清々しく、やさしく、丁寧に、力強く生きる  長瀬泰信 -2ページ目

清々しく、やさしく、丁寧に、力強く生きる  長瀬泰信

~人は言葉により励まされ、癒され、自分の世界を築いていく~

長谷川穂積を育て上げたマル暴刑事から名トレーナーへ、山下正人さん
プロフェッショナルとは~第二、第三の長谷川を育てる夢を追いかけて



 WBA元世界フェザー級チャンピオン長谷川穂積選手の所属する真正ボクシングジムは、神戸市の中心街三宮から電車で十分足らずの場所にあります。

 ジムの名前は、会長、創設者または地域の名前が多い中で、ジム名「真正」は、嘘、偽りのない真っ正直な人生を生きるという山下正人会長の信念を表して命名されています。


 長谷川選手は、ことあるごとに、今の自分があるのは会長のおかげと感謝しています。会長自身も「今の自分があるのも長谷川のおかげ」と感謝しています。この師弟からは「絆」いう言葉以上のものが感じられました。



 それを証明するかのように、試合前のリング上で必ず会長と長谷川選手とで行なう儀式があります。「左のグローブはお前、右が俺、一緒に闘おう」。そんな言葉が交わされます。


 山下会長は、まったく素人で、長谷川選手のトレーナーになりました。会長はかって、兵庫県立村野工業高校時代は、甲子園を夢見る野球少年でした。高校卒業後に兵庫県警に勤務、暴力団対策課の刑事として在職中に、体力を鍛えるというより、体を動かしたいという思いで千里馬神戸ジムに通い始めたことが、ボクシングとの関わりでした。



 そんなとき長谷川選手の専属トレーナーが、当時の長谷川選手の力量から自分の方がやれるのではと、現役復帰したために、当時の会長から後任を要請され、そこで、小学校二年から父親のボクシング指導を受けた経歴を持つ長谷川選手との深い関わりが出来ていきます。


 最初の頃の印象は、「唯一の左利きぐらい」だったと当時を振り返られました。専属となり、長谷川選手のスピードに驚かれます。長谷川選手にとってかけがえのないトレーナーになろうと、ビデオや試合を見ながら技術を身につけていかれます。

 「ボクサーとトレーナーは相互の深い信頼がなければ、成果は期待できません。その信頼の絆育むには、選手がこの人のためにも強くなろうと思える人格が、トレーナーにないといけない。そのためには、トレーナーにボクサーを納得させるだけの技術や解釈力や、それを生み出す経験が必要なんです」



 ボクシングは未経験ながらも、その真摯な努力と、野球や刑事で培った相手を読むという的確な分析力と、正直に生きる会長の人間力に長谷川選手も次第に傾倒していきます。


 長谷川選手が十四度防衛という偉大なる世界チャンピオン、タイのウィラポンへの挑戦では、下馬評を覆しての勝利、会長の策は絶大な指南として、絆が深まっていきます。



 ボクシングで自分の人生を表現したいと決意したひたむきな長谷川選手の練習姿勢に、より輝く舞台をと、会長は新たにジムの創設に動かれます。


 世界チャンピオンのジム移籍は当然の事ながら容易ではありませんでした。会長の熱い思いに、一時は引退もよぎった長谷川選手の魂に火がつきます。天が二人に舞台を用意したとも言えます。



 スポーツの世界に限らず、その競技や仕事に全く未知の存在の人が、偉大なる選手を育てたり、素晴らしい業績やリーダーシップを発揮することは決して珍しいことではありません。〇六年、日本ボクシング界トレーナーの最高の名誉とされるエディ・タウンゼント賞を受賞されています。


 人には言えない苦労と、トレーナーとしてのライセンスをとるまでの研鑽については、相当な苦労と努力があったことが言葉の片鱗に感じられますが、会長はそのことは避けるようにして話されません。真のプロフェッショナルは背負ってきた人生を、言動で醸し出すと思いました。



 人は公式の履歴書の他にもう一枚の履歴書を持っています。そのもう一枚に人生が詰まっていて、そこに人間的魅力や希望を感じさせます。


ジムのコンセプトは、チームワーク。それは、中学、高校時代の野球部生活を通しての強いチーム作りに何が必要かを学んでいました。選手の意見を良く聞く。その意見を取り入れる。全体から見て、大義と自分の信念を揺るがず決断していく姿にジムが一つになっていきます。



 会長の指導は、ボクシングから離れて過ごす人生の方が遙かに長い、世界チャンピオンを育てること以上に、人の道を諭し、関わる人が、真正ジムでボクシングをしたものは人間力が違うということを徹底して教え込まれます。


 アメリカの企業実験で、企業の成果を上げるためにどのような条件が必要か、工場の照明、設備投資などより、何よりも人間関係の構築が全てであった報告がありますが、そのことと重なるものを感じました。



 スポーツの世界も同じではないかと思います。


 会長の自らを計らわず逃げないで真っ正直に生きる姿勢から発せられる言葉に力が加わります。会長のためにという思いが行動に溢れるような雰囲気ができあがっていきました。


 「身を以って教える者には従い、言を以って教える者には争う」(『十八史略本』)の言葉が髣髴されます。



 長谷川選手の強さは、天性のスピードと勝負感、それに教えても容易には出来ない、相手の攻撃に目をつぶったり、防御の姿勢をとるより、体をかわして避ける高度な技術があります。 


