に立つのが好きだったことを思い出され、飲食業で身を立てようとコック見習いになります。 


 昭和54年、博多駅前に「AFTER THE RAIN」というレストランバーを開店。「目標は店は3年間休まない。30歳で(当時27歳)店舗を福岡の天神地区に移し、年収五百万円稼ぐ」という数値目標を掲げ一日も休まず頑張り続けます。


失敗とは、立ち直れない人が失敗者なのではないかと思います。
 

働き過ぎのなかで、医療ミスも重なり臨死体験にも遭遇されています。
 

九州のラーメン業界に革命を起こそうと常識を破り創造の毎日が展開されます。大名に最初の店をオープンした時は、店内を木と土壁を使って落ち着いた雰囲気が出るように工夫し、BGMにはジャズを流した。当時は画期的な試みで、世間が注目し始めます。そこで、Tシャツを着て、頭には赤いバンダナを巻いた元気な若者が働いている。


 従来のラーメン屋のイメージを完全にうち破りました。勿論、店内の装飾にお兄さん(九州産業大学芸術学部教授)の献身的な協力がありました。


 一風堂が全国レベルに知られたのは、平成6年、新横浜ラーメン博物館に出店を要請されたことが大きい。館長(岩岡洋志)さんが、全国有名ラーメン店の中から、力のある8店を選りすぐって一堂に会した「ラーメンの殿堂」を造りたい、と声かけられます。 


 札幌の「純連(すみれ)」、横浜の「六角家」、熊本の「こむらさき」等、ラーメンファンなら誰もが一度は食べたいという老舗の店に参入する形になって、壮絶な市場戦争に打ち勝っていかれます。ラーメンは芸術だという河原さんの創造意欲が客を惹きつけます。


 一方で、日清食品が一風堂と純連の”店名入り”のラーメン開発を申し出られ、即席ラーメンで本物のラーメンの味が出せるのかという挑戦は、見事に成功し商業ペースにのりました。


 「ラーメンのスープは動物性蛋白質をベースにしていますから、うどんより欧米人の好みに合います。現に博多の店には欧米人がよく来るんです」という河原さんは、当時ニューヨーク、上海への進出計画で多忙の中、私のような一銭にもならない取材に2時間余も対応されました。


人生は常に順風とは限りません。逆境のなか、ふとはいったラーメン店で、自分で出来ない理由を見付けて逃げないで、河原さんの頑張りを思いだして一念発起して頑張るきっかけになればと、今回、紹介しました。

「私は失敗のなかで、父に救われました。言い訳をして前向きになれないことが本当の失敗ではないですか?。失敗をどうい生かすかでしょう」と、過去を振り返られました。


「店の繁盛の秘訣は」との問いかけに、「つぶれない店をつくろうと努力すれば、繁盛する店になります。学校でも合格するためにという視点より、不合格にならないために何をすべきかと同じです。やっぱりQ(クオリテイ=品質)、S(サービス)、C(クリンリネス=清潔)が基本だね」と答えられました。


河原さんとはプロフェッショナルの話になりました。
 

「お客さんががっかりして帰るのは、お店の従業員たちにプロとしてのプライドが足りないからです。お客さんは、この店に行こうと期待して来てくれていると思ったら、失望させて帰すわけにはいきません。そう考えると、接客もシャキッとしますし、料理にも力が入るものです。従業員がプロとしてのプライドを持てば、お店の空気が澄み切ってきます。雰囲気がシャキッとしていれば、お客さんは『ここは何だか気持ちのいい店だな』と満足してくださいます。この従業員のプライドを育てるのが、経営者の仕事です。だから従業員一人ひとりをよく理解し、励まさなければいけません」と熱く語られました。


 「5年ほど前のことです。あるうどん屋さんが『売り上げがさっぱり伸びない。何が悪いのか、アドバイスして欲しい』と頼み込んでこられたので行ってみると、お店に元気がなかった。ぼくが『こんにちは』と挨拶して入って行っても、従業員は『どこの誰が来たのか?』という顔で、挨拶もない。トイレは臭くて、棚は物置状態でした。うどんの味がどうのこうのという以前の問題でした。


ところがその店の経営者は、『店長が悪いんですかね』という。『そうじゃありません。お店をそういう状態になるまで放って置いたのは、あなたです。あなたがお店に愛情を注ぎ、スタッフを育てようと努力しなかったら、お店は育ちませんよ』とはっきり言いました」肝に銘ずべき言葉になりました。

