「鍵屋の辻」の仇討ち!―その謎と真相①[三十六人斬り] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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曽我(そが)兄弟と赤穂(あこう)浪士といえば「仇討ち」。



ただ、日本三大仇討ちと聞いて、残るひとつを「伊賀越えの仇討ち」と答えられる人は少ないのではないでしょうか。



この仇討ち、「鍵屋の辻の仇討ち」ともいいます。



伊賀国上野(伊賀市)の鍵屋の辻(奈良街道と伊勢街道の分岐点)がその現場です。



剣豪荒木(また)()衛門(もん)(いみな)(やす)(とも))が助太刀し、「三十六斬り」を演じた――といえば、“ああ、あの講談や時代劇映画でおなじみの仇討ち……“と、思い出す方もいらっしゃるのではないでしょうか。



たしかに、一人で三十六人を斬りまくるというのは凄い話。



それなら、日本三大仇討ちにカウントしてもよさそうですが、もちろん、その話は粉飾されています。



では、この仇討がなぜ、赤穂浪士の討ち入りと並び称されるのでしょう。はたまた、その真相とは――。



今回は、この仇討ちの真相を探ってみようと思います。



寛永七年(1630)七月二十一日の暮れ、池田家(岡山藩)の藩士河合半(かわいはん)()衛門(えもん)の息子(また)()(ろう)が藩主池田(ただ)(かつ)の小姓(げん)太夫(だゆう)を殺害しました



一般的には、又五郎が藩主忠雄の寵童だった源太夫に男色の関係を迫り、断られて逆上したといわれていますが、池田家に伝来した史料によると、又五郎は源太夫を呼び出し、四人がかりで斬ったといいます。



計画的な闇討ちだったとする史料もあります。

(つづく)






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