上方を発した広家の密使が伊勢神宮の下級神職を装い、東へむかっていたころ、長政は、東軍の先鋒部隊として東海道を西上していました。
広家の密使は、小田原付近で長政に会い、広家の密書を渡すことに成功します。
そして、長政は密書を受け取るや、すぐさま家康へ密書の内容を伝えようとします。
広家の密使に黒田家の家臣を添え、家康のもとへ遣わし、密書を家康へ回覧したのです。
家康は江戸で、その広家の密書を受け取りました。
家康は八月八日、
「吉川殿よりの書状、つぶさに披見せしめ候」
という返書をしたため、密使に託します。
その家康の返書を意訳すると次のようになります。
「(毛利)輝元殿を兄弟のように思っていたのに、(敵方についたと知り)、不審に思っておりました。しかし、それが輝元殿の意志でないことがわかり、満足いたしました」
こうして八月上旬の時点で広家と家康はすでに、長政を通じて水面下で結託していたことになります。
(つづく)
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