関わった人が「『河原さんはカッコいいな。あんな人になりたい』と思ってもらえるならば最高にうれしいです。人間一途に命を賭ければ、必ずものになるものです。まったくの落ちこぼれでしかなかった僕ですら『ラーメン業界に河原あり』と言われるようになれたのですから」と語られました。


理学療法士、作業療法士のプロフェッショナルをめざして、今を力一杯頑張ってください。

「近くのスーパーに食材を買い物に行く以外は、時間の全てを勉強の時間にあてました。勉強すれば絶対合格できるという確信を持って取り組みました。」


合格率1.2%の外国人で平成23年度(第99回)看護師国家試験の難関を突破されたエヴァー・ガメッドさんの言葉に、与えられた時間を精一杯使うことが最大の準備という確信を持ちました。
 

 エヴァーさんは、昨年5月に来日して、日本語を学び、今年の2月の日本の看護師国家試験に1年足らずで合格するという偉業を成し遂げられました。皆さんが、理学療法士、作業療法士への道を確信を持って頑張っていく励みになればと、8月20日、栃木県足利赤十字病院に勤務するエヴァーさんを訪ねました。

「なりたい」という気持ちを、「なるんだ」という気持ちに高め、そして、勉強しなければ「なれない」、勉強すれば「なれる」という鉄則を心に刻んで欲しいと思います。


 今年の3月27日、朝刊各紙は第99回看護師国家試験の合格者発表の中に、経済連携協定(EPA=Economic Partnership Agreement)に基づいてインドネシア、フィリピンから受け入れた看護師候補者3人が国家試験に合格したことを報じました。


経済連携協定協定=経済取引の円滑化、経済制度の調和を図るために投資や貿易を円滑にする国家間協定。その一環としてインドネシア、フィリピンから看護師介護福祉士候補を受け入れました。日本では無資格扱いで、看護師は3年以内に国家試験に合格しない場合は、帰国を強いられます。


 2008年370人が来日、昨年度は受験された82名全員不合格。今年度はインドネシア人195名、フィリピン人59名が挑みましたが、インドネシアの2人とフィリピンの1人の計3人が合格しました
 

 全体の国家試験合格率は約5万3千名が挑み、合格率は89.5パーセントでした。

エヴァーさんは、母国で看護師資格を取得。8年間勤務した後、サウジアラビアで5年8カ月間、救命医療にも従事され帰国された翌日EPAの制度を知られます。
高度医療技術を学びたいという看護師としての日常性に埋没することを避け、更に向上したいと、併せて10歳と8歳の二人の男の子供さんの将来の教育を考えたとき、進んだ国で学ばせたいという思いも重なり、子供さんの反対に耐え難い気持ちのなか日本に行くことを決意をされます。
 

 立派な看護士として高い医療技術を習得したい、そして、出来れば二人も日本の教育を受けさせたい、そのことが強いモチベーションとなって、国家試験への過酷な日本での生活も、頑張る以外に解決はないと頑張っていかれます。
 

 来日されるまで、日本語は全く話せない状況でした。合格の知らせの瞬間をお聴きすると「素晴らしい教育環境を用意して支えていただいた病院関係者の方々に感謝したい」と、合格の喜びよりも周りに感謝される言葉が真っ先に出ました。


スポーツの世界では、良い結果を出すためには、いい選手がいること、いい指導者がいること、良い環境(施設、支援、応援など)に恵まれていることの3つが必要条件と言われますが、エヴァーさんは、支えていただいた人々への感謝を何度も口にされました。皆さんも国家試験に何が何でもという気持ちを持って取り組めば、本学院は、充分な体制が整っているではありませんか。


 一緒に来日したフィリピンの仲間との情報交換でも、足利赤十字病院の教育環境は他の受け入れ病院より格別であることを語られました。
 何よりも、わからないことがあれば積極的にどんなことでも聞くというエヴァーさんの姿勢に、丁寧に対応される病院関係者の支えがありました。 
 国家試験までの苦労を、時々涙をこらえるように話されました。


