高次は天正十五年(1587)、近江大溝(高島市)の城主として一万石に加増されて大名となります。
同十八年(1590)には、近江八幡へ国替えとなったものの、知行高は二万八〇〇〇石へ加増されました。
そして、文禄四年(1590)、近江大津城主として六万石の知行をえます。
官位も、従五位下侍従から従四位下近衛少将とトントン拍子にあがり、最終的には従三位参議にまでのぼりつめます。
参議の唐名は宰相。のちに初代若狭藩主となったことから、若狭宰相と呼ばれています。
その間、浅井長政の次女お初を妻に迎えています。
高次の母は長政の姉ですからから、従妹同士の婚儀となります。
なにしろ、妻お初の姉は、秀吉の第二夫人である淀殿、妻の妹お江は秀吉の養女。
そして、繰り返しになりますが、姉は秀吉の側室。
つまりは、トントン拍子の出世も、“姉や妻の七光り”という面は否めず、“蛍大名”と陰口を叩かれています。
“はずれ籤”ばかり引いてきた男が、姉や妻のおかげでようやく、“あたり籤”にたどりつけたわけですが、慶長五年(1600)、三十八歳のときに下した人生最後の選択だけは誤りませんでした。
(つづく)
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