 ジムには二十人のプロ選手と、体を鍛える一環として通ってくる八十人ほどの練習生がいます。



 ボクシングでは減量が練習の厳しさ以上にきついと言われるが、会長から出た言葉に絶句しました。


 「体重を試合前に落とせない選手というのは、プロとして失格で、そんな選手は試合を組みません。それは指導して減量するのではなく、プロならば自分の責任で取り組む最低限の責任です」と、指導以前の問題と片づけられました。


 自分でなすべき事をきちんとする事が前提となっていて、わからない部分を教えるという姿勢です。
 「ボクシングを職業としている者が、特段の事情がない限り、練習を休むとことは考えらない」
 「そこができて、手をさしのべて舞台を用意してあげる」会長が言葉を添えられました。
 「練習もだらだらとするのではなく、目一杯練習をします。私が指導するのは見ていて直すべき技術的なことだけですね。頑張れ!と声を掛けるのは練習生に対してであって、プロの選手に励ましたりすることはありません」と語られます。

試合が決まると練習に力が入るということが普通の中で、練習に意欲的でないのは試合を組まない。かませの試合は絶対に組まない。



 そのなかで、平成二十二年度はジム年間最高勝率を記録している。
 長谷川選手の対戦相手も強豪との対戦ばかりです。


 タイトル防衛が一ラウンドでKOの試合が続いていましたので、長い試合になったときの不安を危惧して尋ねますと、 「十二ラウンド目一杯戦うトレーニングをしています。たまたま早かっただけです」



 真正ジムに通ってくる選手や練習生の挨拶がしっかりしていることも気づかされます。 玄関先に来客の姿が見えると、誰かがするだろではなく、身近な者がさっと動く風土がありました。ジムが出来てまだ二年。会長は言葉を選びながら


 「私が指導したのではなく、気づいたら自分から動く。ボクシングというのは最も危険なスポーツです。何とか、適当にという世界ではないんです。そこで生きるには、日頃からどうすればいいかと考え行動することを体に染みつかせておかなければならないんです」と、語られました。



 長谷川選手がタイトル防衛を重ねていくのは、会長の対戦相手の弱点の的確な分析力が大きいと専門家もその卓抜した洞察力には舌を巻く。


 「対戦が決まると相手の選手のビデオを何度も見て研究をします。私の思うことを伝えますが、必ず選手の意見も聞いて、当日の試合をイメージします。勝つために大変だと思うことはプロとしては恥ずかしいことです」と言葉を重ねられます。


 量の消化が質への変化を来たす。何事においても、我々はそのような体験を経験している。平々凡々と消化するのではなく、一つ一つその根底になるものを確認しながら、その特徴を見破らなくてはいけない。



 人はそれぞれプロの道にはいっていきます。


 プロとは、当然しなければならないことを指導されてするのではなく自らすること、そんなことを教えられた思いでした。



 十一度目の防衛で、WBO世界チャンピオン・モンティエルに負けます。


 勝負を決定づけた一撃は、長谷川の右足を、モンティエルの左足が踏みつけて打ったようなパンチを録画で映し出していました。

ロープダウンをとってカウントしても良かったのでは~そんな選評にも、潔く勝ったものが強い。負けは負けと、一切言い訳はせず長谷川選手の気持ちが前向きになるように次の試合に向けての準備に切り替えています。


 再戦が難しく、減量苦もあって、二階級あげて迎えた世界タイトルマッチで無敗のブルゴスをマットに沈めます。


 会長はジムに来る練習生一人一人は、自分の子ども同然、それぞれ性格も違う、一人一人と対話しながらどのようなプログラムがいいかを設計する。「梅は切ったら伸びるが桜は切ったら朽ちる」という言葉がありますが、その適性を見抜く慧眼が、指導者には求められます。


 そして、今年の四月八日、指名試合として世界一位の強豪を迎えての防衛戦。序盤はかなり優勢に試合を勧めながら、一発に沈んでしまいます。



 しかし、試合後の記者会見での潔さに、清々しさが伝わってきました。


 スポーツでは、勝ち続けることは至難の業です。逆境にあるときこそ、指導者の手腕の発揮どころで、再び、人々の期待に応えられる舞台を築かれると信じています。



私自身も、先輩の指導者から、選手が苦しいときこそ手腕を発揮するのが、真の指導者だと、言葉や対応の在り方を教えていただきました。


 座右の銘をと最後に求めましたが、真っ正直に生きることを再度強調されました。
 人は着飾ったり繕ったりして、自らストレスを背負う。正直に生きることが、いかに疲れないかを教えられました。



 目標は、「第二、第三の長谷川を育てること」、と目を輝かされる。
出来ないことを出来るようにと教え導くことが指導者の使命であるが、会長に真の指導者の風格を感じました。

「努力する者は希望を語り、怠ける者は不満を語る」の言葉を再確認の出会い




静岡県藤枝市で講演の後、静岡体文協事務局長の佐野つとむさんに連れられて、講演会場近くの小料理屋に入りました。壁に掛かっていた一枚の重厚な絵に目を奪われていると、佐野さんから「絵、わかりますか?」と声をかけられました。