 「睡眠も4,5時間ぐらいだったと思います。日本語の難しさ、特に漢字の難しさに涙を流す日も何日もありました。漢字が夢にでてきました。」
 

 看護師国家試験は日本人にとっても難しい漢字や言葉が多々あります。例えば、「創傷治癒遅延」は、傷の治りが遅いこと。褥痩(じょくそう)は、床ずれ、眼瞼(がんけん)は、まぶた、言い換えた方が患者にとってもわかりやすいものがかなり多い。


 エヴァーさんが最も苦労したのも漢字。日本語の日記を書き、病院の先生方が毎日指導という恵まれた環境もありました。勉強のために書き上げた日本語は、大学ノートで100冊に及びます。
 出来ない理由というのは、実に安易に用意されるものです。意志が弱いからと逃げないで、皆さんも国家試験に向けて平等に与えられた時間を深く使ってください。

 エヴァーさんは、医療関係の映画を見ながら言葉を覚えました。まだ、会話は片言ですが、日本語検定2級のレベルまで上達され不自由な感じを与えないほどです。「まだ、言葉がでなかったり、簡単な言葉が聞き取れなかったりです。」
 

 九州大学が前年度の試験を英訳したものを、期日された93人のうち,59人受験,35.6パーセントの21人が合格、母国語や英語での受験機会を用意しても日本の看護試験は難しい。当然予測されることですが日本の社会福祉制度などは回答率が低かったという報告もあります。

エヴァーさんは、英語に翻訳された国家試験に8割の正答で、看護知識が高いレベルにあったことも、関わる人々の応援に励みを与えました。

 

 試験対策は、過去5年間の問題から傾向を分析して、問題を繰り返し解きながら対策を講じられます。午前中は外来病棟で看護助手をされ、午後からは看護師としての勉強も含めて深夜までの勉強が続きます。院長の配慮もあって12月からは一日15時間以上の猛勉強で栄冠を勝ち取られました。

日本語の勉強だけでも毎日3時間は欠かさない日が、今も続いています。「でも、まだまだ、日本語うまくならない」と顔をしかめられました。

 

 エヴァーさんの苦労の話を伺って、何事も達成するのだという気持ちで、いかにモチベーションを高く持つか、私自身、年齢を理由に逃げなければ、たいていのことはできるのではないかという勇気をいただきました。

 エヴァーさんの頑張りも凄いことですが、職場あげてエヴァーさんを支える風土が形成されていました。彼女の一生懸命な姿が、周囲の応援、支援を引き出したとも言えます。


 卒業後の舞台を考えれば、この3年間、時間の全てを資格を取るためと、人間力を鍛えるために自分の人生で一番頑張るときです。

『情熱大陸』(2010年1月17日放送)で清貧の画家・石井一男さんがとりあげられ心奪われるとともに、幾つかの言葉が思い出されました。

 
「幸運の女神は準備したところを訪れる」というフランスの生化学者ルイ・パスツールの言葉と、「正直にやっていればいつか舞台が与えられると信じてやってきた」というピアニスト、フジコ・ヘミングさんの言葉(フジコ・ヘミング著『運命の力』ブリタニカ出版)、そして、前回紹介した白井隆之さんの「一生懸命やっていれば周りが救いの手をさしのべてくれる」という言葉が思い出され、関わってきた生徒にもこの言葉をよくかけてきたことから、石井さんの人生の一端に触れたいと訪ねました。


全く埋もれた無名の石井一男さんを檜舞台に導いた人が、神戸で「ギャラリー島田」を主宰される島田誠さんです。石井さんが島田さんに電話したことが接点ですが、石井さんが体調を崩され、自分の作品が埋もれることなく何らかの形で人の手に渡ればという思いで、電話されたのでしょう。それまで、ぎりぎりの生活をしながら、ひたすら女神像を描き続けておられました。


島田さんが、石井さんの画集の巻頭に出会いのいきさつを寄せています。 「突然、電話してすみません。おたくのギャラリーは、時々拝見させていただいています。先日ギャラリーの通信を読ませていただいて、信濃デッサン館への旅に感激しました。こんな文章を書く方なら、私のことをわかってくれるかと思いまして~」と、是非、絵を見てほしいという石井さんの懇願に、島田さんは一度作品を持ってくるように促されます。


石井さんがインフォメーションで留意した島田さんの一文は、『頼まれごとは汗を流してしまいます。べつに厭世的になっているとか心朽ちているわけではなく、自分以外の人で勤まることは引き受けない。自分しかできないことをやりたいと単純に思っています。~中略~大袈裟にいえば、作家の生き死にに拘わること、言い換えれば精魂込めた作品の生死に拘わることを毎日やっているわけでお医者さまみたいなものです』という部分で、島田さんの生きる哲学が、石井さんの琴線に触れた瞬間でした。


