信長・光秀・秀吉・家康に仕えた「蛍大名」の謎②[光秀と勝家] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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浅井氏の滅亡で近江に五〇〇〇石の知行を与えられた高次と今川義元の死で岡崎城を奪還した家康。


ここまで、この二人の境遇はよく似ていると思います。


しかし、ここから先、高次は家康と真逆の動きをします。


家康は信長との同盟関係を堅持していきますが、高次が二十歳になった夏のこと。


天正十年(1580)六月二日、信長が京の本能寺で明智光秀に討たれると、織田を裏切って光秀に呼応します。


しかし、ご承知のとおり、光秀は敗死。


それでも高次は近江から若狭へ逃れ、同国内で光秀を討った羽柴秀吉へ抵抗し続けます。


やがて高次は、越前の柴田(しばた)勝家(かついえ)を頼りますが、その勝家も、翌十一年(1583)四月、賤ヶ(しずが)(だけ)の合戦で秀吉に敗れて自害します。


いったん、お家再興はなったものの、そのあとの選択は“はずれ籤”ばかり。


ふつうなら、これで高次の出世の道は閉ざされ、その命運も尽きていたはずです。


ところが、姉竜子(たつこ)(一説には妹ともいわれます)がその美貌を秀吉に見初められ、側室(松丸(まつのまる)殿(どの))として上がったことから、ふたたび運が開けるのです。


高次は、秀吉から近江で二五〇〇石の知行をたまわりました。


それが天正十二年(1584)のこと。


それから高次の出世がはじまります。


(つづく)




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