秀吉は、朝鮮国王から天下統一を祝す国書を受け取りましたが、その朝鮮に秀吉は「先駆入明」、つまり、日本軍に先駆け、中国の明に攻め入れと命じています。
これまた、朝鮮が従属したと思った秀吉としては、日本の戦国時代の常識に従ったまでのことです。
困った義智は朝鮮出兵の前年、「先駆入明」ではなく、「仮途入明」でよいからと、朝鮮を説得します。
日本軍の「入明」に際して道を貸す、すなわち、日本軍が朝鮮国内を通過するのをただ黙って見ているだけでいいというのです。
しかし、朝鮮に突っぱねられ、いよいよ、文禄・慶長の役が勃発します。
慶長三年(1598)八月に秀吉が亡くなるまで、ほぼ足かけ七年にわたり、朝鮮半島が戦場となりました。
秀吉の死で日本軍は朝鮮・明と停戦合意し、兵を半島から撤兵させましたが、その翌年、徳川家康は秀吉の時代に引き続き、義智に朝鮮との交渉を命じています。
ちなみに、義智の岳父が石田三成シンパの小西行長だったため、義智は関ケ原の合戦で西軍に与しましたが、朝鮮との交渉を委ねられていたことから許されています。
ところで、停戦合意したとはいえ、朝鮮にとって日本は国を蹂躙した憎むべき国。
その朝鮮との国交修復は困難を極めましたが、義智はなんども朝鮮へ使者を送り、忍耐強い交渉が功を奏しました。
慶長一二年(1607)、日本に呂祐吉を正使とする朝鮮の使節がやって来たのですが…。
(つづく)
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