その数日後に、石井さんが持ち込んだ百点近いグワッシュ(不透明水彩絵の具)作品を見て絶句されます。女性の顔を描いた3号程度の小品でしたが、島田さんは、後に石井さんの画集の巻頭で「孤独の魂が白い神を丹念に塗り込めていった息づかいまで聞こえてきそうで、どの作品も巧拙を超越した純で聖なるもの」と評価されています。


石井さんの手で描かれた作品は、個展を訪れた人々の涙を誘うものもありました。石井さんの絵が、見る人に自問自答を迫り、命への言葉にならない感動を生むのだろうと思います。


島田さんは、石井さんだけでなく、全く無名の創作者に対して発表の舞台を提供されています。まさに、芸術家に命を与え続けておられる方です。「人生の最大事は邂逅(かいこう=出会い)である」と言われます。人は、人生において、あの人に会わなければ、今はないという出会いに遭遇するようになっているのではと思います。その時、学ぶ側というのはどんな不都合なことでも素直に受け入れて厳しい選択をすることが人生をも決めることになるようです。 


石井さんにとって島田さんは画家としての命をいただいた出会いでした。国民教育の父森信三先生が「人は会うべき人には必ず会える。それは、一瞬早過ぎもせず、一瞬遅すぎもせず」という言葉を遺されていますが、石井さんが描き続けた作品が最高潮に達したときに、島田さんとの舞台が必然的に時の流れの中で用意された感じがします。


石井さんは、神戸駅近くの東山市場近くの長屋に一人で住まれています。『情熱大陸』で映し出された石井さんのご自宅の部屋は、整然とした部屋に裸電球の灯りがついて、石井さんの清貧な生活を醸し出していました。


石井さんとお話をしながら、これほど自分からお話をされない人も珍しいほどでした。プロのインタビュアーだったらどう声をかけられ、取材を深める言葉を引き出されるのだろかと思うほど寡黙な人でした。


1992年10月、初個展を、島田さんが経営される海文堂ギャラリーで開かれます。 その個展のパンフレットは島田さんが巻頭を書かれました。


「石井一男 初個展~女神たち~現世から隔絶された稀有な孤独の中から生まれたモノローグ(注:独白=芝居で相手なしに、一人で台詞をいうこと)。」石井一男 49歳。 完璧なまでの無名性のうちに埋蔵された才能が宝庫のような鉱脈になって、今、開花。生きる証としての存在証明が『石井一男の女神たち』なのです。


島田さんの話では、それまでの稀有な人生とあいまって、マスコミの扱いも大きく、絵の大きさが3~4号で、高額ではなかったにしても無名の画家としては異例の全点完売であったそうです。個展が終わった日、島田さんが収益を渡そうとすると、遮って文化事業への寄付を申し出られました。

人間は、ここまで崇高になれるのかという畏敬の念を抱きました。このような心を持っておられるから作品を通して、見る側に言葉が湧き出るのではと思いました。


必要以上に語らない島田さんと石井さん、言葉で表現出来ない強い絆を感じました。 島田さんは、初個展以来、毎年のように石井一男個展をプロデュースされています。

石井さんは、近くに住む足が不自由なお母さんの世話をしながら、新聞配達をして生計を維持されておられました。新聞配達といっても、新聞販売店から駅構内の売店等に運ぶ仕事で、人との関わりを避けられたらという思いからでした。


しかし、この仕事も阪神・淡路大震災で失うことになります。厳しい生活のなか、約束された舞台もないなか、ひたすら女神像を描くことを使命のように続けてこられました。 「なぜ、女性の顔だけですか 」という私の卑近な質問には、言葉で表現するには深い理由が感じられて「描きたいからだけです」と微笑まれながら、私が絵との関わりをお聞きすると、「小さい頃から、絵を描くことは好きでしたから」と。


石井さんの真摯な姿勢と清貧な生活が新聞、雑誌で報じられ、それまでの埋もれた生活から脱して、「自分の絵を見て,人が感じたことを語りかけて下さる」人は人との関わりなくしては生きていけませんが、その事を自分の作品を通して、感じられることが、今、石井さんの生き甲斐になっておられるのではと思いました。


