毛利の吉川広家の密使は八月二十日以降、家康の返書を携え、長政の陣へ馳せ戻ります。
そして、二十五日になって、長政が新たにしたためた書状を持たせ、密使を広家のもとへ送り返しました。
決戦前夜(九月十四日)、慌ただしく広家の使者が長政の陣所を訪れ、にわかに内応を申し入れたようにみえますが、実際にはこうして一ケ月以上も前から、その準備が行われていたことになります。
一方、この間、九州の如水は広家に、
「表の様子つぶさに仰せ聞かされ、一人御下し候へ」(=中央の情況をつぶさに知らせる使者を差し遣わしてもらいたい)」
さらには、
「日本いかさま替候えども、貴殿(広家)吾等は替り申すまじく候」(=合戦の結果がどうなろうとも、吉川家と黒田家の関係に変わりはない)
などと手紙を送り、連携を密にしています。
むろん、広家は、こうした如水からの手紙を受けて行動していたはずです。
また、長政も、前述したように「吾と志を同くし、内府(家康)へ忠を尽さん」という如水からの指示を受けていたと考えられます。
だとすると、如水は九州にいながら、遠方の長政と広家をいわば遠隔操作し、毛利を南宮山に封じ込めることに成功したといえるのではないでしょうか。
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