絵についての知識も造詣も全くなく、表現された芸術作品はその人の人生を背負っているという私のなかにある、ある種の琴線に触れたのかも知れません。


黙って見入っていますと、この絵の作者が両腕がない人であることを佐野さんからお聞きして、その生み出すエネルギーの源は何かを知りたいという思いがこみあげて訪ねていきたいという衝動にかきたてられました。


両腕を失っても絵を描くという奇異な存在というよりも、それ以上に言葉では表現出来ない魅力を絵が醸し出していました。



一昨年の秋、その画家水村喜一郎さんの住む千葉県鴨川市花房の画邸を訪れました。訪問のお願いの何度かの手紙のやりとりのなかで、芸術家は気難しいという私の先入観は払拭されていました。


東京都の隣県千葉といっても、房総半島の最南端は相当遠く感じます。羽田空港から東京湾高速道路が割引になったこともあって、レンタカーで向かいました。


水村さんは、小学校3年の時に、学校近くの変電所で2万2千ボルトの高電圧電線に触れ、両腕を失った画家です。


今の時代なら考えられないほど危険場所が不用意にあって安易に近づけた時代でした。左手から右手に電流が走り抜け、命に関わる損傷を負われますが、医者も驚くほどの奇跡的な回復力で助かります。


中学では腕を失ってのハンディキャップをもろともせずサッカー部で活躍され、人望と卓抜したリーダーシップで主将まで努めています。かって、松本サリン事件第一通報者河野義行さんを訪ね、衝撃的な言葉が脳裏に刻まれたことと重なりました。


犯人にされたときの心境をうかがったときに、「それも神の意志なら受け入れよう。必要と有れば救われるであろうという心境でした」と答えられ、犯人に対しては「怒り、恨みのぶつけるエネルギーがあれば家内の看病に使います」と、淡々と話され、オウム真理教信者から改心され植木職人になられた人に庭の手入れを許されておられます。


神は河野さんに試練を与えられ、心ある人の灯台になることを強いたのかも知れないと、河野さんのお叱りを受けそうですが、そう感じました。


同じように、水村さんにも「失ったものを悔やむより、与えられた条件を最大限に生かしなさい」という、神の言葉の実践者として水村さんに命じたのだと、話を伺いながら感じました。


筆を口でくわえ、絵の具は足を器用に使って大きなカンバスに描きたいという衝動のまま筆を走らせます。


全く語られませんでしたが、大切なお子さまを交通事故で亡くされています。家族の写真に話を向けたときに、その辛さが大きいのか「話すと辛い」と遮られました。子どもさんへの熱い思いは、喘息を患った子どもさんのために、生活の場を東京から房総半島南端の鴨川に変えられたことで充分伝わってきます。


画廊から遠くに広がる太平洋を眺めながら、『月の沙漠』『里の秋』などの童謡は、房総の風景から生まれるたことを教えられました。ラクダ、王子様、お姫様が月明かりの沙漠を往く風景は、アフリカか中近東の異国のなかで作られたと思っていました。


人を訪ねて、思わぬセランディピティ(掘り出し物の意)に出会うことがありますが、何か特別な知識を得た快感が走りました。


家族4人でのスペイン旅行で、傍でデッサン用の鉛筆を削られた奥様が、昼食時間を挟む形で訪れた不謹慎な私に昼食を用意される。水村さんと2人で食べながら、必要以上に手を差しのべないその姿に感動さえ感じました。


コップに注がれたビールを器用に飲まれる姿に、出来ないと決めつけないで出来るようにするという努力の成果が、他者を感動させることを学んだ瞬間でした。


「傘をさすぐらいが一人で出来ないぐらいです」と言われ、お茶も容器を傾けて器用に飲まれます。一緒に伺った行きつけの飲み屋さんでも、お店の方が普通のコップに注がれた酒を違和感なく口だけで飲まれました。


「腕を失って、人に感謝することを覚えた」と、人の支えなしには生きられないことを体得した言葉を発しながら笑われます。


水村さんと語らいながら、実にいい出会いをされていることを感じた。水村さんのお人柄と風貌からくる人間的な魅力が人を結びつけているのかも知れません。


養護学校時代の伊藤久吉先生は、水村さんの人生の根幹をなしていて、大学進学について、家庭の事情を踏まえての進路指導に関わられ、入学金の配慮だけでなく、水村さんを献身的に支え、先生の郷里山形まで連れて行かれています。そして、中村天風という稀世な偉大な人物との出会いの旅を計画し、京都まで連れて行かれ、人としての生き方を諭されます。まさに人間道を歩む出会いとなっています。


人が人を結びつける、繋げるといったほうがいいかも知れません。その繋がりで、損得や謀のしがらみが生まれる場合もあり、時にはそのために舞台から引きずり降ろされたり、厳しい道を強いられることも日本の風土には存在しています。


キッコーマンの茂木社長が、「日本では、いい人というのは、自分にとって都合がよいかどうかは重要な要素であるが、アメリカでは倫理観、正義感の高い人がいい人である」と話されたことを記憶していますが、長く生きていると、ほんとうにそうだなあと感じることが多いように思います。


