葛飾北斎はご存じ、『富嶽三十六景』に代表される浮世絵のほか、読み本(小説)の挿絵、『北斎漫画』(絵手本)や肉筆画を、九〇歳で世を去るまで書きまくった天才画家です。
昨年の二〇一六年暮れには、今年の干支である鶏が描かれる肉筆画「鶏竹図(けいちくず)」が見つかっています。
東京の美術商が十一月末、デンマークでの競売で落札したもの。
鹿鳴館を設計した英国人建築家ジョサイア・コンドルの旧蔵品とされ、日本では存在がほとんど知られていませんでした。
また、北斎といえば、生涯、「北斎」の画号を含めて計三〇回以上ペンネームをあらため、引っ越しは計九三回に及んでいます。
一九九八年には、アメリカのグラフ誌『ライフ』で「この千年に偉大な業績を挙げた世界の人物一〇〇人」に、日本人として唯一選ばれてもいます。
ところが、これだけ有名で売れっ子画家だったにもかかわらず、生涯、ゴミが散らかる長屋暮らしをつづけた「奇人」でもあります。
それだけに、北斎という人物そのものが多くの謎につつまれています。
その謎のひとつに、ドイツ人医師シーボルトとの交流があります。
その謎がこのほど、日本から遠くはなれたオランダで解き明かされました。
それではまず、北斎の生涯を振り返ってみましょう。
北斎は宝暦十年(1760)、本所の割下水(墨田区)で生まれました。
前述のとおり、北斎は生涯引っ越しを重ねますが、それでも、記録から確認できる引っ越し先は本所界隈に集中しています。
いまでいうなら北斎は、生粋の下町っ子ということになるでしょう。
(つづく)
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