芸術は、その人の人生が背後にあるものが重いものほど心を動かすのだと思います。石井さんの創作意欲を思うとき、私自身も別の形で大きなエネルギーをいただきました。


ぎりぎりの生活の中で、ひたすら名声も富も求めず描き続ける石井さんに、あなたはこの世にせっかくの命をいただいて何を遺しますか、と問われたような気がしてなりませんでした。


本学院に学ぶ皆さんは、関わる人に遺るセラピストを目指して、日々その準備をしてください。

「夢をあきらめないで~この道で生きると決意したら、あきらめないで、夢の実現のための困難を乗り越える強い意志とそのための努力、苦労を背負う覚悟が必要だね。自分の夢が正しければ、その一生懸命の姿に人が支えてくれます。私がそうだったから」と、これまでの人生を振り返られて、白井さんは語ります。


他者にかける言葉が「力」となって励ましになるのは、その言葉に裏打ちされた人生を背負ってきたからだろうと思います。

幼いころの高熱が原因で脳性麻痺になり、その後遺症で顔や足が思うように動かないハンディキャップを背負いながら、出版社を経営し、自社で制作した本に込められた作者の思いを、直接語り伝えたいと1年の半分近くを全国で行商される白井さんの出版社を、この3月訪ねました。

白井さんの仕事は、企画、校正、出版、営業と多岐にわたる大変な仕事です。


東京日本橋にある小さなビルの三階に、白井さんが経営される燦葉(さんよう)出版社があります。この出版社は、出版社のイメージとはほど遠い小さな一部屋で出版業界は厳しいといわれる時代のなか、スタッフ一人と二人で、37年の歴史を刻んでこられました。


社名の「燦葉」は、オリーブの葉のことで平和のシンボルとして聖書にも出てきます。


白井さんは、聞かれないと話されませんが、奥様の群馬直美さんは葉だけを描かれる葉画家(ようがか)としてご活躍をされています。奥様の著書『街路樹・葉っぱの詩』と『木の葉の美術館』(共に世界文化社)には、葉の持つ独特の世界が広がって心が癒されます。

白井さんは、生後3カ月のとき脳性麻痺という重病を背負われます。小学校の頃は、「首振り人形」と揶揄されたりで、現在も歩行は普通ではありません。

昔は、障害者は家に隠すか施設に預けられていましたが、母親のトミさんは、普通の教育を受けさせたいと、白井さんの将来を見据えた環境作りに大変な尽力をされます。


小学校の運動会で、普通に走れないことで徒競走は敬遠されていましたが、白井さんの一生懸命の姿に周囲が拍手で応援します。

そのとき「自分で出来る範囲で精一杯やっていこう」と決意されますが、その拍手が一生懸命やっていれば人が支えてくれるという言葉に繋がっています。


また、人よりもゆっくりしか走れなかったことは、恥ずかしいことではなく、周りがよく見えたと、何事もプラス思考に捉える姿勢は、お母さんの教育のたまものでした。

私が訪ね歩いた人々に共通するのは、プラス思考で生きておられることを教えられますが、心の決定者は自分自身ですから、自分の人生を前向きに生きることが大切で、関わる人にも勇気、感動を与えます。


ミッション系の高校、大学で学ばれた教育が白井さんの根幹を作っていきます。

卒業後書店に勤められますが、「自分の手で本を出して、作者の意図を語り伝えたい」という思いで、25歳の時に最初は高円寺に四畳半の部屋に電話一本を設置して燦葉出版社を設立されます。

記念すべき最初の一冊は、「白地図 聖書科ノート」(改訂版は「聖書ノート)は、中学、高校で高い評価を受け、会社の経営基盤となっています。その時は、北海道から鹿児島までを半年かけて行商されました。


「続けると本物になる、本物は続ける」教育者東井義雄先生の言葉ですが、今日のように、本を買って読むという感覚が薄れてきている時代に、出版社が経営を維持するためには、その苦労は計り知れないものではと想像されます。

ノーベル平和賞を受賞されたマザー・テレサから、障害を背負いながら出版社経営とは偉大な存在と絶賛されたことを支えにされています。


3年前までの本の行商は、公共交通機関を利用してリュックに詰めた本を歩いて売り歩くという考えられないような販売方法でした。

白井さんの経営哲学は「売れる本」よりは「読んで欲しい本」の出版、当然、「売れる本」を意識した出版ではなく店頭での販売は期待できず、毎年、4カ月ほどリュックに入る限りの本を詰めて自ら売り歩くという希有な人です。