私が救われているのは、その域に踏み込まない常に人間道を歩まれる方々との繋がりに支えられている、というより、埋没を思いとどまらせてくれています。


水村さんの話に戻ると、私も中村天風師については少々囓っていたので話が展開しました。中村天風師は、過酷な『行』をインド奥地でして、その時の体験で得た死生観、人生観の言葉が力になって、多くの人々に勇気を与え続けてきた偉大なる人です。


水村さんも、この時の出会いで、自分の感情の決定者は自分であり、マイナス思考ではなく、前向きに生きていく気力が確立したことを語られました。


水村さんが、大きな障害を背負いながら、出来ないことをそのせいにせず、どうしたら出来るようになるか、そしてその努力をしながら必死に乗り越えられてきた生活を伺い、「怠ける者は不満を語り、努力する者は希望を語る」という言葉を再確認した出会いでした。他人の責任にしたり、言い訳は何一つ成長に繋がらないし、自分を弱くしていく。


鳶職のお父さんは、後継ぎにと腕を失った後も願っておられた。しかし、水村さんが小さい頃から絵を描くのが大好きな気持ちをお母様がしっかりと支えられていました。幼少の時の作品から高校時代の作品まで大切に保管されていました。


しかも、父親の職人気質から来る横暴さにも耐えて、お母様のひたすら明るく振る舞われプラス思考の生き方が、水村さんの人生に刻まれていきます。


個展を開けるようになって、銀座の現代画廊で個展を開いたことが縁で、随筆家岡部伊都子さんから激励の手紙が届きます。お礼にと岡部さんが京都を訪れたときに、作家水上勉さんからいただいていた和紙、竹和紙を差し出された。それに絵を描いて水上さんに見せたことで水上さんとの縁が出来、竹和紙にも描かれるようになります。竹林で筍が成長に併せて一枚一枚皮を脱ぎ捨てたものを集めて漉いた竹和紙は一枚一枚表情が違うと言われます。 水上勉さんから高い評価を受けた絵が価値を生んでいきます。


水村さんの絵は、旅で出会った風景や鴨川での生活で見られる魚、農産物が絵の対象となっています。その絵が描かれている竹和紙の地が、音楽のBGMのような役割を果たしているという表現は、水村さんに失礼ではないかと躊躇いを覚えながらエピソードとして披露しました。


水上さんとの出会いで、息子でもある無言館、信濃デッサン館を主宰する窪島誠一郎さんと出逢います。


この無言館と信濃デッサン館は上田市郊外にあり、戦争で舞台に立てなかった美大の学生の遺作が掲げられている無言館と、夭折の画家の作品が展示されている信濃デッサン館は、信州の素敵な風景のなかで燦然と輝きを放っています。


時々この地を訪れていますが、命を奪われた方々の作品を前に生かされていることに感謝して、必要とされるところでささやかながら力を尽くしたいと決意することでした。



無言館:美術学校、独学で美術を学んでいた学生が戦争にかり出され、若くして戦没した画学生の遺作(遺品を含む)を集めた美術館。場所は上田市塩田平というところですが、別所温泉が近くにあります。名古屋からだと松本から車で一時間半、鹿教湯温泉郷を抜けて、上田市の生活道路から山道に入りますが、近づきますと道路沿いに案内表示がしてあります。入館料は千円。窪島誠一郎館主は作家水上勉氏の息子で、水上勉さんがかって東御(とうみ)市(上田市と小諸市に挟まれた地域)に住んでいたことが縁となっています。灯りを抑えた館内が独特の雰囲気を醸し出しており、表現の場を奪われただけでは済まされない感情がこみ上げてきます。近くに信濃デッサン館もあり、ここには夭折の画家の作品が展示されています。


退職して2年余の歳月が流れ、何かにとりかかるには相当のエネルギーが必要と勝手な言い訳を用意して逃げる一方で、いたずらに歳月が流れることを恐れて、何か力を与えて欲しいと願っているときでした。

式辞に先立ちまして、
 3月11日発生いたしました、三陸沖を震源とする東北地方太平洋沖地震により、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された皆様、そのご家族、関係者の方々に対しまして、心よりお見舞い申し上げます。併せて、一日も早い復旧、復興をお祈り申し上げます。 

医者で詩人、作家でもありましたハンス・カロッサという人が、「ただ一人の人に正しいことをするより、幾千の人たちのことを心配することのほうが楽なのです」という言葉を遺しています。


 「ああかわいそうだなあ」、「こういうことではいけないなあ」と、心配するだけなら、たとえ相手が何百万人いようが、誰にも出来る簡単なことです。ところが、そのなかのたった一人でさえも、実際に救うとなると、なかなか出来るものではありません。ただ一人の人に人として為すべき関わりをする、ことを具体的に始めたいものです。
 

 被災された方々の声につぎのようなものがありました。

 青森県は八戸市白銀1丁目、漁業を営む阿部俊夫さん。81才。「1960年のチリ地震津波とは比べ者にならないほどの被害。自慢の漁船も流されちまって、どこさいったかわからねえ。でも、下ばっかり向いてたって暗くなるばかりだから、とにかく明るく働くんだ。まあなんとかなるべってな」


