両腕は失っても夢は失わない ~ 画家 水村喜一郎さん | 清々しく、やさしく、丁寧に、力強く生きる  長瀬泰信

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~人は言葉により励まされ、癒され、自分の世界を築いていく~

「努力する者は希望を語り、怠ける者は不満を語る」の言葉を再確認の出会い




静岡県藤枝市で講演の後、静岡体文協事務局長の佐野つとむさんに連れられて、講演会場近くの小料理屋に入りました。壁に掛かっていた一枚の重厚な絵に目を奪われていると、佐野さんから「絵、わかりますか?」と声をかけられました。


絵についての知識も造詣も全くなく、表現された芸術作品はその人の人生を背負っているという私のなかにある、ある種の琴線に触れたのかも知れません。


黙って見入っていますと、この絵の作者が両腕がない人であることを佐野さんからお聞きして、その生み出すエネルギーの源は何かを知りたいという思いがこみあげて訪ねていきたいという衝動にかきたてられました。


両腕を失っても絵を描くという奇異な存在というよりも、それ以上に言葉では表現出来ない魅力を絵が醸し出していました。



一昨年の秋、その画家水村喜一郎さんの住む千葉県鴨川市花房の画邸を訪れました。訪問のお願いの何度かの手紙のやりとりのなかで、芸術家は気難しいという私の先入観は払拭されていました。


東京都の隣県千葉といっても、房総半島の最南端は相当遠く感じます。羽田空港から東京湾高速道路が割引になったこともあって、レンタカーで向かいました。


水村さんは、小学校3年の時に、学校近くの変電所で2万2千ボルトの高電圧電線に触れ、両腕を失った画家です。


今の時代なら考えられないほど危険場所が不用意にあって安易に近づけた時代でした。左手から右手に電流が走り抜け、命に関わる損傷を負われますが、医者も驚くほどの奇跡的な回復力で助かります。


中学では腕を失ってのハンディキャップをもろともせずサッカー部で活躍され、人望と卓抜したリーダーシップで主将まで努めています。かって、松本サリン事件第一通報者河野義行さんを訪ね、衝撃的な言葉が脳裏に刻まれたことと重なりました。


犯人にされたときの心境をうかがったときに、「それも神の意志なら受け入れよう。必要と有れば救われるであろうという心境でした」と答えられ、犯人に対しては「怒り、恨みのぶつけるエネルギーがあれば家内の看病に使います」と、淡々と話され、オウム真理教信者から改心され植木職人になられた人に庭の手入れを許されておられます。


神は河野さんに試練を与えられ、心ある人の灯台になることを強いたのかも知れないと、河野さんのお叱りを受けそうですが、そう感じました。


同じように、水村さんにも「失ったものを悔やむより、与えられた条件を最大限に生かしなさい」という、神の言葉の実践者として水村さんに命じたのだと、話を伺いながら感じました。


筆を口でくわえ、絵の具は足を器用に使って大きなカンバスに描きたいという衝動のまま筆を走らせます。


全く語られませんでしたが、大切なお子さまを交通事故で亡くされています。家族の写真に話を向けたときに、その辛さが大きいのか「話すと辛い」と遮られました。子どもさんへの熱い思いは、喘息を患った子どもさんのために、生活の場を東京から房総半島南端の鴨川に変えられたことで充分伝わってきます。


画廊から遠くに広がる太平洋を眺めながら、『月の沙漠』『里の秋』などの童謡は、房総の風景から生まれるたことを教えられました。ラクダ、王子様、お姫様が月明かりの沙漠を往く風景は、アフリカか中近東の異国のなかで作られたと思っていました。


人を訪ねて、思わぬセランディピティ(掘り出し物の意)に出会うことがありますが、何か特別な知識を得た快感が走りました。


家族4人でのスペイン旅行で、傍でデッサン用の鉛筆を削られた奥様が、昼食時間を挟む形で訪れた不謹慎な私に昼食を用意される。水村さんと2人で食べながら、必要以上に手を差しのべないその姿に感動さえ感じました。


コップに注がれたビールを器用に飲まれる姿に、出来ないと決めつけないで出来るようにするという努力の成果が、他者を感動させることを学んだ瞬間でした。


「傘をさすぐらいが一人で出来ないぐらいです」と言われ、お茶も容器を傾けて器用に飲まれます。一緒に伺った行きつけの飲み屋さんでも、お店の方が普通のコップに注がれた酒を違和感なく口だけで飲まれました。


「腕を失って、人に感謝することを覚えた」と、人の支えなしには生きられないことを体得した言葉を発しながら笑われます。


水村さんと語らいながら、実にいい出会いをされていることを感じた。水村さんのお人柄と風貌からくる人間的な魅力が人を結びつけているのかも知れません。


養護学校時代の伊藤久吉先生は、水村さんの人生の根幹をなしていて、大学進学について、家庭の事情を踏まえての進路指導に関わられ、入学金の配慮だけでなく、水村さんを献身的に支え、先生の郷里山形まで連れて行かれています。そして、中村天風という稀世な偉大な人物との出会いの旅を計画し、京都まで連れて行かれ、人としての生き方を諭されます。まさに人間道を歩む出会いとなっています。


