天才絵師「葛飾北斎」の謎②[画号を売る] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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 北斎が好んで住んだ本所は、かつて葛飾郡に属していました。

 

 「葛飾」の姓はそれに関連するとされていますが、本姓は「川島」もしくは「中島」。

 

 武士の家の生まれであったともいわれます。

 

 母は、赤穂浪士の討ち入りに登場する小林平八郎(吉良上野介の家臣)の孫だという説もあります。

 

 その北斎は、六歳の頃に絵に目覚め、版木の彫り師や貸し本屋の小僧などを経て、絵師となりました。

 

 やがて、著名な版元・蔦屋重三郎に見いだされ、売れっ子絵師への道を歩みはじめるのです。

 

 画号の「北斎」は、彼が妙見(北斗星)を信仰していたことに因むためですが、これは一時的なペンネーム。

 

 『葛飾北斎伝』(以下、北斎伝)によりますと、

 

「北斎翁、名を門人に譲りて、若干の報酬金を得るを常とす。ゆえに貧困極まれば、すなわち名を譲る」

 

 とあります。つまり、生活に困窮したら、画号(ペンネーム)を弟子に売っていたというのです。

 

 ちなみに、北斎伝は、その没後から半世紀近くたった明治の時代、飯島虚心という旧幕臣が晩年の北斎を知る人たちの証言などをもとに著した伝記です。

 

 北斎伝によると、売れっ子になった北斎の収入は、絵本類一帳で金一分(いちぶ)。一般の画家の二倍の報酬を得ていました。

 

 それでどうして貧乏暮らしだったのでしょうか。