家を流される以上に、仕事の糧を奪われる辛さを抱えながら、前向きに生きる姿に心を奪われました。
 

福島市天神町、大和伊助さん。89才。「みなさんに助けられているから、不便だけれど苦痛じゃないですよ。年の割には元気だって言われます。たいした病気をしていないからね。ただ、団体生活は初めてだから、早く家に帰って自分の好きなものを食べたいね。被災地以外のあなた方こそ、元気で頑張ってください」


 不満不平を抑えて相手を気遣う生き方に、奮えるような、湧き出る力をいただいた思いでした。

そんな思いで、式辞を送ります。

式辞

 自分の人生をどのような舞台で表現するかという準備の大切なスタートの時を迎えました。ご入学おめでとうございます。
沢山の進路選択の中で、本学院でと決意された皆さんに、ただいま、入学許可をいたしました。

 その記念すべき場において、多くのご来賓の皆様、保護者の方々を迎え、平成二十三年度、福岡和白リハビリテーション学院の入学式を挙行できますことは、私ども教職員一同にとりましては、新入生の人生に関われることの高まる気持ちで一杯です。


 今日の舞台に立つまで、そしてこれからを物心両面で、支えて行かれる人のご恩に報いるために、本日の入学式は、なりたいという思いから、ならなければならないと行動に移す第一日で、支える方々への誓いの日、約束の日でもあります。


 理学療法士、作業療法士の国家試験に叶う力に変化させることは並大抵ではありません。

 よく「努力したからといって成功するとは限らない。しかし、成功した人は間違いなく努力している」という言葉がありますが、私どもにとってありがたいことは、理学療法士、作業療法士の国家試験への準備については、努力した人は間違いなく資格を取っているという現実です。


専門学校だから何とか資格を取ってと、打算的になるのではなく、おそらく皆さんの人生においてあの3年間、夜間コースにおいては4年間ほど厳しい努力をしたことはなかったと、自分をほめてあげるような実績を作らない限り、進むべき道が見えなくなってしまいます。


自分の人生のドラマの主人公は自分自身、その主人公を演ずるための経済的な支えを得るための学びでもありますから、あらゆる大人の商業主義的な短絡的誘惑に身を委ねることなく、覚悟して過ごしてください。


医療系の学校で学ぶことは困難を伴いますが、将来が約束されているからこその自明の理です。経済的には大変だけれども、あんなに頑張っているから応援してあげようという雰囲気を生みだし、自分が多くの人に支えられ、応援されていることを受けとめ、感謝する気持ちが、自分の力をより引き出させると思います。


南米アンデスに伝わる民話に『ハチドリのひとしずく』という話があります。


 森が火事になって、動物たちが我先にと逃げていく。そこに、クリキンディというハチドリが、くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んできては火の上に落として、行き来しています。動物たちが、「そんなことをして何になるんだ」と、嘲笑します。クリキンディは答えます。
 「私は、私に出来ることをしているだけ」自分に出来ることを、言い訳をしないで精一杯やるという厳しさを持って過ごしてください。


フィリピンから来日された看護師エバー・ガメッド・ラリンさんが勤める、日赤足利病院を訪ねましたが、全く知識のない日本語を学びながら日本の看護師国家試験に、1年足らずで外国人の昨年度の合格率1.2パーセントのなかでの合格者わずか3人の一人です。


 食事の準備をするためのスーパーへ行く以外は全て勉強でしたと涙ぐみながら語っておられました。書きあげた大学ノートは百冊にも及んでいます。


普通のことをしていては普通の結果しかでない、人並み以上のことをして人並み以上の結果がでる。良いことをすれば良い結果がでる。人生を生きていくときの因果の法則です。


 リハ系の学校が入りにくかった時代は、入学試験に合格することで、あとは普通に頑張っていれば国家試験に合格できました。しかし、超高齢化社会に対応すべく、学校が増えて、選ばなければどこかに入れるようになった今日では、相当の努力が必要であることを肝に銘じて、これからの学生生活を送って下さい。


 私ども教職員一同、厳しさとは優しさと心して、時にはかわいそうだという気持ちを振り切って、厳しく指導いたします。何事もプラス思考で受けとめて、強い人間力を育んでください。


山崎豊子さんの『沈まぬ太陽』の主人公恩地元のモデルとされた小倉寛太郎さんを訪ねたとき、紹介いただいた、25年前に日航機墜落事件で奇跡的な生還をされた川上慶子さんのお兄さんの書かれた詩の最後の十行です。北海道旅行の帰りでご両親、妹さんは亡くなられています。


 母さん寒くはありませんか!
 そこで あなたの笑顔はいつも消える
 母さん寂しくはありませんか
 しかし 僕の中にあなたはいつも生きている
 母さんもう夜はふけました
 あなたはどうか先に休んでください
 僕はもう少し頑張ります 明日のために
 あなたにもらった宝石を失わぬために


