慶長五年(1600)、高次が三十八歳のときに人生最大の選択をしいられます。
関ヶ原の合戦で、東軍につくか西軍につくかの選択です。
結果、彼は紆余曲折の果て、東軍方に与することになりますが、その紆余曲折というのが曲者です。
彼の行動を追ってみると、高次はまず、西軍・石田三成の要求に応じて人質を大坂城へ差し出し、次いで、西軍方として二〇〇〇の兵を率いて北陸へ遠征します。
敦賀城主で三成の盟友である大谷吉継の北陸平定軍に従い、出陣した形です。
ところが、吉継は北陸から美濃の関ヶ原方面へ軍を転じたものの、高次はそれに従わず、九月三日日、北陸から大津城に帰城します。
そして、すぐさま「(西軍と)手切れあるべくの由」を東軍の大将家康の重臣井伊直政らに告げたのです。
こうして西軍を裏切り、東軍方につきました。
この高次の人生二回目の裏切りによって、関ヶ原へ進軍する予定の西軍の一部が、籠城する大津城を攻めたため、西軍は軍勢の数で東軍を圧倒できず、そのことが関ヶ原の戦況に大きく影響しました。
合戦後、家康はこの高次の戦功を評価し、若狭小浜で八万四〇〇〇石を与えたのです。
人生最後の最後に、自身の選択で“勝ち組”となった高次ですが……。
(つづく)
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