『徳川実紀』に、こう記録されています。
「後閤(大奥のこと)の女房絵島、宮路ともに親戚の家に召し預けらる。これは正月十二日、東叡(寛永寺のこと)、三縁(増上寺のこと)両山に詣づるとて、道より語らい合わせ、同じ女房等ともない、木挽町の劇場にまかり、薄暮に及びて帰りぬ。(中略)同じことにより、梅山、吉川等の女房七人禁固せらる」
ここでの絵島の処分はあくまで謹慎です。
羽目を外して“門限破り”したことへの責任をとらされたに過ぎませんでした。
したがって、事件はこれで終わるはずでした。
しかし、そうなりませんでした。
南町奉行の坪内定鑑が新たな捜査へ乗り出したのです。
そして三月五日になって判決が下ります。
『徳川実紀』から抜き書きしてみますと、
「身の行い正しからず」
「遊楽に耽り、御使奉わり他にいづるついで、また暇休み賜わりし折から、ゆかりなき家に信宿」
「俳優となれむつみ」
などなど。
調べはじめると、絵島の不行状が次々と明るみにでて、遠島に処せられることになるのです。
(つづく)
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