 新入生の皆さんも、保護者の方々からいただかれた、この舞台に立つことの出来た宝石を失わないようにしっかり磨いて、輝かしいものにしてください。


 私が学生時代を過ごした信州に無言館という美術館があります。戦争で命を奪われ、絵を描くことを断たれた若い画学生の方々の遺作品が展示されています。今年から難病を背負う娘も同行しますが、ここ数年毎年訪れて、生かされていることに感謝して、また来年もこられるようにと、近くにある内村鑑三記念館の近くで一晩過ごして帰ります。


絵の前で、あなたは生かされているではないか、ハチドリの一滴の心境で頑張るようにと声をかけられた気持ちになります。その内村鑑三先生については、皆さんも高校時代に習われたと思いますが、皆さんは、この美しい地球に生まれた唯一の存在です。名声や、富、文学などは遺そうと思ってものこせるものではない。遺そうと思わなくても遺るのがその人の背負う人生、さすれば崇高なる勇気ある人生を遺せと語っています。


 東北大震災で沢山の命が失われました。その方々の中には、理学療法士、作業療法士を目指された方も必ずおられるに違いありません。その方々の無念さを乗り越えて、今、生かされていることに感謝して、ハンス・カロッサの言葉を噛みしめて、力強い第一歩を踏み出してください。


 終わりになりましたが、保護者の方々におかれましては、くれぐれもご健康に留意され、ご子息の教育活動の最大の支えになっていただきたくお願いして式辞といたします。



平成23年4月5日 福岡和白リハビリテーション学院 

学院長 長瀬泰信

 バイマーヤンジンさんは、日本で活躍されている唯一のチベット人歌手で、チベット遊牧民のために小学校建設を目的とした講演会、コンサート活動を行っておられます。

 

 その活動で得られた講演料でチベットに現在九つの小学校と一つの小学校が開校され、各学校あわせて千数百人の子どもが学んでいます。


 ヤンジンさんの歌唱力は歌手加藤登紀子さんが絶賛されていますが、チベットの大草原を舞台で培ったその歌唱力が広島アジア大会をはじめ、韓国での音楽祭、APEC大阪大会、阪神・淡路大震災救援演奏等、さまざまな音楽祭でいかんなく発揮され、六年前のNHKアジアハートフルコンサートでも高く評価されました。


 教育者・森信三さん(前回紹介)の言葉に「人間は与えられた条件をギリギリまで活かす。それが人生を最大最深に生きる秘訣である」というのがあります。 

 

 ヤンジンさんの、これができたらとか、これが整ったらとか思わないで「今が一番」と言い聞かせ、困難の克服は自分の成長に不可欠と頑張られた姿に比べて、学生の皆さんが、恵まれている環境でより一層頑張っていただければと紹介します。


 チベットに生まれたヤンジンさんは、文字を知らないためにお母さんが、不動産のことで騙されたことや、旅行で「男」、「女」の文字が読めずトイレを間違ったこと、薬の使用方法が理解できなかったこと等で、お母さんは教育の必要性に気づかれ小学校に通うのに便利な町に定住、将来は高校で教育を受けることを望んでおられました。

 ヤンジンさんは、家の近くに高校が無く、高校に合格したことで、なんとか三百㌔(福岡~鹿児島間の距離に相当)離れたところにある高校に進学されます。ヤンジンさんは絶対に大学まで行って、先生になって親を楽にさせてあげようと決意されます。

 私たちは、チベットの壮大な風景の一面だけ見て羨ましがったりすることがありますが、遊牧民の辛さについて「遊牧民は真っ青な空、広い草原とプラス面だけ見ればいいですが、遊牧の時に雷が来たときなどは命に関わる危険があるんですよ!」と怖さを語っておられます。


 報道に限らず、人が語る言葉にも、それぞれの狙い、思いがあってのことだと思いますが、学ぶこと、聞くことによって深まり、そのことで理解する力、判断する力が育つていきます。


 自分の高校生活を振り返って「日本の高校生は、お化粧の仕方も細かいし、時間がありますよね。あんな時間があるなら、もう少し自分の夢に向かって勉強した方がよいと思います」と語られました。

 日本には蛍雪の功(苦労して学問お積むこと)という言葉が遠のいていますが、ヤンジンさんご自身は、食べる時間を削って寝る時間も惜しんで勉強されました。寮生活では午後十時で消灯になり、お金持ちの人たちは懐中電灯を買って、布団の中で勉強するのだそうです。 
 上海や北京の高校生と同じ試験を受け上級大学にはいるためには、競争社会においては人よりも時間をかけて勉強することは避けられないことだそうです。ヤンジンさんは、家が貧乏なために懐中電灯が買えず、小さな電球が24時間ついている公衆トイレの灯りを利用されます。

 字がだいたい読める程度の明るさだったそうで、「冬は寒くて震え、夏は臭くて外にでて深呼吸して、本を読む繰り返しでした」と、当時を懐かしそうに語られました。

 厳しい競争に打ち勝って、国立四川音楽大学声楽学部に進学され西洋オペラを専攻されます。

 「普通のことをしていては普通の結果しかでない。人並み以上のことをして、人並み以上の結果がでる」と教えていただいたのは、長崎県立国見高校校長でサッカー部総監督の小嶺忠敏さんですが、その言葉を思い出します。


