「今が一番。何々があったらとか、何々になったらとか、やらない理由をつけないで、今、何ができるか、今、何をしなければならないかを考えて今を力一杯生きることだね」
若い世代に何を伝えたいですかという問いかけに、一風堂店主河原成美さんは、そう答えられました。
偉大な教育者森信三先生が「人間は自分に与えられた条件をぎりぎりまで生かす。これが人生を生きる最大最深の秘訣だ」という言葉を遺され、何か理由を付けて先送りして、本当にやらなければならないことをやらず、誘惑にいたづらに時間を費やすことを戒める言葉と重なりました。
『教師宮澤賢治のしごと』(小学館:畑山博著)のなかに「学校の教師の仕事は、それとほんとうに誠実に取り組んだら、音楽や絵を描くよりもっと素晴らしい芸術行為なのだと、私は信じている。ある意味で、それは神のごとくして、相手の魂の琴線を調律し、かきならすことができるのだから」という件(くだり)があります。
同じように自分の職業であるラーメン業を芸術だ、演劇だ、と取り組まれておられるのが、テレビ東京の人気番組『全国ラーメン選手権』3連覇、「博多一風堂」店主でラーメン業界の寵児となられた河原成美さんです。
普通は選手権で優勝すると、次に敗北すればその輝きが薄れることから連覇への挑戦は避けたいところですが、河原さんは「ラーメン職人選手権」で優勝した後も挑戦されました。優勝者の肩書きが、負ければ店のブランド、価値にもひびが入りますが、3連覇の偉業を達成されました。
平成20年にはニューヨークのお洒落エリアであるイーストビレッヂに「博多一風道ニューヨーク店」をオープン、連日長蛇の列が報じられました。河原さんは「うまいラーメンは心でつくる」と語られます。
作家神渡良平さんから、福岡に住まれているのなら河原成美という人を訪ねてみませんかと紹介され、繋いでいただきました。
話を伺いながら、お父さんが高校の美術教師だったことを聞き、そのお父さんの大輔先生には、私が新任として赴任した学校で教師道を日々の姿勢の中で教えられ、畏敬の念を抱いた先生でした。
先生の作品は重厚な絵画で高い評価を受けて、指導においても多くの教え子を藝大に合格させる名物教師の一人でした。定年に3年も早い退職のときの挨拶は「体力的に絵を教えるのに限界を感じました」という言葉で、教師たる者は熱意を失ったときには教壇から去らなければならないという私へのメッセージだと、その当時から思い続けていました。
その思いを河原さんに語りますと、「父は体力の限界が原因で退職したのではありません」と言われながらいきさつを語られました。河原さんが事件を起こし、 「公判の席で証人席に立った父が涙ながら、すべては私のせいです。私は教師としてたくさんの生徒を教えてきましたが、自分の子どもの一人さえ満足に育てることができませんでした。この子に罪はありません」と訴えられたそうです。
父は私が逮捕された翌日に、世間に申し訳ないと、高校教師を退職しました。57歳の働き盛り、恥も外聞も捨てて、私をかばおうとする父の姿に、心底申し訳ないと感じ、両親のためにも立ち直ろうと決意しました、と語られています。
私は、自分の子供に対峙したときに同じようには行動できないと思いながら、定年を迎えました。
留置場から帰ると兄弟から激しく殴られました。(もう取り繕わなくていい。背伸びしなくていい。もはや失うものはない。ここが俺のゼロ地点だ。俺は俺でやっていこう)とスタートを切られます。何かやろうと考えた河原さんは、子どものころから厨房に立つのが好きだったことを思い出され、飲食業で身を立てようとコック見習いになります。
昭和54年、博多駅前に「AFTER THE RAIN」というレストランバーを開店。「目標は店は3年間休まない。30歳で(当時27歳)店舗を福岡の天神地区に移し、年収五百万円稼ぐ」という数値目標を掲げ一日も休まず頑張り続けます。
失敗とは、立ち直れない人が失敗者なのではないかと思います。
働き過ぎのなかで、医療ミスも重なり臨死体験にも遭遇されています。
