絶望の淵から輝く舞台への壮絶な挑戦 ~ソプラノ歌手 村上彩子さん~ | 清々しく、やさしく、丁寧に、力強く生きる  長瀬泰信

清々しく、やさしく、丁寧に、力強く生きる  長瀬泰信

~人は言葉により励まされ、癒され、自分の世界を築いていく~

夢のようで、未だ信じられない気持ちです。
あのとき、くじけないでよかったと
今、本当に思うのです。
待ちこがれて、やっと私の元に来てくれた
我が子のように、かわいいのです。

初めてのCD『BLUMOON~祈り~』の発売記念コンサートのリーフレットのなかの言葉です。


その冒頭には、 「私に歌の道で何か役目があるならば、どうかこの道を進ませてください」
という言葉で始まっていて、CDアルバム全体に思いを込めてタイトルに『祈り』とつけられました。


コンサートのテーマは『私は夢に生きたい』。

そのソプラノ歌手村上彩子さんのコンサートを今年の3月20日に聴き、4月25日、東京池袋で取材しました。

村上さんは表現の贅沢をそぎ落とした溢れるような言葉で滔々と語られました。

リーフレットの5行の言葉は実に美しく縛っていますが、村上さんが背負ってきた人生を伺って、壮絶な人生と壮大な夢への挑戦のドラマを知りました。


地元広島県福山市の高校を卒業後、大阪音楽大学声楽科に進学されますが、確固たる将来への思いがあったわけでもない進路選択でした。
 

小さい頃から専門領域を練習し将来設計を準備して入学する学生の多いなかで、自らの才能と音楽業界の限界を感じ、卒業後、どうしても自立したいと一般企業の営業職に就きます。
 

「最初から音楽家になれるとは思っていなかったので、大それた職業選択をした訳ではありません」と語られました。
 

人は、歳月が流れる中で、時々「このままでいいのか」と自問する機会が訪れますが、その時の厳しい選択が人生の舞台に大きく関わっていきます。
 

村上さんは1995年3月20日朝、会社に向かう時間がもう少し早ければ、地下鉄サリン事件に巻き込まれるところでした。
 

その時に、「自分は一度きりの人生の中で、本当に魂、心を燃やして生きてみたことがあるか?

このまま夢を追わずには死んでも死にきれない」と、7年間勤めた会社を辞められます。
 

そして、目標は最高の教育の場で学ぼうと東京藝術大学に挑戦されます。
 

それにしても、芸大とは。

美術領域では十年以上挑戦している話も耳にしていますし、私の教え子は、週末を利用して月に2~3回、福岡から芸大まで通って指導を受けて合格しましたが、それでも順調な道のりではありませんでした。


目標を立てて、指導者を捜しましたが、ブランクがありすぎたためか断られる連続でした。

しかし、転機はアルバイト先でであった8歳下の芸大大学院生に懇願してレッスンが始まります。
 

そのころの村上さんは、二つのアルバイトの掛け持ちで、勤務時間は十数時間にも及び、そのなかでの大学受験の準備でした。
 

レストランでのピアノ弾きの仕事の合間に練習、アルバイト先までの往復3時間の電車の中で学科の勉強、休日など無く睡眠は5時間を切っていたとのことでした。
 

極貧の生活を強いられ、家賃の滞納も続き、ガスや電気が止まることもしばしばで、パン一斤で一週間を凌がれた酷い生活もありました。
 

空腹と絶望感から自らをコントロールすることが出来ず、鬱状態やノイローゼ症状にも襲われます。

そして、4度目の挑戦が叶わなかった時に、生きる気力も食べる気力もなくなり、引き篭もり状態のなかで、死をも考えられます。

ご両親が教師で、教師になって欲しいという思いがありました。

しかも、広島県の教員採用試験に合格されたのですが、それも断って会社に就職されたことから、ご両親に救いを求めることを躊躇されています。
 

その死への思いのなかで、かって話に聞いていた長野県上田市の小高い丘にある戦没画学生慰霊美術館『無言館』が頭をよぎります。
 

私も3年前に、この地を訪れましたが、この無言館は戦争で亡くなられた画学生の作品が展示してあります。

近くには、夭折の画家の作品を展示してあります『信濃デッサン館』もあります。
 

村上さんは、死のうと覚悟して数日後に、何かに突き動かされる思いで、この無言館を訪れ、展示してある作品を通して会話されます。
 

作品から「もっと生きていたかった」「もう少し私に時間を」という絶叫と共に、それでも、「お前は生きていられるんだぞ」と叱咤され、立っていられないほど、号泣されます。
 

戦争による命を奪われなければ、日本の画壇を席巻していたに違いない画学生の無念さに心を痛められ、受験の失敗ぐらいで自らの命を絶つということに恥ずかしさを感じられます。

そして、この無言館の訪問は、村上さんにとって画学生の「もっと描きたい」という作品を通しての叫び、熱い思いを代わりに受け止めて、何が何でも合格して、4年間を精一杯学ぶことの誓いの場になりました。

そして、7度目の挑戦で苦しさは夢の大きさに比例するという言葉を体得した瞬間が訪れ合格されます。
 

「藝大に合格した平成15年3月13日午後4時、この日が私の誕生日です。ですから今7歳」と笑顔
で話されました。

平成17年、第5回大阪国際音楽コンクール奨励賞、第15回全日本ソリストコンクール優秀賞など幾多
のコンクールで高い評価を受けられています。

フジテレビドキュメント番組『ザ・ノンフィクション』では2回にわたる1時間の特集番組となり、諸外国にも放映され、舞台が必然的に用意されていきます。
 

会場に足を運んだ人々は絶賛の声で、同じような歌でも村上さんが歌うのは、背負ってきた人生が背
景にあるから人の心を捉えるのではないかと思います。
 

冒頭のリーフレットで「再び歌の道へ戻してもらえたことに深い感謝の思いを込めて(歌わせていただきます)」と、結んでおられます。

07年よりコンサート依頼は優に130回を超え、延べ3万人が来場しています。


皆さんが、理学療法士、作業療法士を目指される日々に、何か励みになればと紹介しました。