 競争という一面を避けられないで生きる私たちは、あらゆる機会を自分の心の成長と夢の実現に結びつけたいものです。


 バイマーヤンジンという名前は、チベット語ではベマヤンジェン「ハスの花にのった音楽の神様」の意味があって、ご両親の夢がこめられた命名の道を歩かれているように思いました。

 ヤンジンさんは大学で思いもよらない虐めに遇われます。

 「チベット人は山の中で暮らして野蛮だとか、汚い、バターくさいとか言って嫌がられましたが、チベットには、化粧水とかいうものは、庶民には手に入りにくく、肌を守るために顔中にバターを塗る習慣があって、最高の美容クリームですよ!奥さんも試してみてください」と、同行していた私の妻に話されました。
一度、虐めていた男子生徒を殴られたそうですが、「チベット人はやはり野蛮だ」となって同級生から避けられる状況にあったとのこと、その時先生に相談して解決を図られます。経済的な面の厳しさや、同僚の厳しい視線に何度も退学を考えられたそうですが、目標があったから乗り越えられたと語られました。

大学に残って教えていたころ、留学で来られていたご主人になられる方と出会われ、日本での生活を決意されます。来日され想像を超えた日本の物質的な豊かさに衝撃を受けられます。


 「掃除機、洗濯機、炊飯器など生活の全てが機械化され、人間がどうしてこんなものを作れるか理解できませんでした。チベットでは、バスは早くて便利だと思っていましたが、新幹線に乗ってバスが遅いことに気づきました」と、当時の印象を語っておられます。

 日本の学校についても、チベットの母校とは対照的に明るく雨風の影響のない教室、きれいな校舎に驚かれ、学ぶ環境に恵まれている日本に畏敬の念を抱かれます。
来日されたとき、最も驚いたのは親子喧嘩でした。チベットでは食べ物が無くても、服がボロボロでも恥ではないそうですが、兄弟喧嘩や親子喧嘩は一番の恥とされ、親に反抗することは最低な人間と見なされます。

 「喧嘩をするならチベットに帰ります!」と言ってことを収められたのですが、ご両親との同居について伺いますと「自分が愛した人を生んでくれた人だからもっと大切にしなければならない、チベットでは当たり前のことです」と語られました。
 

勿論、親が尊敬できる生き方をされているからですが、日本では、一人で大きくなったような感覚しか持たず、その恩も忘れて親に対応することがよく見られます。

 日本に来て、小魚を頭とも食べてしまうことに驚かれていました。

 

 チベットでは魚は貴重な食べ物として崇められているそうです。「それでも魚の形がわからないマグロの刺身は大好きです。」と、ご両親との生活を語られました。

 お父さんがご飯にチリメンジャコをかけて食べるのを見られ「何て残酷な人だ」と感じたり、お母さんにチベットの食べ方を味わってもらおうとご飯に砂糖とミルクを混ぜて出されたとき、お母さんに「絶対いや」と拒絶されたりの体験から、異文化の中で過ごすには、自分の価値観を通すのではなく、違っているものを素直に認め合い受け入れることが大切だと語られています。

 人も一人一人違っていてあたりまえ、その人のあるがままを受け入れようとするところから人間関係が育まれていくのではないかと教えられました。
 

作家で医学博士の養老孟司先生の恩師の先生が「相手の気持ちを理解できる人を教養ある人という」と語られたという言葉がありますが、深みのある言葉です。

「豊かなことは悪いことではありませんが、日本の子どもには感謝する気持ち、言葉がないように思います。国を愛し、親や、家族を愛することは生きる上で最も大切なことです。チベットは家庭のしつけが大変厳しく、家の仕事を手伝うことは当然で、年上の人への礼儀も大事なことで、来客への対応は玄関まで送り迎えする習慣があります」と結ばれました。

違いがわかっていても、受け入れるとなると容易でないことを体験していますが、貴重な出会いになりました。先日、来福された折りにもお会いしましたが、ダライ・ラマ師に命名されたというご長男の成長を楽しみにされていました。

私が国民教育の父森信三先生の名前を知りましたのは、(教壇に立ちながら恥ずかしい話ですが、)15年目の時に参加しました生徒指導の研修会で、講師の先生が『修身教授録』(致知出版社刊)を紹介され、そのなかから森先生の指導を紹介されたときでした。


教育者の一人として、かすかにお名前の記憶があるぐらいで、どんな先生かは全く知りませんでした。

 当時、生徒指導に苦慮していた私は、生徒の愚痴をこぼしてばかりで、現況を説明しながら、どうしたら成果の上がる生徒指導が出来るのかを質問しました。


 講師の先生が、森信三先生の『修身教授録』のなかに、こういう指導がありますと諭されました。

 森先生は、「厳しい事情はよくわかりました。それであなたは今、何をしておられますか?と問い返され、続けて、仮に大講堂が停電になって、真っ暗になったとします。そのとき、5ワットの電灯一つ、ローソク一本あれば、手探り、足探りせずに講堂の人たちは外に出ることが出来る。あなたの言われた状況の中で、あなたはなぜ、ローソク一本を立てようとされないのですか。その気持ちがないのですか」という一節を引用されて、解決のために何をしたのかと問われ、はっとしたのを思い出します。 


