鎌倉幕府の三代将軍には、頼家の弟で、やはり政子が生んだ実朝が就きました。
しかし、建保七年(1219)、実朝は、鎌倉の鶴岡八幡の境内で頼家の子公暁に殺されます。
公暁は竹御所の異母兄にあたります。
彼女が十七歳のとき、このように異母兄が叔父を殺害する骨肉の争いにふたたび巻き込まれたのです。
この運命に翻弄された孫娘を、さしもの政子も放っておけなかったのでしょう。
政子は彼女を大切に育てたようです。
両親の殺害に関係した祖母ではありましたが、その政子が亡くなったとき、竹御所は実母に準じ、一年間、喪に服していたといいます(角田文衛著『平家後抄』下巻参照)。
その政子の遺言もあったらしく、竹御所は寛喜二年(1230)十二月、すでに四代将軍の座に就いていた頼経の御台所(正室)となりました。
このとき、竹御所は二十八歳。
一方の将軍頼経はわずか十三歳でした。
当時の二十八歳といえば、婚期を逃した大年増。
十六歳も年下の少年と結婚したことになりますが、おそらく竹御所は、はじめから頼経の正室になるべく、政子によって養育されていたのでしょう。
鎌倉幕府将軍から源家の血筋は絶えたものの、竹御所を御台所にすれば、正室を通じて源家の血脈を保てると、政子は考えたのではないでしょうか。
(つづく)
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