書店の店頭で、バナナの叩き売りのようにすぐに消えそうな本が山積みされている風景が好きでないからと、この業界で生き抜く哲学に畏敬の念を覚えます。


限られたリュックサックに詰まる冊数からの転換を計られ、2年前、荷台付き三輪車を特注され、ジムで体力を鍛えて、北海道から鹿児島まで自転車を漕いでの本の産地直送を続けられ、この時期も日本列島のどこかで行商されています。

「本作りは真心を込めて」と一冊への思いは強い。だからこそ、その本の執筆者の意図を伝えられるとはなされます。


販売で奔走しても、本はなかなか売れません。ある時は札幌市内を4日間回り、販売は僅か7冊だった時
も、それでも、その土地の人との出会いに感謝されます。

何事もプラス思考、その瞬間に交わした言葉が、自分の知らない世界だったりして、販売の旅で味わう四
季の風情と、手元から離れた7冊が求めた人の人生に関わる嬉しさが心地よいのだと暗さがありません。

毎年の出版冊数は二桁には届かない。本のイメージが全て頭に入っていて、作者の思いを間違いなく伝え
られる。だから、作者の意図を伝えられる。


本は人と人で作るもので、この本にどんな気持ちを込めて作ったかを購入する人に直接伝えたいと、その
根底にある姿勢は、大きな出版社にはない人間の温かさが感じられます。

「目的地までに誰よりも先に着く事が、一番または優秀と評価する今日の社会、そういうふうに思いこんでいる人が実に多いと観じます。目的地には着くことで良いのですから、道々楽しむこと、道草をしながら歩いていくことの方が、確実にすばらしい体験に出逢えると思います。この道草、寄り道が人生において大切なことと思って生きています」と、『ただひとりの人間として~燦葉出版社30年史』(燦葉出版社)のあとがきで述べられています。

創業して、今年で38年目に入ります。出版した本はキリスト教や福祉に関わる本を中心に、まもなく400冊に及ぶ。書店への販売経路も保ちながらも、行商での販売を楽しまれる。そこで生じる人との関わりが、白井さんにとってはたまらないという。

そして、「人との出会いと関係なくして人間は人生を歩んでいけるはずはないと思います。どうせ歩むんでしたら、皆と元気に助け合い、いたわり合って、お互いの違いを認め合った人生を過ごして行きたいと思います」と結ばれています。


自分の今をすべてを受け入れながら、自分のあるがままに生きる。しかも前向きに取り組まれて人生を味わうように生きる姿に拍手を送りたいと思いました。

理学療法士、作業療法士を志した皆さんも、白井さんの言葉を胸に刻んでいただきたくて紹介いたしました。

夢のようで、未だ信じられない気持ちです。
あのとき、くじけないでよかったと
今、本当に思うのです。
待ちこがれて、やっと私の元に来てくれた
我が子のように、かわいいのです。

初めてのCD『BLUMOON~祈り~』の発売記念コンサートのリーフレットのなかの言葉です。


その冒頭には、 「私に歌の道で何か役目があるならば、どうかこの道を進ませてください」
という言葉で始まっていて、CDアルバム全体に思いを込めてタイトルに『祈り』とつけられました。


コンサートのテーマは『私は夢に生きたい』。

そのソプラノ歌手村上彩子さんのコンサートを今年の3月20日に聴き、4月25日、東京池袋で取材しました。

村上さんは表現の贅沢をそぎ落とした溢れるような言葉で滔々と語られました。

リーフレットの5行の言葉は実に美しく縛っていますが、村上さんが背負ってきた人生を伺って、壮絶な人生と壮大な夢への挑戦のドラマを知りました。


地元広島県福山市の高校を卒業後、大阪音楽大学声楽科に進学されますが、確固たる将来への思いがあったわけでもない進路選択でした。
 

小さい頃から専門領域を練習し将来設計を準備して入学する学生の多いなかで、自らの才能と音楽業界の限界を感じ、卒業後、どうしても自立したいと一般企業の営業職に就きます。
 

「最初から音楽家になれるとは思っていなかったので、大それた職業選択をした訳ではありません」と語られました。
 

人は、歳月が流れる中で、時々「このままでいいのか」と自問する機会が訪れますが、その時の厳しい選択が人生の舞台に大きく関わっていきます。
 

村上さんは1995年3月20日朝、会社に向かう時間がもう少し早ければ、地下鉄サリン事件に巻き込まれるところでした。
 

その時に、「自分は一度きりの人生の中で、本当に魂、心を燃やして生きてみたことがあるか?