人が人を結びつける、繋げるといったほうがいいかも知れません。その繋がりで、損得や謀のしがらみが生まれる場合もあり、時にはそのために舞台から引きずり降ろされたり、厳しい道を強いられることも日本の風土には存在しています。


キッコーマンの茂木社長が、「日本では、いい人というのは、自分にとって都合がよいかどうかは重要な要素であるが、アメリカでは倫理観、正義感の高い人がいい人である」と話されたことを記憶していますが、長く生きていると、ほんとうにそうだなあと感じることが多いように思います。


私が救われているのは、その域に踏み込まない常に人間道を歩まれる方々との繋がりに支えられている、というより、埋没を思いとどまらせてくれています。


水村さんの話に戻ると、私も中村天風師については少々囓っていたので話が展開しました。中村天風師は、過酷な『行』をインド奥地でして、その時の体験で得た死生観、人生観の言葉が力になって、多くの人々に勇気を与え続けてきた偉大なる人です。


水村さんも、この時の出会いで、自分の感情の決定者は自分であり、マイナス思考ではなく、前向きに生きていく気力が確立したことを語られました。


水村さんが、大きな障害を背負いながら、出来ないことをそのせいにせず、どうしたら出来るようになるか、そしてその努力をしながら必死に乗り越えられてきた生活を伺い、「怠ける者は不満を語り、努力する者は希望を語る」という言葉を再確認した出会いでした。他人の責任にしたり、言い訳は何一つ成長に繋がらないし、自分を弱くしていく。


鳶職のお父さんは、後継ぎにと腕を失った後も願っておられた。しかし、水村さんが小さい頃から絵を描くのが大好きな気持ちをお母様がしっかりと支えられていました。幼少の時の作品から高校時代の作品まで大切に保管されていました。


しかも、父親の職人気質から来る横暴さにも耐えて、お母様のひたすら明るく振る舞われプラス思考の生き方が、水村さんの人生に刻まれていきます。


個展を開けるようになって、銀座の現代画廊で個展を開いたことが縁で、随筆家岡部伊都子さんから激励の手紙が届きます。お礼にと岡部さんが京都を訪れたときに、作家水上勉さんからいただいていた和紙、竹和紙を差し出された。それに絵を描いて水上さんに見せたことで水上さんとの縁が出来、竹和紙にも描かれるようになります。竹林で筍が成長に併せて一枚一枚皮を脱ぎ捨てたものを集めて漉いた竹和紙は一枚一枚表情が違うと言われます。 水上勉さんから高い評価を受けた絵が価値を生んでいきます。


水村さんの絵は、旅で出会った風景や鴨川での生活で見られる魚、農産物が絵の対象となっています。その絵が描かれている竹和紙の地が、音楽のBGMのような役割を果たしているという表現は、水村さんに失礼ではないかと躊躇いを覚えながらエピソードとして披露しました。


水上さんとの出会いで、息子でもある無言館、信濃デッサン館を主宰する窪島誠一郎さんと出逢います。


この無言館と信濃デッサン館は上田市郊外にあり、戦争で舞台に立てなかった美大の学生の遺作が掲げられている無言館と、夭折の画家の作品が展示されている信濃デッサン館は、信州の素敵な風景のなかで燦然と輝きを放っています。


時々この地を訪れていますが、命を奪われた方々の作品を前に生かされていることに感謝して、必要とされるところでささやかながら力を尽くしたいと決意することでした。



無言館:美術学校、独学で美術を学んでいた学生が戦争にかり出され、若くして戦没した画学生の遺作(遺品を含む)を集めた美術館。場所は上田市塩田平というところですが、別所温泉が近くにあります。名古屋からだと松本から車で一時間半、鹿教湯温泉郷を抜けて、上田市の生活道路から山道に入りますが、近づきますと道路沿いに案内表示がしてあります。入館料は千円。窪島誠一郎館主は作家水上勉氏の息子で、水上勉さんがかって東御(とうみ)市(上田市と小諸市に挟まれた地域)に住んでいたことが縁となっています。灯りを抑えた館内が独特の雰囲気を醸し出しており、表現の場を奪われただけでは済まされない感情がこみ上げてきます。近くに信濃デッサン館もあり、ここには夭折の画家の作品が展示されています。


退職して2年余の歳月が流れ、何かにとりかかるには相当のエネルギーが必要と勝手な言い訳を用意して逃げる一方で、いたずらに歳月が流れることを恐れて、何か力を与えて欲しいと願っているときでした。