九州のラーメン業界に革命を起こそうと常識を破り創造の毎日が展開されます。大名に最初の店をオープンした時は、店内を木と土壁を使って落ち着いた雰囲気が出るように工夫し、BGMにはジャズを流した。当時は画期的な試みで、世間が注目し始めます。そこで、Tシャツを着て、頭には赤いバンダナを巻いた元気な若者が働いている。
従来のラーメン屋のイメージを完全にうち破りました。勿論、店内の装飾にお兄さん(九州産業大学芸術学部教授)の献身的な協力がありました。
一風堂が全国レベルに知られたのは、平成6年、新横浜ラーメン博物館に出店を要請されたことが大きい。館長(岩岡洋志)さんが、全国有名ラーメン店の中から、力のある8店を選りすぐって一堂に会した「ラーメンの殿堂」を造りたい、と声かけられます。
札幌の「純連(すみれ)」、横浜の「六角家」、熊本の「こむらさき」等、ラーメンファンなら誰もが一度は食べたいという老舗の店に参入する形になって、壮絶な市場戦争に打ち勝っていかれます。ラーメンは芸術だという河原さんの創造意欲が客を惹きつけます。
一方で、日清食品が一風堂と純連の”店名入り”のラーメン開発を申し出られ、即席ラーメンで本物のラーメンの味が出せるのかという挑戦は、見事に成功し商業ペースにのりました。
「ラーメンのスープは動物性蛋白質をベースにしていますから、うどんより欧米人の好みに合います。現に博多の店には欧米人がよく来るんです」という河原さんは、当時ニューヨーク、上海への進出計画で多忙の中、私のような一銭にもならない取材に2時間余も対応されました。
人生は常に順風とは限りません。逆境のなか、ふとはいったラーメン店で、自分で出来ない理由を見付けて逃げないで、河原さんの頑張りを思いだして一念発起して頑張るきっかけになればと、今回、紹介しました。
「私は失敗のなかで、父に救われました。言い訳をして前向きになれないことが本当の失敗ではないですか?。失敗をどうい生かすかでしょう」と、過去を振り返られました。
「店の繁盛の秘訣は」との問いかけに、「つぶれない店をつくろうと努力すれば、繁盛する店になります。学校でも合格するためにという視点より、不合格にならないために何をすべきかと同じです。やっぱりQ(クオリテイ=品質)、S(サービス)、C(クリンリネス=清潔)が基本だね」と答えられました。
河原さんとはプロフェッショナルの話になりました。
「お客さんががっかりして帰るのは、お店の従業員たちにプロとしてのプライドが足りないからです。お客さんは、この店に行こうと期待して来てくれていると思ったら、失望させて帰すわけにはいきません。そう考えると、接客もシャキッとしますし、料理にも力が入るものです。従業員がプロとしてのプライドを持てば、お店の空気が澄み切ってきます。雰囲気がシャキッとしていれば、お客さんは『ここは何だか気持ちのいい店だな』と満足してくださいます。この従業員のプライドを育てるのが、経営者の仕事です。だから従業員一人ひとりをよく理解し、励まさなければいけません」と熱く語られました。
「5年ほど前のことです。あるうどん屋さんが『売り上げがさっぱり伸びない。何が悪いのか、アドバイスして欲しい』と頼み込んでこられたので行ってみると、お店に元気がなかった。ぼくが『こんにちは』と挨拶して入って行っても、従業員は『どこの誰が来たのか?』という顔で、挨拶もない。トイレは臭くて、棚は物置状態でした。うどんの味がどうのこうのという以前の問題でした。
ところがその店の経営者は、『店長が悪いんですかね』という。『そうじゃありません。お店をそういう状態になるまで放って置いたのは、あなたです。あなたがお店に愛情を注ぎ、スタッフを育てようと努力しなかったら、お店は育ちませんよ』とはっきり言いました」肝に銘ずべき言葉になりました。
関わった人が「『河原さんはカッコいいな。あんな人になりたい』と思ってもらえるならば最高にうれしいです。人間一途に命を賭ければ、必ずものになるものです。まったくの落ちこぼれでしかなかった僕ですら『ラーメン業界に河原あり』と言われるようになれたのですから」と語られました。
理学療法士、作業療法士のプロフェッショナルをめざして、今を力一杯頑張ってください。