信長・光秀・秀吉・家康に仕えた「蛍大名」の謎(最終回)[家康との密会] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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人生最後の最後に、自身の選択で“勝ち組”となった高次ですが、これまでの経歴が経歴だけに、みてきた動きからは、確固たる判断のもとに裏切り行為に踏み切ったようには思えません。


どうしても、優柔不断な性格ゆえに日和見していただけにみえてしまいます。


実際にどうだったのでしょうか。


高次の妻お初の妹お江(前出)は秀吉の養女ですが、当時のちに二代将軍となる徳川秀忠の正室になっていました。


つまり、高次は豊臣家のみならず、徳川家とも縁続き。


高次がいったん西軍の北陸平定軍に従った理由について、


「大津城主京極殿、将軍様(家康のこと)と御入魂(ごじっこん)にて候へども、少身ゆえ、いったん治部(じぶ)(しょう)(三成のこと)下知にしたがい(後略)」


と江戸時代の史料に記されています。


しぶしぶ西軍方として振る舞ったものの、初めから東軍につく意志であったというのです。


言い訳がましい説明ですが、会津遠征のために上方を発った家康が高次の大津城へ立ち寄り、


「密事、御密々に御契約これあり」


と京極側の史料に記され、このほかの史料でも家康の大津城立ち寄りが確認できます。


そこで事前に家康と何らかの打ち合わせができていたのかもしれません。


 だとすると、まったく優柔不断な性格ゆえの判断ともいえないような気がするのですが、いかがでしょうか……。



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