信長・光秀・秀吉・家康に仕えた「蛍大名」の謎③[三十八歳の決断] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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高次は天正十五年(1587)、近江大溝(おおみぞ)(高島市)の城主として一万石に加増されて大名となります。


同十八年(1590)には、近江八幡(はちまん)へ国替えとなったものの、知行高は二万八〇〇〇石へ加増されました。


そして、文禄四年(1590)、近江大津城主として六万石の知行をえます。


官位も、(じゅう)五位(ごい)下侍従(のげじじゅう)から(じゅう)四位(しい)(のげ)近衛(このえ)少将(しょうしょう)とトントン拍子にあがり、最終的には(じゅ)三位(さんみ)参議(さんぎ)にまでのぼりつめます。


参議の唐名(からめい)は宰相。のちに初代若狭藩主となったことから、若狭宰相と呼ばれています。


その間、浅井長政の次女お(はつ)を妻に迎えています。


高次の母は長政の姉ですからから、従妹同士の婚儀となります。


なにしろ、妻お初の姉は、秀吉の第二夫人である淀殿、妻の妹お(ごう)は秀吉の養女。


そして、繰り返しになりますが、姉は秀吉の側室。


つまりは、トントン拍子の出世も、“姉や妻の七光り”という面は否めず、“蛍大名”と陰口を叩かれています。


 “はずれ籤”ばかり引いてきた男が、姉や妻のおかげでようやく、“あたり籤”にたどりつけたわけですが、慶長五年(1600)、三十八歳のときに下した人生最後の選択だけは誤りませんでした。


(つづく)




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