奉行所が調べはじめると、絵島の不行状が次々と明るみにでてきました。
結果、遠島に処せられることになります。
しかし、月光院の願いによって罪は減じられ、信州高遠へ配流となったといいます。
むろん、絵島にも心あたる節はあったのでしょう。
とはいえ、“門限破り”という罪を犯さなければ、それまでの不行状が発覚しなかった可能性もあります。
つまり、政治を壟断する月光院と間部に反発する勢力が、絵島がしでかした“小さな綻び”を見逃さず、数十名に及ぶ大量検挙者をだす“大事件”にまで発展させたといえます。
では、反対勢力とは誰なのでしょうか。
おそらく、前将軍家宣の正室である天英院に、間部追い落としを図る老中らが結託しての企みだったのではないでしょうか。
当時の処罰者リストをみますと、絵島の意を汲んで幕府御用達の呉服商人らが「船遊びあるいは狂言芝居等の事たびたび相催し」などとあり、正月の増上寺代参の帰りに山村座へ立ち寄る以前に、絵島と生島が密会している可能性は否定しきれません。
しかし、この熟年カップルどうしの“禁断の愛”が本当にあったのかどうかは疑わしいと思います。
記事冒頭の蒸籠の話も含めて、この事件が面白おかしく語られるうちに尾ひれがつき、スキャンダル好きな江戸っ子たちに受け入れられ、“禁断の愛”の物語に仕立てられたのではないでしょうか。
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