このまま夢を追わずには死んでも死にきれない」と、7年間勤めた会社を辞められます。
 

そして、目標は最高の教育の場で学ぼうと東京藝術大学に挑戦されます。
 

それにしても、芸大とは。

美術領域では十年以上挑戦している話も耳にしていますし、私の教え子は、週末を利用して月に2~3回、福岡から芸大まで通って指導を受けて合格しましたが、それでも順調な道のりではありませんでした。


目標を立てて、指導者を捜しましたが、ブランクがありすぎたためか断られる連続でした。

しかし、転機はアルバイト先でであった8歳下の芸大大学院生に懇願してレッスンが始まります。
 

そのころの村上さんは、二つのアルバイトの掛け持ちで、勤務時間は十数時間にも及び、そのなかでの大学受験の準備でした。
 

レストランでのピアノ弾きの仕事の合間に練習、アルバイト先までの往復3時間の電車の中で学科の勉強、休日など無く睡眠は5時間を切っていたとのことでした。
 

極貧の生活を強いられ、家賃の滞納も続き、ガスや電気が止まることもしばしばで、パン一斤で一週間を凌がれた酷い生活もありました。
 

空腹と絶望感から自らをコントロールすることが出来ず、鬱状態やノイローゼ症状にも襲われます。

そして、4度目の挑戦が叶わなかった時に、生きる気力も食べる気力もなくなり、引き篭もり状態のなかで、死をも考えられます。

ご両親が教師で、教師になって欲しいという思いがありました。

しかも、広島県の教員採用試験に合格されたのですが、それも断って会社に就職されたことから、ご両親に救いを求めることを躊躇されています。
 

その死への思いのなかで、かって話に聞いていた長野県上田市の小高い丘にある戦没画学生慰霊美術館『無言館』が頭をよぎります。
 

私も3年前に、この地を訪れましたが、この無言館は戦争で亡くなられた画学生の作品が展示してあります。

近くには、夭折の画家の作品を展示してあります『信濃デッサン館』もあります。
 

村上さんは、死のうと覚悟して数日後に、何かに突き動かされる思いで、この無言館を訪れ、展示してある作品を通して会話されます。
 

作品から「もっと生きていたかった」「もう少し私に時間を」という絶叫と共に、それでも、「お前は生きていられるんだぞ」と叱咤され、立っていられないほど、号泣されます。
 

戦争による命を奪われなければ、日本の画壇を席巻していたに違いない画学生の無念さに心を痛められ、受験の失敗ぐらいで自らの命を絶つということに恥ずかしさを感じられます。

そして、この無言館の訪問は、村上さんにとって画学生の「もっと描きたい」という作品を通しての叫び、熱い思いを代わりに受け止めて、何が何でも合格して、4年間を精一杯学ぶことの誓いの場になりました。

そして、7度目の挑戦で苦しさは夢の大きさに比例するという言葉を体得した瞬間が訪れ合格されます。
 

「藝大に合格した平成15年3月13日午後4時、この日が私の誕生日です。ですから今7歳」と笑顔
で話されました。

平成17年、第5回大阪国際音楽コンクール奨励賞、第15回全日本ソリストコンクール優秀賞など幾多
のコンクールで高い評価を受けられています。

フジテレビドキュメント番組『ザ・ノンフィクション』では2回にわたる1時間の特集番組となり、諸外国にも放映され、舞台が必然的に用意されていきます。
 

会場に足を運んだ人々は絶賛の声で、同じような歌でも村上さんが歌うのは、背負ってきた人生が背
景にあるから人の心を捉えるのではないかと思います。
 

冒頭のリーフレットで「再び歌の道へ戻してもらえたことに深い感謝の思いを込めて(歌わせていただきます)」と、結んでおられます。

07年よりコンサート依頼は優に130回を超え、延べ3万人が来場しています。


皆さんが、理学療法士、作業療法士を目指される日々に、何か励みになればと紹介しました。