 私の転機になりました。困難なことにぶつかると、逃げたり不満をこぼすのでなく、そのために何をしたかと思うことで、冷静に前向きになれることを学ぶきっかけになりました。


 早速、書店で『修身教授録』を買い求め、森信三先生の薫陶を受けられた方から、直接森先生のことをいつかお聴きしたいと思い、今から10年ほど前の7月下旬の暑い日、岸和田在住の寺田一清先生を訪ねました。そして、学生時代に直接指導を受けられた兵庫県養父市在住の村上信幸先生を今夏訪ねました。


 皆さんが、理学療法士、作業療法士になるためというよりも、なられた後に極めて参考になる話を伺いましたので紹介します。


 教育者にあらず、宗教家にあらずと、自分を一つの枠で縛られることを嫌われる森先生は、人間の幸せについて、「自分の成すべき事を何よりも先に行うこと。そして、最後まで仕上げること。併せて、そのことが人の役に立つこと。人に必要とされていることでなければならない。もう一つは感謝すること」と力説されていたそうです。


 日本で最も潰したくない大切にしたい会社の一つにあげられている日本理化学工業という会社が神奈川県の多摩川沿いにありますが、昨年夏に訪ねました。従業員の7割が知的障害者で、学校等で使うチョークを作って半世紀になる会社です。


 工場の敷地の一角に「働く幸せの像」という、彫刻家松阪節三さんが制作されたモニュメントがあります。その台座に創立者で現会長大山泰弘さんが、人間の究極の幸せについて言葉を刻まれています。その言葉は、大山さんが、ある方の法事のために禅寺を訪れ、寺の住職と談話する機会があって、工場にいる知的障害者が、なぜ施設より工場に来たがるのか問われた時に、住職から聞かされた言葉でした。


 住職は「人間の幸せは物やお金ではありません。人間の究極の幸せは、次の四つです。一つは人に愛される(感謝される)こと。二つ目は、人に褒められること。三つめは、人の役に立つこと。そして、最後は、人から必要とされること。施設で保護されるより、工場で働きたいという思いは必要とされ、役に立っているという思いからでしょう」と答えられたそうです。


 いずれも、自分で限りを尽くして頑張らなければ得られないことですが、人間はどうしてもうまくいかないと周囲に不満をこぼしたくなります。


 森先生の「悪い欲を持たず、愚痴を言わず、怒りを抑えて」という生活信条の一端を寺田先生が語られました。
森先生は、生徒へは怒るということはありませんでしたかという問いかけに、「烈火のごとく怒られることも屡々で、それはとにかく厳しかったが、優しさもそれ以上でした」と、森先生の指導を直接受けられた村上先生は、その指導された光景をしっかり記憶されていました。


 叱る場合も「君ともあろうものが」と、相手に敬意を表して叱責されたことや、良いことに対しては「さすが君だなあ」と、畏敬の念を抱かれて褒められたという話を伺って、ちょっとした言葉が人を育てることを改めて教えられた気持ちになりました。


 もう少し早く聞いておけばと後悔しましたが、皆さんが関わる患者様に対しても、リハビリに一生懸命になれない人、前向きにリハビリに取り組む方には、この対応は大切かなあと思います。

 さすが何々さんだ!心に留めておいてください。弱っている人にとっては、直接関わる人の温かい励ましや、褒められる言葉は計り知れない力になります。


 寺田先生の住まれる岸和田には関西空港から電車で15分ほどで着きます。自宅まで住所を頼りに訪ねていく予定でした。飛行機の時間だけお伝えして、一応の訪問時刻は何時ぐらいという程度で打ち合わせていたにも関わらず、改札口で待たれておられた姿に感動、感激でした。それは、村上先生についても同じでした。


 寺田先生は、岸和田の商店街で呉服商を営まれて、38歳の時に森信三先生と会われ、その後師事されて『森信三全集(続編含めて全八巻)』の責任編集をされています。また、各種の『読書会』を主宰されています。呉服商は時代の波にのまれて60歳で廃業されています。


 村上先生は、神戸大学で森先生の薫陶を受けられた後、小、中、高校で教師をされ、折々、森先生、郷里の偉大な教育者東井義雄先生の教育を語られておられます。


 森信三先生について寺田先生からお話を伺いながら、最も記憶に残った言葉が「全ての悩みは比較から生ずる。人と比較しない」、自分のあるがままに生きることが大切だということでした。


 両先生とも、森先生の根底には常に「人生二度なし」という冷厳な人生訓を語られました。死という残酷なる平等のなかで、「時を守り、場を清め、礼を正す」という、時との関わり(時間)、場との関わり(空間)、人との関わり(人間)を大切にと諭されていました。併せて、「挨拶をする」「呼ばれたら返事をする」「履き物をそろえる」という生活指導を徹底されました。


 寺田先生は、感謝と足るを知る。足るを知るというのは、決して現状に満足するのではなく、全てを受け入れるということを添えられました。


 村上先生が学生時代の思い出として、研修旅行についてこられた森先生が、入浴の時間に入ってこられて、背中を流しましょうと学生に関わられたことを語られました。


高い位置から学生を見ないで、対等に触れ合う姿勢が伺えます。

「働く幸せの像」に期された四つの言葉を、天職を通して味わう準備をしてください。