「関ヶ原の合戦」と「黒田父子」の謎④[家康の返書] | 跡部蛮の「おもしろ歴史学」

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上方を発した広家の密使が伊勢神宮の下級神職(を装い、東へむかっていたころ、長政は、東軍の先鋒部隊として東海道を西上していました。


広家の密使は、小田原付近で長政に会い、広家の密書を渡すことに成功します。


そして、長政は密書を受け取るや、すぐさま家康へ密書の内容を伝えようとします。


広家の密使に黒田家の家臣を添え、家康のもとへ遣わし、密書を家康へ回覧したのです。


家康は江戸で、その広家の密書を受け取りました。


家康は八月八日、


「吉川殿よりの書状、つぶさに披見せしめ候」


という返書をしたため、密使に託します。


その家康の返書を意訳すると次のようになります。


「(毛利)輝元殿を兄弟のように思っていたのに、(敵方についたと知り)、不審に思っておりました。しかし、それが輝元殿の意志でないことがわかり、満足いたしました」


 こうして八月上旬の時点で広家と家康はすでに、長政を通じて水面下で結託していたことになります。


(つづく)




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